学習通信061005
◎山本宣治の開いた労働学校……
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宣治の活勤は、こうして東奔西走の講演旅行ばがりではなかった。彼はまたこの間に──というよりは、すでに一、二年前から──いろいろな新聞や雑誌、さては当時ようやく普及しはじめたラジオ放送などにおいても、はなばなしい論陣を張り、あるいはユーモアたっぷりな評論を書きちらして、ジャーナリズムをさわがせた。何といっても彼がひっさげて立った《性》の問題は普遍的であり、いつの時代の人々にとっても興味のある問題だったのだ。
この執筆活動の上での、彼の主要な敵は、いうまでもなく頑固な政府当局であり、その背後に控えている軍部であり、また貪慾な大資本家であった。だがむろん、これらの敵を向うに廻して一般雑誌の紙上で真向から取組むということは、その原稿が屑籠へ放り込まれるのは覚悟の上としても、無数の弾圧法の真只中へ裸でとびこむようなムダなことであった。
いきおい、彼の書いたものは、一部の書斎派マルキストから、よた記事だの雑文だのと軽蔑され、さてはよた記事と用足りぬとをもじって、ヨータリンだと罵られたこともあった。じっさいまた、この年に出版された《恋愛革命》という単行本などは、当時の彼の真剣な実際活動にくらべて、いちじるしく暢気な筆致で書かれた一、二年前の文章を寄集めて一冊にしたものだった。
だが彼には彼なりの考えがあったのだ。誰も彼もが、そう一直線に前進するものではない。《一般に生物の行動は、前進に対する抵抗最少なる線または最少と本能的に感じた線に沿うており、その跡をたどれば、たいてい釘の折の配列や、またはミミズののたうちまわった跡にも似た複雑な曲線になっている。このような見地からみれば、感激にみたされた文学青年どもの考えている芸術的受難や思想上の殉教は、ただ抽象的に考えた幾何学の直線のように、たぶん観念の境の中にのみ存するものであろう》──これが彼の実感だった。むずがしい論文を一人に読んでもらうよりも、彼の書く程度のものを千人が興味をもって読んでくれる方が、むしろ全体としての前進のために役に立つ。こんな立場から彼は、一流の皮肉な調子で次のような文章を書いたこともあった──
《現在日本における多数の結婚生活は、私のみるところでは、私有財産制の一変形であり、夫という占有者が、妻と名づける家畜を養い、これを性的快感を得るための機械として用い、また同時に、これを屠らずに食物とする場所である(非科学的庖厨生活のうちに妻の血肉をそぐことは、とりもなおさず彼女を食うことになる)。
妻を機械から昇格させて奴隷だとすれば、結婚生活は、夫と称する主人が、妻と称する奴隷を飼い、この奴隷をして昼は家事を処理せしめ、夜は寝室の世話をさせることであり、疑うべくもない一の奴隷制である。
家畜ならば系統が判然して優れているほど買うとき高価だ。奴隷ならば柔順勤勉であるほど高価である。家畜にも奴隷にも人格はないから、ただ作業能率を高めるために調教を試みる。この調教訓練を称して良妻賢母教育という。ただしこの調教者があまり有能でないから、名前の看板とは正反対に、奴隷制からみても牧畜術がら考えても能率の低いものばかりが生産されて、じっさいは愚母悪妻教育になっている。
近頃、これではならぬと、さすが感じのにぶい牧畜家や奴隷養成者も頭を悩ましはじめたが、調教能率を高めるためには、まず第一に人格を認めなければならぬ。しがし飼主や主人と同等な人格を認めるとすれば、現在の私有財産制や奴隷制が根本から顛覆ずる。すなわち彼らの語を借りれば、祖先伝来の醇風美俗が破壊されるから、痛し痒しで大煩悶をしている。しかし下手の考え休むに似たり、煩悶しているうちに家畜も奴隷も自覚して差別待遇撤廃を要求するようになった。
本来、この制度下にあっては分際という語がやかましくいわれて、女の分際で(すなわち家畜のくせに奴隷のくせに)、男子(すなわち飼主や主人)とおなじ物を食うのは生意気だとあって、特に家畜向、奴隷向の食物が準備してある。これが女学校教育と婦人雑誌と称するものであって、飼主と主人が御免をこむり、匙を投げ、辟易(へきえき)した低級下劣の材料ばかりが振向けられている。
