学習通信061018
◎親たちだって生活と闘いながらも懸命に……

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三人の「母」

 今日も夕暮どき、子どもをどなり追いかける母親の声がきこえる。
 「このがき! またわるさをしたな!」
 保育園にいる間はよいが、家に帰ると、彼は母親からどなられどおしであった。

 どこで、なんのためにつけたかしらぬが、彼のいがぐり頭の横に大きな三ケ月のきずあとがはげになっていて、先生たちは「みかづきちゃん」などとかげではいっていた。

 四歳で入所したとき、私の受けもちになった。保育園のすぐ前のバラックで、母親はボロぎれをよりわける仕事をしていた。いくつかの箱が座った母親の前に並べられ、横の布のボロ山から木綿、スフ、絹、毛とわけてゆくのが仕事である。この辺は東京中のごみが集ってくるところであった。

 鉄屑、紙屑、ガラス屑、布屑、わら屑までこの町には集まってくる。
 空襲によるやけあとに建てられたトタン屋根のバラックは、こうして集められた屑のよりわけをする仕事が大部分であった。

 家庭訪問をすると、おこしだけで、前に乳房をあらわにしたままの姿の母親が多いのに最初はおどろいが、いつの間にか人前を繕わない、ざっくばらんの下町気質が、私はとてもすきになった。

 このみかづきちゃんのいたずらはたしかに一とおりではなかったので、お母さんが声をかぎりにホーキをもって追いかけるのもうなずけるのであった。

 さて、この家に女の子が生まれた。母親は山本富士子みたいに育ってほしいと、富士子と名前をつけたが、色は黒く、口がとても大きい子であった。
 それからのみかづきちゃんの背中には、家にかえるとすぐ、この富士子ちゃんがしぼりつけられる運命となった。

 小さいからだにしっかりと背負わされ、日が暮れるまで外で母のどなり声を背にいたずらをしまわっていたのであった。

 この母親は私に会うたびに、
 「先生! このがきにはほんとうに困るんだよ。こんな子はいなければいいと思うときもあるよ!」というので、
 「そんなにいらなければ私がもらうわよ」などとじょうだんをいったこともあった。

 ところがある夜、母親があわてふためき保育園にかけこんできた。私は園の四階に住んでいたのですぐおりてみると、
 「先生! 九時になってもあの子が帰ってこないんだよ!」というのである。
 私もいそいで近所をさがしまわった。
 やがて近くにある池の底から、水死体となって彼は発見されたのである。
 私ははじめて冷たい死体を抱いた。
 母親は泣いて泣いて泣きやまなかった。
 「先生! 夕方いったん家にかえって富士子をおいたとき、私がうるさいねっていったものだからまた出てしまって──」
 悔いても悔いても悔いたりない「母」の涙であった。母親は初七日、四十九日、といつも私をよびにきて泣くのであった。

 私のクラスに異様な臭気をただよわせて一人の女の子が入園してきた。子どもたちは「くさい!」といって最初、よりつかなかった。無口で、どこかオドオドとしていた子であった。

 母親は戦争中まで遊かくで働かされていた、というが、戦後はじめて自由の身となり、結婚したため比較的晩婚であったようだ。
 福祉事務所の話では父親は何かの中毒のため生活能力がなく、母親が行商しているという。

 私はこの子もいとおしく、くるとあかがついたままの手足や顔をふいて手をつなぐうち、いつしかとても快活になり、ひと一倍しゃべり、笑うようになってくれた。

 子どもが晴れやかな顔になると同時に、その母親も私に心をひらいてくれ、私を信頼してくれる様子がよくわかるようになった。
 粗まつな身なりだが、帯は下の方にななめに大変粋にしめていていかにも玄人風であった。

 私は自分から願って一番低い年齢をうけもたせてもらえるようになってから、当時全園児が脱脂ミルクのおやつだけであったのを、特別たのみ、小さい子どもだけ、おせんべいなどの菓子類をそえさせてもらえることになった。そこでこのお母さんから仕入れた。ところが不潔だ、という理由で商店から仕入れるように申し渡された。だが私は、封をした缶ごと購入している、という理由で、つづけてこのお母さんから仕入れていた。やがて私はこの園をやめることになった。おどろいたのは受けもちの母親たちであった。

 送別会は前例がないので、と園側にいわれた母親たちは、では日曜日一日園舎をかしてほしいと交渉し、全員手弁当をもちよって別れを惜しんだ。

 母親たちは泣いたり、笑ったりしながら一日をすごし、やがて皆帰ったが、この母親は最後にのこり、ななめにしめた古びた帯の間から何やらをとり出し私の手の中に押し入れて泣いた。

 見るとしわくちゃになった一枚の五十円札であった。私はそれを大切に、深谷にきたのであった。

 私が深谷の駅におり立った時はちょうど十月で、駅の前はすぐたんぼであり、稲の匂いが心よかった。ちょうど町から市になったばかり、まだまだ田舎の小さい宿場町のようであった。

