学習通信061011
◎貧困は、容赦なく子どもの育ちに……
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学び再考
しつけも大事だが……
所得格差、より深刻な影響
「早寝早起き朝ご飯」の重要性を訴える著名教育者が、最近目立つ。家庭での生活習慣が学力の基礎だという。他方で世帯所得が学力と深く関わる事実も明らかになっている。生活習慣と所得と学力の関係はどうなっているのか。手元にあるデータで確認してみた。確かに食事を大切に考える家庭の子どものほうが、約六%得点が高い。
朝食をとれば学力は上がるのか。「第一勘」は怪しい。とくに、所得が生活習慣と学力の両方に影響するために、生活習慣と学力が関連するように見えるだけかもしれない(疑似相関仮説)。この仮説を検証してみると、同じ所得の場合は食事を大切にする家の子どもがわずかに高学力を示すものの、高所得層ほど食事を大切にしているために、生活習慣と学力が見かけ上関連している可能性が強い。
社会事象なので竹を割ったような説明は期待すべくもないが、要するに、家庭での生活習慣の確立は学力に独自の効果を持つとはいえ、世帯所得の効果にははるかに及ばない。
結論。生活習慣の確立を教育者が保護者に訴えるのは、実践的言説として有意義であり誤りとはいえない。だが、政策的優先順位は所得格差そのものの縮小やその学カヘの影響を小さくすることに置かれねばならない。政治や行政がそこに言及せずして、家庭でのしつけの重要性だけを強調するとすれば、家庭に責任を転嫁することと等しい。
(お茶の水女子大学教授 耳塚寛明)
(日経新聞 20061009)
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貧困と子どもの『育ち』を考える
札幌学院大学教授 松本伊知朗
学力や非行問題い影響が……
格差や不平等の是正こそ(上)
家族の貧困は、容赦なく子どもの育ちに影響を与えます。貧困がもたらす不利に正面から向き合うことの大切さ、公正な社会のあり方を探っていく努力について、札幌学院大学教授の松本伊智朗さんに書いてもらいました。
家族の経済的困難が、子どもに不利をもたらし人生の可能性を制限する方向に作用する、という研究結果があります。例えば、親の所得階層ごとに子どもの学力を調査すると、洋の東西を問わず、いつの時点の調査かにかかわらず、所得が低い階層に学力の低い子どもが多いという結果が得られます。
司法統計によると、少年読人所少年の四分の一は家庭の経済状況が「貧困」と判断されており、家族の生活状況が子どもの「育ち」に影響を与えていることがうかがえます。
子どもの不利を
放置することに
なぜこうした結果になるのかは別にして、これらの「事実」は調査して初めてわかったというよりは、実は私たちが日常、感じていることです。有名大学の学生の親は、経済的に安定している職業や高学歴の者が多いことや、「荒れている」学校の多くは所得の低い家族が多く住む地域にあることなどは、よく経験的に語られます。
この「事実」を話すと、いくつかの反発にあいます。一つは、お前は親の経済状況で子どもを差別するのかという批判、あるいは子どものことを家族の状況とかかわり合わせて分析することに対する抵抗感です。また、所得が低く生活が不安定な家族でも優秀な子どもがいるではないか、こうした分析は画一的に子どもをとらえて「レッテル張り」をすることになる、という批判です。
いずれも一理あります。しかし、家庭の経済的困難がもたらす「事実」の分析を避けることは、結果として子どもの不利を放置することに手を貸すような気がします。
家族責任の
強調ではなく
またこうした「事実」の提示は、別の理解と反応を招くことがあります。「やっぱりそうですよね、親がしっかりしていないと子どもはダメになりますよね」、あるいは「親に金がないと子どもが苦労するのは当たり前じゃないか、だから親は頑張っている」というものです。
これらはある意味で、当たり前の生活感覚や常識に根ざしています。子育てはどんな社会でも一定程度、家族に依存しますし、わが国のように生活の家族責任が強調される社会では、「子どものことは親しだい」という理解は不思議なことではありません。
しかし、この理解もまた、問題の本質を見えにくくさせ、結果として子どもの不利に拍車をかけます。子育ての家族責任をより強調し、個々の親をいっそう「子育て競争」に巻き込んでいく危険性があるからです。
私たちが行いたいのは、「レッテル張り」でも「家族責任の強調」でもありません。問わなければならないのは、家族の経済的状況や出身階層で子どもの可能性が左右されるとすれば、それを容認している社会は公正といえるだろうか、という点です。
自由で平等な
社会築くために
私たちは自由で平等な社会を築きたいと願っています。しかし現実にこの社会には、さまざまな格差や不平等が存在します。これを一気に変えることなどできません。自由で平等な社会を築くためには、社会として「容認できない不平等」に焦点をあて、是正していく取り組みが大切です。