しかし家畜扱いされ奴隷視されて差別待遇を受けても、結局女は人間であるがら、自分で自由に人間の要求するものを撰ぶ(えら)ぶに至ったことは、よろこばしいことである。ただし一部の女には家畜根性と奴隷気質の名残りがあって、特にいたわってもらわぬと虐待されたような僻み根性を起す者もあるが、全くの同格の者なら、ことさらに御婦人とか、女の人とが、お女中とか御機嫌をとる必要はあるまい。男が単に男なら、女は単に女と呼ばれて、別に侮辱を加えられたと思うにおよばぬ。……
私は女性の自尊心を傷つけるような色々な比喩を用いたが、現代日本の虐げられた女性のためを思えばこそ、このような率直な現実曝露を試みた。呪うべき売笑制を痛撃し、これを支持する資本制度を憎んでも、この制度の犠牲となった哀れな我々の姉妹を決して責めることはできない。我々の眼前の性的奴隷制は、すなわち普遍的売笑制であり、これの撤廃をはかるためには、女性自身のパンを求める方法を根本からやり直さなければならぬ。そのための改造は、膏薬貼りや、その日逃れのごまがし細工ではないのである。……》
このような多方面の活動をつづけながら、まもなく宣治は、総同盟から乞われるままに、関西労働学校連盟委員長となり、京都労働学校校長を引受けることになったのだった。
(西口克己「山宣」大阪山宣会 p219-222)
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生いたち、めざめ
卜部秀子さんは、一九一〇年六月十九日、京都市左京区田中西河原町で、父田中政治郎、母スエさんの四女として生まれました。田中地域は、未解放部落でした。六人兄弟の末っ子でしたが、母が再婚のために他の五人とは父が違う兄弟でした。すぐ上の喜三次郎兄さんとは、とくに仲の良い兄妹として育ちました。父親は、砂利を採取する仕事をしていましたが、生活は苦しく、貧困のなかでの幼少期でした。
田中西河原町というのは、一九二二年三月に、差別撤廃と差別のない社会を誓い、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と宣言して全国水平社が創立され、その一ヵ月後に地方水平社の口火をきって京都水平社創立大会が開かれたところです。田中部落は、水平運動の拠点のひとつでした。京都の労働運動との結びつきも深く、京都労働学校に積極的に参加し、水平夜学校を開いて社会科学の学習に熱心にとりくんだ地域といわれています。
秀子さんは、こうした運動を身近にしながら成長していったのでしょう。
一九二七年、日本資本主義がはげしい金融恐慌におそわれ、国民の生活は苦しく、一方日本帝国主義の中国への干渉と侵略が拡大されていきます。
秀子さんはこのころ、京都の鐘ヶ淵紡績に十七歳で働きはじめました。そして兄や兄の友人に連れられて、労農党の演説会を聞きに行ったり、山本宣治(戦前の労農党代議士)の開いた労働学校に足を運びはじめます。京大の社会科学研究会や、婦人だけでこっそり集まっての国際婦人デー、婦人だけの学習会にも参加していきました。
そうした学習会は、「天皇はなぜ最高にあがめられているのか」「農民や労働者は一生働いてもなぜ平等に扱われないのか」「部落民はなぜいわれなく差別されるのか」など、彼女に社会のしくみを解き明かすものでした。社会の矛盾と問題を知った秀子さんは、社会進歩の運動に参加する決意をかためます。それは、「国賊として異端視され、親からは勘当されることも覚悟し、留置場や刑務所につながれることも覚悟」のうえでした。
無産者診療所で
一九三一年、二十一歳のとき、秀子さん自身が、「私には大それた行動でした」というほど、一大決意をして洛北診療所(無産者診療所)に事務員兼・看護婦見習いとして働きはじめます。彼女は全国水平社本部の常任で、京都地方無産者青年同盟結成の中心になって活動していた沖田留吉さんと結婚の約束をしていましたが、ちょうどこの年沖田さんが、療養先の堺市耳原部落で亡くなるという悲しい事態に遭遇します。秀子さんはその死をきっかけに、遺志をうけついで水平運動に身を投じたといわれています。