 そろそろ私もこの深谷になじみ始めた頃、東京からある一家が引っこしてきた。なかなかの文化人夫婦で、たちまちこの小さい町では有名になった。

 あるお母さんが私の園で開いていた母親コーラスにつれてきて私にも紹介してくれた。

 かわいい女の子がいて、なかなかユニークに育てているため、母親がかぎをかけて出かけたあとに、垣根の下の土を掘ってぬけ出てしまうというので、近所の人たちがさくら保育園に入れることをすすめたというが入園はさせず、公立の幼稚園に就学前一年入園させた。

 ところが田舎町の保育方針にはびっくりしたらしく、PTAで活発に発言したため保守的なおえら方からにらまれ、とてもこんな町には住めないと思ったらしく間もなく東京に引きあげてしまった。

 ところがしばらくして一通の手紙がこの夫人からきたのでおどろいた。
 ──東京の小学校で島小の斎藤喜博氏を招いて講演会をしたところ、深谷のさくら保育園の話が出てびっくりしました。少しも知らず失礼しました──という文面であった。

 その後二、三年たって、よほど深谷に縁があったのだろう、また深谷に住むようになった。

 あの時のユニークな冒険ずきの子どもはえらばれた子どものみがはいる学校に通っていたとかで、深谷にきてからも東京のその学校に通わせていた。

 小学生が汽車で一時間半、それからまた電車にのりかえて学校に通うというのは、たぶん深谷はじまって以来のことであったろう。

 この子どもは私たちが原水爆禁止運動などで駅頭で署名運動などをしていると、学校のかえりみち駅からおりてくるとにこにこと寄ってきて「カンパします!」と小さい財布がらお金を出すのであった。

 とても聡明そうな明るい子であった。
 が、あるとき、その子どもが過労による疾患でなくなった、ときいて私はおどろいた。

 私が玄関にうかがうと、このお母さんは泣き伏し、

 「斎藤さん、私はほんとうにおろかな母親でした。娘に無理なことをさせてしまいました。申しわけないことをしました」

 と、いつまでもいつまでも頭をあげないのであった。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p227-232)

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文化の話題
 和田はつ子

怒りの骨頂

 ここ最近、子どもの虐待死を報じるニュースが多くなりました。親殺しも年々増えています。現場も全国にわたっています。

 つまり、子どもの虐待や親殺し、子殺しは、もはや、単なる事件≠ネどという生やさしいものではなく、日本の教育、親子関係の根幹にかかわる重要な問題だと思うのです。ところが、こうした問題は、センセーショナルな事件≠ニしてしか、マスコミは取り上げようとしません。おそらく追及すると暗い≠ゥらでしょう。映像、小説などが純愛や懐古趣味などに、バーチャルな癒やし≠創(つく)りあげ、視聴者や読者に深刻な現実を見せようとしなくなってから、実に久しいのです。

 わたしは作家として、一人の母親として、この現状に怒りを感じています。子どもの虐待死が報道される時、訪問していたが気がつかなかった。いいお母さんでしたよ≠ニいう児童民生委員(民生委員は児童委員も兼ねる激務です)の人たちのコメントや、隣人たちのいつも子どもが怪我(けが)してて、あの家、何となく、おかしかったけどねえ──≠ネどという話を聞くと、思わず、馬鹿(ばか)野郎≠ニ叫んでしまいます。

 もっとも、わたしの矛先は、常識的でボランティア精神旺盛な町のおじさん、おばさんである、児童民生委員の方々や、虐待親の逆襲を恐れる隣人たちに向かっているわけではありません。

 これだけ少子化が問題となっているというのに、せっかく生まれ出てきた尊い命が失われてしまう──それが口惜しいのです。三十年も前から、子どもの虐待で悩んできたアメリカでは、現在、虐待≠発見するための通報システムは、ほとんど完璧で、その上、虐待予防のための措置として、潜在的な虐待性がチェックされた母親は物心ともに支援を受け、新生児が思いつめた母親に殺されないよう、法律で捨て子が認められています。それなのに──。

 とはいえ、嘆いてばかりはいられず、せめて、自分にできることはしようと、日本の虐待対策、行政の貧困を訴えるべく、児童民生委員、児童相談所等の取材をはじめたところです。

 驚いたことに相談所は全国でおよそ二百ヵ所しかないのです。都道府県数で割ると各都道府県に四ヵ所強です。なんという少なさでしょう。その少ない相談所への相談件数は年間三十万件を超しているのです。相談所の数が少ないのですから相談員の数も十分なはずがありません。相談内容は虐待ばかりではないでしょうが、子どもに関係した相談内容であることは確かです。親たちだって生活と闘いながらも懸命に子育てをしているのです。

 無限な可能性を待った子どもたち──!。将来の日本を背負う子どもたちの育成が、健全に行われることこそ、真の「美しい国」日本をつくることなのだとしたら、わたしたち大人に課せられた責任は限りなく重いのです。それにはまず、虐待される子どもたちをなくさなければ──。

 わだはつこ・作家=拒食症などを扱った小説 『ママに捧げる殺人』時代小説に『藩医 宮坂涼庵』、口中医桂助事件帖シリーズ。
(しんぶん赤旗 20061013)

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◎「斎藤さん、私はほんとうにおろかな母親でした。娘に無理なことをさせてしまいました。申しわけないことをしました」と。