この点をより明確にしていくために、冒頭のような「事実」は、「貧困」という視点から把握され、議論される必要があると、私は考えます。次回は、この点に話を進めていきましょう。
子どもにはどう作用?(中)
家族の経済的困難が子どもに不利をもたらす、という「事実」を、貧困問題として議論する必要があるのではないか。この点から、話を続けましょう。
高い貧困率
日本は「貧困」に関心を寄せることが少ない国です。先進工業国では例外的に公的な貧困率の測定がありません。大学生だった二十五年前、これを知って不思議に感じたのは、公的な貧困測定がないという事実以上に、多くの研究者もそのことを問題にしないまま、「豊かさのひずみ」を論じていることでした。
ちなみに、生活保護基準をモノサシにした研究者の推計では、今日、15%の世帯が貧困線以下で、これは増加傾向にあります。OECD(経済協力開発機構)による国際比較でも、日本は先進工業国のなかで貧困率の高い国です。
貧困とは生活に必要な財を欠くことです。この生活とは「飢え死にしない」水準ではなく、医療や教育を受けるのに不都合がなく、人との交流が保てる暮らし、すなわち今の社会で当たり前の「健康で文化的な」水準です。これを長期に下回ることは、人の健康を破壊し、人を孤立させ、未来への希望を奪います。
貧困固定化は不公正
子どもにはどう作用するでしょうか。家族の経済的困難は、直接的には教育費の制限を通して子どもの選択可能性を狭めます。また経済的困難にかかわる生活問題や生活の「すさみ」は子どもに「負の経験」を与え、子どもらしい子ども期を奪うことで「育ち」の機会を阻害します。
総じて貧困は子どもに負の影響を与えますが、これは子どもの側から考えたときに、大変理不尽なことです。
また、家族を場とした貧困のメカニズムは、子どもが大きな不利を負って社会に巣立つことを招きますが、これは結果として、貧困が世代的に固定していくことを意味します。こうした固定化は、個人の自由と平等という観点に照らして公正ではありません。
そして、貧困の固定化によって社会が分断されていくと、社会そのものがすさみます。青年期の貧困は家族形成を困難にし、少子化を招くことを通して社会の持続性を損ないます。つまり、子どもの貧困は個人と社会の双方を壊すのです。
では、どうすればよいのでしょうか。問題を隠すのでもなく、家族の責任にするのでもなく、社会のあり方として考えていくことは、そう簡単なことではありません。次回はこの点を考えてみたいと思います。
「負の経験」補う活動が大切(下)
今回は、社会として「容認できない」不平等を解決するための取り組みの方向について考えてみます。簡単ではありませんが、だからこそ地道な議論が必要です。
貧困に対する政策を
まず、所得保障と雇用の確保、医療や住宅、教育など生活基盤の公共的整備など、貧困に対する広範な政策が必要です。広い意味での社会政策とは、こうした普遍的な制度の整備を通して人々が貧困に陥ることを防ぐ役割を持ってきましたし、それはこれからも同じです。特に教育や児童福祉の自己負担を増大させる今日の政策動向は、貧困層の子どもの社会的不利を増大させますから、これに対する異議申し立ては重要な課題です。
加えて、学校や地域で子どもを支える日常的な活動の大切さを、再確認する必要があります。貧困は子どもに「負の経験」を与えるとすれば、これを補うよい出会いや活動が必要です。子どもの話を丁寧に聞くこと、すべての子どもが子どもらしい経験ができるように配慮すること、基礎学力を保障すること、「非行少年」の保護と支援をすることなど、学校や地域での活動は、本来的にこうした役割を持っています。
子どもの人生
支える活動が
こうした日常的な活動は、一人ひとりの人生の幅を少し広げるだけで、貧困の解決にはつながらないように見えます。しかし、個々の子どもの成長には、人に支えられた経験や出会いが重要です。子どもの人生を支える地道な活動がない社会は、貧困に対する抵抗力のない社会だと思います。また、こうした活動の蓄積なしに、次の知恵は生まれないのではないでしょうか。
自由になるお金の額で、人生の価値は決まりません。そんな人生はむなしいと思います。人生はお金じゃないと言えるために、せめてお金がないことに起因する子どもの可能性の制限をなくすこと、これが公正な社会の必要条件です。
憲法第二五条にいう「最低限保障」の実現のために、「最低限」以下に落ち込んでいる人々の存在と状態を明らかにすること、貧困の研究はこのためにあります。貧困という視点からの議論に多くの人が関心を寄せ参加すること、これが遠回りのようで大切なことかもしれません。(おわり)
(しんぶん赤旗 20061004〜6)
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◎「大学生だった二十五年前、これを知って不思議に感じたのは、公的な貧困測定がないという事実以上に、多くの研究者もそのことを問題にしないまま、「豊かさのひずみ」を論じていること」と。