秀子さんにとってこの診療所の仕事は、天皇制政府の残虐さを直接知り、社会的視野を広げさせるものとなります。なぜならこの洛北診療所は、三・一五事件の弾圧と山本宣治の暗殺に怒り、解放運動犠牲者救援会や医療関係者が「労働者農民の病院をつくれ」と犠牲者や家族の健康を守り、反撃を組織しようという運動のもとで、つくられていった診療所の一つでした。
病気になっても医者にかかれないまずしい部落の人たちが大ぜいおしかけました。また特高警察の拷問で身体を悪くした人たちへの治療もおこなわれていました。患者のなかには、谷口善太郎さん(党中央委員・衆議院議員、故人)や黒木重徳さん(中央委員、故人)らもいました。当時のことを秀子さんは「むごい拷問によってあざだらけの病人や、身動きもできない重病人の治療にあたりながら、そのむごたらしさに私の若い血は怒りに心がにえたぎり、くやしさを押えきれませんでした」とのべています。このころの秀子さんは、「青年たちや左翼人のたまり場」のようで深夜まで議論がつづいたという診療所のなかで、あまり目だたない、どちらかといえばもの静かなタイプの人だったといいます。
診療所へも刑事が毎日訪ねてきて、先生や診療所に出入りしている人を検束し、患者や働いている人たちにもおどしをかけ、診療活動が続けられないように弾圧してきました。診療所は、一年後に閉鎖されてしまいます。
その後、全協(日本労働組合全国協議会)の紡績関係などの労働者に働きかける繊維オルグになります。かつて鐘紡の女工をしていたことや、三十年春の大争議の支援活動をした経験が買われたのです。
京都旧友クラブ会員で戦前からの共産党員である西村清三さんは、そのオルグを依頼したときの想い出を──「左京区・高野にある鐘紡工場で働いている女工さんたちの組織づくりのオルグを頼みました。その時の彼女は、目立たない人柄には変りないが、態度がしっかりしており、澄んだ美しい眼が印象的だった。彼女だったら、やってくれると確信をもちました。その後の彼女の成長と活動をみると、その確信が間違いなかったと、今もうれしく思っています」と語っています。
鐘紡の近くに井上信子さん(東京・渋谷区元鳩の森保育園園長)と二人で借家をみつけ、長田秀名義で借りて活動の拠点にします。十数人の女子労働者をクラブに組織し、このメンバーのなかからしっかりした女性をえらび「赤旗」を読ませていました。「あなたはつかまってもがんばれる?」こう念をおし、「この新聞は、あなたたちの真の味方なのよ」と手渡したのです。
そんなある日のこと、借家を訪れた全協の幹部から「決意はできているか」と入党の話。決意どころか、この日の来るのを心待ちにしていただけに、感激が涙をさそいました。殺されてもやりぬく≠サう誓ったのは、一九三三年の夏、二十三歳のときでした。
拷問に耐えて
入党後、党からあたえられた任務は、関西地方委員会のオルグでした。活動の地を大阪に移し、繊維オルグとして城北地区の各工場に組合結成や、ストライキのよびかけをしたり、堺市の日本セルロイドに入って労働者の組織化に力をつくします。また京都、東京方面との連絡など、非公然活動の緊張した日々でした。
こうした活動のなかで一九三六年夏、大阪・阿倍野署に逮捕されました。特高による取り調べは、なぐる、ける、気を失うと水をかけて暴力をふるうという拷問の連続でしたが、秀子さんはひとことも話しませんでした。特高は、彼女の活動を証拠だてることができず、四ヵ月留置し、起訴留保で釈放せざるをえませんでした。
その翌年、再び検挙された秀子さんは、さらに苛酷な拷問をうけたのでした。京都の下鴨署の七〜八十人の警官が家をとりかこむなかで検挙され、一ヵ月ぐらいたって五条署に移されました。先に捕まった他の同志の自白から、彼女が共産党員であることがわかっていたため、きびしい追及がおこなわれました。羽賀という特高警部補、拷問係の田中ら三〜四人によって、竹刀、木刀でなぐりつけられたり、持ち上げてコンクリートの床にたたきつけられ、失神すると水をかけてさらに責めつづけるのです。
