学習通信061019
◎「先生のバカ」と書き残して……

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あなた、
あいさつする人? 受ける人?
 寿岳章子

 来年でいわゆる定年を迎える私。管理職でいた三年間をのぞき、常に組合員でいた。そこそこにがんばる組合員で、支部書記長まではやったし、役付きでないときでも、関心は高い方だった。一方、根っからの平和愛好者だし、また人権論者でもある私。

 あと一年で組合におわかれ。大なり小なり組合とおのがくらしを重ねて三五年あまりやってきた私としては次のように言いたい。

 ──執行部、トップはいつもそうでない人びとに自分を重ねてもらいたい。トップが固定しっばなしであることは止むを得ぬことであろうが、さまざまの組合員の思いをできるだけ我がものとするよう心がけてほしい。私は、大学内のさまざまの職種の人と話しあいをしたときのことをいまもって大切にしている。その人はポツリとこう語った。

 「わしら、いつでもこっちからばかりあいさつしてるなァ、してもろたことないなァ」

 私はハッとした。民主主義を唱えてやまない人びとばかりでも、思いがけぬところで、気のつかぬ大切なことがあるものだ。おはようございますとあいさつするのは、日本ではほぼ常にいわゆるシタの人からなのであるという。まさか、といちおう私は打ち消したが、すぐ、ガツンと手痛い経験をした。当時の組合の要求のなかに「大学の民主化」というのがあって、それを目にした学長が、まことにいみじくものたもうた。

 「民主化、民主化っていったい何だ? まさかわたしからあいさつもできまい」

 私はとび上がらんばかりだった。ワッーほんと。「先生、ちがいます。あいさつはだれからともなくやることです。先生がさきになすってちっともかまいません」

 人はこの学長を笑うだろうか。案外、自分は民主的であるつもりで、そうでない人がえてして革新を名のる人に多い。

 いつだったかの母親大会で、私が助言者として入った分科会で、若い人が二、三人、口々にもう離婚! と叫ぶ。二、三年ばかり前に結婚したばかりというのに。

 「職場でとても民主的な人だったんです。かっこよかった。すてきと思ってプロポーズ、結婚しました。でも、まるでちがうんです、家ではいばって。もう別れます」

 おかしくなって私はいった。
 「こんなこという人いましたよ、男は職場で共産党、通勤電車で社会党、家へ帰れば自民党ですって。あなた、そんなのおかしいっていいましたか? そういう気持トコトン夫にいわなきや。そう簡単に別れるっていわないで。いうだけのこと、やるだけのことをすましてからでないと」

 その人はうなずいて、一ぺん夫婦げんかやってみますといってくれたが、しょせんそういう男性は、自分が常にあいさつをうけてばかりいることに気がついていないのだ。

ほんとうの革新は、なんでもないような、しかしとてもたいへんのようなものであろう。とってつけたような口先だけの民主主義者ではどうしようもない。

これからの社会で真の組合であるためには、まずどこをおしてもヒューマンで、民主的である人びとによって組合ができていてほしい。少なくとも、そうあろうと心がける人によって。つけやきばではどうしようもない時代がやってきたのである。
(「わたしの選択 あなたの未来」労働旬報社 p38-40)

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職員の学習はなぜできるのか……

問……職員がたの学習のことについておききしたいのですが……。
 夜の保母学校の話は、『あすを拓く子ら』などでもよんで、ほんとうにうらやましいと思っていますが、私たちも家庭をもつとなかなか夜は外にでられないのです。
 いったいここの職員たちはどうして夜あつまってこられるのですか。

答……
 そうですね、一番の特長は、だんなの協力でしょうかね。看護婦のだんなはがんばる、だけじゃなく、保母のだんなもがんばるんですよ(笑い)。
 だいたい恋愛するときからちがいます(笑)。
 保母という仕事の重要性を理解し、自分の学習を助けてくれる人でなければ恋愛をしない(笑い)というくらいですから。
 まず、公開保育とか、卒園式をみせて、感動しない人はきらいになる(笑い)というくらいです。そして私に会ってくれ、といいます。美しいもの、必死でしている仕事、そういうものに共感をもち、助けてやろう、一緒に学んでゆこう、というだんなに助けられているんですよ。

