学習通信060921
◎リヴァイアサン……

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労働力

 さて、以上かなりおおざっぱにではあるが、価値つまりおよそ商品たるものの価値の性質を分析したので、つぎにわれわれは、労働の価値という特殊な価値に注意をむけなければならない。

そして、ここでも私は、逆説のように見えるものによってまたもや諸君をおどろかすにちがいない。

諸君のだれもがこう確信している。

すなわち、諸君が毎日売るものは自分の労働である、だから労働にはある価格がある、そして、ある商品の価格はその価値の貨幣による表現にすぎないのだから、労働の価値というようなものがきっと存在するにちがいない、と。

ところが、ふつう言われているような意昧での労働の価値というようなものは、なんら存在しないのである。

すでに見たように、ある商品に結晶した必要労働の量がその商品の価値を構成する。

ところでわれわれは、この価値概念を適用して、たとえば一〇時間の一労働日の価値をどのようにしてきめることができるのだろうか? この労働日のなかにはどれだけの労働がふくまれているのか? 一〇時間の労働である。

一〇時間の一労働日の価値は、一〇時間の労働、あるいはそのなかにふくまれている労働量にひとしいというのは、同義反復的な、それどころかナンセンスな表現であろう。

もちろん、「労働の価値」という表現のほんとうの、しかしかくれた意味をひとたび見いだすならば、われわれは価値のこうした不合理な、そして一見不可能に見える適用の意味を解きあかすことができるようになるだろう。

それはちょうど、ひとたび天体の現実の運動を確かめてしまえば、天体の外見的またはたんに現象的な運動を説明できるようになるのと同じことである。

 労働者が売るものは、直接彼の労働ではなく、彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。

だからこそ、イギリス法ではどうなっているか知らないが、大陸の諸法律のなかには、男子がその労働力を売ることを許される最長時間を定めているものがあるのである。

もしいくらでも無期限に労働力を売ることが許されるならば、奴隷制がすぐさま復活するであろう。

そのような労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をただちに彼の雇主の生涯の奴隷にしてしまうであろう。

 イギリスのもっとも古い経済学者で、かつもっとも独創的な哲学者の一人であるトマス・ホッブズは、すでに彼の『リヴァイアサン』のなかで、彼の後継者たちがみな見落としたこの点に本能的に気づいていた。彼は言う。


 「人間の価値すなわち値うちは、他のすべてのものについてとおなじく、彼の価格である。換言すれば、彼の力の効用にたいしてあたえられるであろう額である」。


 これを基礎にして進めば、われわれは、労働の価値を他のすべての商品の価値と同じように決定することができよう。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p140-142)

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第十章 力、価値、位階、名誉、ふさわしさについて


 「人間」の《力》(パウワー)とは〔一般的に考え て〕、彼が将来明らかに善であると思われるものを獲得するために現在所有している手段である。そしてそれには「本来的〈オリジナル〉なものと、「手段的」〈インストルメンタル〉なものがある。

 人間生来の「本来的力」とは、肉体的および精神的諸能力の優秀さにある。たとえば、異常な強さ、すぐれた容姿、深慮、技芸、雄弁、気前のよさ、高貴などがそれである。「手段的力」とは、上述の力または幸運によって得られたもので、より多くの力を獲得するための手段であり方法である。たとえば、富、評判、友人、また人が幸運と呼ぶ目に見えぬ神のはたらきなどがそれである。力はこの点において名声に似ており、高まるにつれ、いよいよ増大し、また重い物体の運動に似て、進むにつれて、いよいよ速度を増す。

 人間的な力の最大のものは、多数の人間が同意して、ただひとりの自然的または社会的人格にその力を結集するばあいである。これには、その一人格が多数の持つ力を用いるのに、たとえばコモンウェルスのばあいのように、その一人格者の意志にもとづくばあいと、他方、党派やさまざまの党派の連盟のばあいのように各人の意志によるばあいがある。したがって、召使を所有することも友人を持つことも力である。それは結合された強さだからである。

 また富が気前のよさと結びついたばあいも力である。それは友人や召使を獲得するからである。しかし、気前のよさがなければ力ではない。なぜならこのばあい、富は人を守りはせず、逆に彼を嫉妬の餌食にするからである。

 力があるという評判は力である。それは保護を必要とする人々を引きよせるからである。

 また自分の国を愛しているという評判〔つまり民衆に好まれること(ポピュラリティ)〕も同じ理由から力である。

 同様に、自分をおおぜいの人に愛させ、また恐れさせるあらゆる性質は力であり、またそのような性質があるという評判も力である。なぜならそれはおおぜいの人々の援助や奉仕を得る手段だからである。

 りっぱな成功も力である。それは知恵とか幸運を持っているという評判を得させ、その結果人々は彼を恐れたり信頼したりするからである。

 すでに力を持つ者の愛想のよさは彼の力を増す。それは愛をかちえるからである。

 戦争および平和にかんする行為において慎重であるという評判も力である。なぜなら私たちは慎重な人に、そうでない人のばあいよりも喜んで私たち自身を統治してもらうことを委任するからである。

 高貴(ノビリティ)も力である。しかし、それはあらゆる場所においてではなく、高貴が特権を持つコモンウェルスにおいてだけである。なぜなら高貴の人の力は、そうした特権にあるからである。

 雄弁は力である。それは深慮に見えるからである。

 容姿のよさもまた力である。なぜなら、それは善良さを予想させ、その結果、女性や見知らぬ人々の好意を得させるからである。

 学問はたいした力ではない。それは目だたないものであり、したがってどんな人のばあいでも認められるものではなく、少数の人々を除けばまったく認められず、その少数者のばあいですら、ほんのわずかのことがらにかんしてしか認められないからである。というのは、学問とは自分自身がかなり身につけていないかぎり、内容を理解しえない性質のものだからである。

 築城、武器の製造、その他公共の役にたつさまざまの技術は、防衛と勝利にかかわるから力である。そしてこれらの技術の真の母は、学問すなわち数学であるが、しかしそれらは技術者の手によって明るみに出されるために〔世間では産婆が母としてとおる〕、技術者の産物として評価される。

価値

 人間の「値うち」あるいは《価値》は、他のすべてのものと同様に彼の価格(プライス)である。すなわちそれは彼の力の使用にたいして支払われるであろう額である。

したがってそれは絶対的なものではなく、他人の必要と判断に依存している。

 軍隊の有能な指揮者は、戦時中とか戦争が切迫しているときにはひじょうな価格を持つが、平和のときはそうではない。学識があって清廉な裁判官は、平時には大きな価値を特つが、戦時中はそれほどではない。そして他のものと同じように、人間のばあいにも、売手ではなく買手が価格を決定する。たとえば人が〔たいていの人はそうなのだが、〕自分を最高の値段に見積もるとしても、彼の真価は他人が評価する以上のものではない。

 私たちがたがいに相手を評価するその評価の現われが、ふつう名誉を与えるとか不名誉を与えると呼ばれる。人を高く評価するのは彼に「名誉を与える」ことであり、低く評価するのは彼に「不名誉を与える」ことである。もっとも、このばあいの高さ低さは各人の自己評価との比較において理解されるべきことである。
(ホッブズ著「リヴァイアサン」世界の名著(23)中央公論社 p122-124)

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◎「労働者が売るものは、直接彼の労働ではなく、彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである」と。