床にたたきつけられ腰を打って、一週間トイレにもはっていくほどでした。この時以来、秀子さんは亡くなるまで、腰痛に悩まされつづけたのです。しかし拷問にも屈せず、その拷問に抗議しぬいたために、「こいつは拷問ではだめだ」とついに拷問はなくなったそうです。
彼女と関係していた党員や大衆団体組織は警察に知られず、検挙されませんでした。一緒に活動していた児島とみさんは、それは彼女が「断固として黙秘で通した証で、検挙後私に『児島さん、獄中では頑張りましたよ。おわかりでしょう』と言っていました。その通りで、私は秀さんが本当に婦人党員として立派だったこと今も思っています」と当時をふりかえって語っています。
翌、三七年には、竹屋町にあった京都拘置所に移され、未決のまま一年六ヵ月たち、絶対主義的天皇制権力は判決三年六ヵ月をだします。彼女は控訴してたたかい、三九年、大阪の控訴院では、二年の判決がだされ、家庭婦人になることを誓って執行猶予五年をうけ出所したのでした。二十九歳の時でした。この時の思いがどんなだったか亡くなった今、聞くことができません。
三年八ヵ月の獄中生活後、秀子さんはト部政司さんと結婚します。ト部さんは、松竹の下賀茂撮影所の仕事をしていた人で、繊維関係で活動していた時期もあり、秀子さんとの出会いが考えられます。
ト部さんが侵略戦争にかりだされていったあと、東京に出てきた秀子さんは、東京高等技芸学校で洋裁を習ったりしますが、埼玉に疎開し生活するなかで終戦を迎えたのでした。
どんなときにも党の旗を
四五年十二月、ただちに再入党した秀子さんは、埼玉県地方委員会の再建にとりくみました。埼玉の初代の婦人部長を務め、四七年には中央委員会の農民対策部で婦人係、部落同盟係として活動します。のち、再び埼玉にもどって与野市を中心にしながら、党組織建設と埼玉の婦人運動に大きくかかわって戦後の新しい発展に力をつくせることをよろこびにし、二度と戦争をくりかえしてはならないと党を何より大事にして活動していきます。
このころの生活は決して楽ではありませんでした。戦地から帰ってきた夫のト部さんとはすでに気持ちが分かれ、ト部さんは京都に帰ってしまい、数年後離婚することになります。秀子さんは、東京・新小岩でゴム長をヤミ≠ナ仕入れ、それを浦和で売ったり、パンやネクタイなどの行商をして生活していきます。
四八年、婦人民主クラブの県本部長になり、民主婦人協議会の埼玉県協議会を結成し責任者に推されます。さらに埼玉婦人連絡会の理事、新婦人の与野支部長等々、埼玉の婦人運動の前進と婦人戦線の統一のために、責重な役割を果たしてきました。
彼女は、どんなときにも党の旗を公然とかかげ、決して党をうしろにおくことをしませんでした。そして、大衆運動への任務など党の要請を拒否したことがなかったといいます。また、党が小さかった時代、常任活動家の生活を心配し、自分の生活をきりつめても常任活動家の世話をしていました。元埼玉県委員長の平田藤吉さんは、「党に力をふりしぼって来た人だった」とその姿を語っていました。
また秀子さんは、ともに婦人運動をたたかった新婦人埼玉県本部の大塚アイさんに、病床で「わたしは若い時から、今に見ておれ、私たちの社会になるのだからと言いながら活動してきたのよ。わたしは原則的なことばかり言うからみんなに煙たがられてしまうんだネ。新婦人は幅広いのだから、あんたたちが頑張ってくれて大きくなってほんとうによかったねエ」と語ったといいます。
時にはまわりの党員に素直に苦言を呈す厳しさと、しんらつな言葉にきつい≠ニいわれもしますが、党を心から愛し、党員であることを誇りに、貫き通してきた卜部秀子さん。その一生は、計り知れないその時代の困難を思ったとき、胸に迫るものがあります。
(広井暢子著「女性革命家たちの生涯」新日本出版社 p180-187)
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◎「京都の鐘ヶ淵紡績に十七歳で働きはじめ……兄や兄の友人に連れられて、労農党の演説会を聞きに行ったり、山本宣治(戦前の労農党代議士)の開いた労働学校に足を運」んだと。