 あるだんなは、おくさんが病気で保母学校に出られないとき、かわって自分が出席して学び、それをあとでつたえてあげる(ホーという感嘆の声)、という人もいました。こういう人は概して金持、エジート社員ではありませんから(笑い)生活は苦しいと思いますが、お互いの仕事に意義を感じ、子育てという共通の話題が真剣にとりあげられる夫婦にあまり危機はありません。そして自分たちの子どもも立派に育っていっています。

 次に職員の協力、または同じ年の子どもをもつ父母同士のつながり、協力でしょうかね。

 クラスの学習会などの時は他のクラスの職員が子どもをあずかってくれたり、職員全体の学習会のときは、子どもの友だちのお父さん、お母さんの協力であずかってもらったりしているようです。
 また職員のおばあさんに、赤ちゃんをたのんだ人もいましたよ。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p159-160)

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 親の困難、苦悩への共感

 そのように考えてくると、今、保育者に求められているのは、こうした親の困難・苦悩に共感する力であるように思われる。

 仕事を通しての社会的生きがいと、人間的な子育てとを何とか自分の生き方として両立したいともがきながら、両立しきれないでいる親の困難・苦悩は、じつは保育者である自分もかかえている困難・苦悩であり、今日の日本に生きている男女が共通に直面している困難・苦悩であると感じられることが、何よりも必要なのではないか。

それさえあれば、親たちにいくら厳しい注文・批判をしても、保育者自身も同じ問題をかかえ苦しみながら、なおともにのりこえようとしている中で出されるている注文・批判として親たちに伝わっていくだろう。

しかし、自分はしっかりとしているが親がダメだと感じていては、どんなに正しい指摘でも、親たちのなかに伝わってはいかないのである。
(田中孝彦著「子育ての思想」新日本新書 p55-56)

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何のために学ぶのか、ということ

 目的や意義といったものが別のところにある、それが「勉強」というものの特徴らしい、と先にいいましたが、一口に「目的」といっても、いろいろです。たとえば、次の詩をよんでください。

勉強してどうなるのか
役にたつ、それだけのことだ
勉強しないのはげんざいについていけない
いい中学、いい高校、いい大学、いい東大
そしていい会社
これをとおっていってどうなるか
ロボット化している
こんなのをとおっていって、いい人生というものを手でつかめるか

 「先生のバカ」と書き残して、団地の十三階から飛び降りて自殺した少年の作品です。「目的」「意義」がこのようなところに定められているとき、勉強がたのしみに転化するということは、たぶん、ほとんどありえないでしょう。

重い重い荷物、みんなもっている
重い重い荷物、休みたい
重い重い荷物、おろしたい
重い重い荷物、おろせない

 やはり同じ少年の作品です。勉強がもっぱらこのようなものに変質させられてしまっているとは−―なんという非人間的な社会でしょう!
 「変質」ということばを使いましたが、それは、「学ぶ」ということは本来そんなものではない、と思うからです。

 「学ぶ」ということは、本来、自分を人間としてゆたかに発達させたいという、人間の基本的な要求に根ざすものだと思います。

 人間は社会的な存在です。過去の人間仲間のいとなみの成果は「文化」という形で社会的にたくわえられています。個々人はそれをうけとり、身につけることによって、人間として生きるのです。このような文化を身につけるということ──それが本来の意味での「学ぶ」ということだ、と思うのです。

 自分を人間としてゆたかに発達させたいという要求は、幼児の頃には自覚されていません。存在しないのではなく、自覚されていないのです。なぜかといえば、肉体的な欲求という形でそれが存在するからです。

 そこで、幼児においては、生きることと、遊ぶことと、学ぶこととの区別がありません。全生活が遊びであり、そしてその遊びが同時に学びそのものでもあるのです。

タッチ、アンヨも、ことばの習得も、ケンケン、スキップも、遊びであると同時に学びであり、学びであると同時に遊びであり、そしてそれが幼児の生活そのもの──生活欲求の発露としての生活そのものであるのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p49-51)

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◎「男は職場で共産党、通勤電車で社会党、家へ帰れば自民党」と。