学習通信061023
◎臨機応変に対応できるだけの創造力が……

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 わたしたちは、よく「あそこの組合はつよい」「ここの組合はよわい」ということばをききます。ところで、つよい、よわいの判断はなにを基準にしていうのでしょうか。基準もなしに、つよい、よわい、というのでは、その言葉は適切だとはいえないし、そういわれた組合としても迷惑なことだと思います。

 労働組合のつよい、よわいの別れ道は、組合幹部・活動家の量と質にあります。質のたかい幹部・活動家がたくさんおれば、その組合はつよくなるし、その反対の場合は、組合はつよくなることができません。なぜか?
 労働組合は労働者ならだれでも加入することができる大衆組織ですから、思想的にはまちまちの仲間が加盟しています。とくに、わが国のように労働組合の大部分が、企業別組合であるところでは、なおさらです。

 その組織に、質のたかい幹部・活動家が多ければ多いほど、個々の組合員にたいする影響力がつよまります。影響力がつよまれば、組合員の階級的自覚が高まり、組合の団結は自覚的につよまります。

たとえば、二百人の労働者がいる職場で、十人の幹部・活動家がいるばあいと、二十人の幹部・活動家がいるばあいとでは、どちらが組合員にたいする影響がつよいか。それはいうまでもなく、二十人の幹部・活動家がいる方が影響力はつよいにきまっています。

ここに、労働組合をつよくする別れ道は、幹部・活動家の量と質にある、というわけがあります。

 そして、大切なことは、組合員の階級的自覚をたかめ、組合をつよくするには、組合幹部活動家が、一人ひとりの仲間とよく接触し、影響力をつよめることからはじめなければならないということです。漁師が網をかけて大量の魚をとるように、多くの労働者をあつめ、とおりいっぺんの演説をしたくらいで、労働者の思想はかわるものではありません。

ことに米日独占資本の思想攻撃は、日をおってきびしくなっており、マスコミの発達しているわが国では、日常、目にふれ、耳にきくものの大部分は、米日支配層の支配のための思想宣伝であり、反共思想の宣伝です。また、学校教育の内容も、ますます反動化しています。こういう状況のもとでは、労働者は動揺しやすく、資本家階級の思想を受けいれてしまう可能性がつよいといえるでしょう。

 職場の仲間たちが多面的な、切実な要求をもちながらも、なかなか一つに団結しにくい理由はここにあるわけですから、組合幹部・活動家が、組合員一人ひとりに接蝕することがとりわけ大切なのです。

 しかもこの幹部・活動家は、さまざまな思想的傾向にある労働者にふさわしい対処の仕方をしなければならないのですから、理論水準、思想水準の高い幹部・活動家でなければならないことになります。
(細井宗一編集「労働組合幹部論」学習の友社 20-22)

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木村……一点人れられた後の崩れ方がひどかったですよね。
二宮……「最悪引き分けでいい。勝ち点一で我慢しよう」とやるのか、「やっぱりもう一点を取るため、攻めに行こう」とやるのか分からなかった。「監督、どうしましょう?」と悩んでいるうちに、三点も取られてしまった。

木村……ジーコもそれくらい指示を出せばいいのに。
二宮……そこがジーコのジーコたるゆえんなんです。「そんなことは分かるだろう」と思っている。でも選手たちは、指示を欲しがっている。成熟しきっていない選手たちを大人扱いして明確な指示を出さなかったジーコにも責任はあるが、意思統一が図れない選手たちも未熟だった。

木村……でも、選手のほうも「教えてください」とは言わないで、分かっている振りをしたわけでしょ。
二宮……そこまでの余裕がなかった。オーストラリアの猛攻でパニックになっていたから。でもね、ジーコが持ち込んだ「個人」や「自由」というコンセプトは、いつか乗り越えなければいけない試練なんです。いつまでもトルシエ流では、進歩がないですから。

号令戦法では訓令戦法に勝てない

二宮……例えば、軍隊の戦法には、レベルの低い順に「号令戦法」「命令戦法」「訓令戦法」の三つがあるといいます。最初の号令戦法は指揮官が一から一〇まですべてを指示する。すなわち隊員個々の自由度はゼロに近い。次の命令戦法といえば「何日までに勝利せよ」といった具合に、ある程度、戦い方はその部隊に任せる。最後の訓令戦法、これはかなりレベルの高い戦い方。「勝て。戦い方についてはすべて任す」──これだけ言っておけばいい。

木村……要するに、トルシエは「号令戦法」に磨きをかけて一次リーグを突破したが、ジーコは「命令戦法」にトライして完成できずに敗れた。ブラジルなんて、典型的な「訓令戦法」ですからね。

二宮……そうなんですよ。ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れたのは、ナポレオン軍が命令戦法だったのに、相手は訓令戦法だったから、とも言われている。結局、レベルの高い戦法をこなせる部隊が勝利するんです。ミッドウェイ海戦もアメリカの爆撃隊からすれば、じつに爆撃しやすい並び方で、日本の空母はすべて沈められてしま
った。これも日本の海軍が「号今戦法」だったからと言われている。

木村……もしも日本の海軍が「訓令戦法」をマスターしていて、フェイントを自由に使うことが許されていたなら、状況は少しは違っていたんでしょうね。

二宮……トルシエは完全な「号令戦法」で、戦術至上主義者でした。よく言えば妥協を許さない。しかし悪く言えば、応用がまったくきかない。

木村……だから、選手が思うように動かないとヒステリーを起こした。サッカーファンとして観ていて、あのヒステリーは見苦しかった。

二宮……トルシエの限界は、日本の選手を一人前扱いしなかったこと。私は彼を常々「サッカー界のマッカーサー」と呼んでいました。マッカーサーが敗戦日本を統治したとき、日本人を子ども扱いしましたが、それと同じです。

木村……なるほどね。ジーコとは全然違いましたからね。トルシエのやり方は、選手は歯車で「オレの言うとおりに動け。お前らは考えなくていい」という指揮の仕方でしたものね。

二宮……百歩譲ってそれを仕方のないことと認めたとしても、あの「フラットスリー」は問題だった。トルシエは「フラットスリー」という組織戦術を信じ切っていた。日本人のプレーを見て、日本人ならどういうシステムがいいかとか悪いかとかをいっさい考えず、最初から「フラットスリーありき」だった。もう百歩譲って、その理論が正しかったとしても、彼の理論には体温が感じられなかった。

木村……戦術原理主義者から一歩も外に出ようとしなかったわけですね。個々人の長所を活かそうという発想がなかった。だから、ジーコが評していたように、「選手の技術も、戦術的な理解もすべて世界でも大学並みの力を持っているのに、試合運びとなると小学生のように無防備だ」というチームしか作れなかった。かといって、ジーコも組織作りに成功したわけではありませんが……。

二宮……私はスポーツの取材のとき、指導者に「組織があっての人と考えますか。人があっての組織ですか」ということをまず聞きます。ジーコの場合、「人が先にありき」でしたが、トルシエはそうではなかった。「人よりも、まずフラットスリーありき」だった。

木村……「組織あっての人」なのか、「人あっての組織」なのか。
ニ宮……意見の分かれるところかもしれませんが、私は「人あっての組織」という考え方を支持しています。

木村……川淵キャプテンは、「トルシエからジーコヘ至る道は、『規制』から『自由』への変化」だと評していましたが、それが、「人あっての組織」ということなんですね。

二宮……個人と組織だったら、個人。自由と規律だったら、自由を選ぶのがジーコのサッカー。ただ、本来「自由」というのは勝ち取るもので、与えられるものではない。

木村……ジーコは選手たちに「自由」を与えたけれど、選手たちが自ら勝ち取ったものでなかったので、「自由」が身に付かなかった……。
二宮……そのとおりです。

「教わらないと不安」というのは決断逃避

木村……それにしても、日本代表が「戸惑いの時間」に陥っていたとき、「ジーコは何をやっているんだ」と相当批判されましたよね。そのあたりはどのように観ていらっしゃいましたか。

二宮……僕は「長い目で見なければいけない」と思っていましたから、仕方ないという感じで観ていました。だって、ジーコは何も教えないんです。選手に聞いても「本当に何も教えない」という(笑)。

木村……トルシエとまったく逆ですね。実際、ジーコは、ほとんどの選手と一対一で技術論や精神論を交わしたことはないとも言いますから。

ニ宮……これは、日本社会全体の問題になると思うんですが、日本人って「教わらないと不安」という面がある。自分で学べばいいのに、教わらないと不安に陥ってしまう。「ジーコは試合を見にこない」と怒っていたクラブ関係者もいたが、「見にくるよう要請したのか?」と間くとアポさえ入れてなかった。「先生は常に助けてくれる」と思っている。

木村……じつは、「教わらないと不安」というのは、自分で選択したくないという逃避行動なんです。決断逃避なんですね。

二宮……ジーコは、「日本では学校でサッカーをして、クラブに来るのが一八歳くらい。ブラジルのように一三歳からクラブでチャレンジして自分で物事を決める教育を受けてきた人間と、一八歳で初めてそういう教育を受ける人間との差は大きい」と言っています。だから、サッカーだけの話ではなくて、日本の教育が大きく関わってきます。日本では、「何でもかんでも教えてくれるのがいい先生だ」という考え方があるでしょ。

木村……試験問題の解き方だけじゃなくて、「試験問題の答えまで教えるのが良い先生だ」というイメージがありますよね(笑)。日本では、監督が選手に戦術や技術を教えるというより、叩き込むという感じですから。一人一人のポジショニングや機能を叩き込んでいく。

二宮……でも、実際の試合では、予想もできないことが起こるし、練習で叩き込まれた戦術が機能しなくなるときもある。

木村……そうなったときに、臨機応変に対応できるだけの創造力がないと勝てませんよね。結局、「上司の教えに対して忠実に服従する」という日本人の従順な特質がマイナスに機能してしまう。上から言われるのではなくて、自ら考え、実行して互いに協力する、そういう日本代表になってほしいし、日本社会もそうなってほしい。

二宮……そんなしなやかさが今の日本社会にあるかどうか。例えば、昨年の高校サッカーで、滋賀の野洲高校が優勝したでしょ。「セクシーなサッカー」なんて言われた。
 そしたら、高校サッカー界で大顰蹙(ひんしゅく)。「セクシーということ自体が教育に悪い」なんて、真顔で怒っている人がいた。

木村……「セクシーなサッカー」って誉め言葉でしょ。実際、野洲高校は、自由で奔放でクリエイティブなサッカーだった。

二宮……ところが日本では、「セクシーなサッカーなんかに負けるな!」という話になっちゃう。すぐに出る杭を打とうとする(笑)。「やっぱりな、日本では、自由とかクリエイティブというのは無理なんだ」という話にすぐになってしまう。

木村……やっぱりみんな、護送船団方式のトルシエが好きなんだ。
二宮……さすがに「トルシエ流がいい」とやるとアナクロになるから、今度は「日本型トルシエがいい」なんて言い出すんだよね。
(二宮清純・木村剛「フォワードなき日本格差社会」DMD Japan p26-33)

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◎「漁師が網をかけて大量の魚をとるように、多くの労働者をあつめ、とおりいっぺんの演説をしたくらいで、労働者の思想はかわるものではありません」と。