学習通信061026
◎ひとりの個人が十人……

■━━━━━

一人ひとりをとらえる職員会議──絵と子どもの発達……


 先ほどいわれた職員会議のことなんですが、写真集などにも、子どもの絵を並べて先生方がはなしあっておられる写真があるのですが、どういうことを主として話されるんですか?


 そうですね、私たちの保育園の、これも大きい特長でしょうね。ほんとうは一度参加してごらんになるとよくわかると思いますが、各クラスの子どもたちの絵を、小さい年齢から順に並べるんです。その絵は最近描いたものの中から、もっともよい絵、とみたものをえらんで 一番上にあげて、それにその描いたときの年齢を、何歳何カ月とえんぴつでわかりやすく記入しておます。

 一歳児、二歳児、とずっと五歳児まで並べてみますと、案外はじめての人でも、その発達がみえるものですよ。さあ、ここに並べてみますよ。

 ちょうど、はじめてクレヨンを持って描いた一歳前後の子どもは、線も弱々しく、とぎれていますが、一歳の五、六ヵ月くらいまでの子どもは手を横にふって描いているでしょう。

 ところが一歳の後半になるとぐるぐると手をまわしてぬたくりをはじめていますね。ところがその中に一歳十ヵ月で、横線だけ描いている子どもがいますね。この子は脳損傷をもって生まれてきた子どもです。

 二歳すぎると、マルを描きはじめているでしょう。ほとんどの子が、マルか、二歳半頃になると、もう目や、口、顔から手、足らしきものを描きはじめているでしょう。

 ところがここに二歳九ヵ月という子どもでまだぬたくりで、マルがでていない子がいますね。

 このように大部分の子どもが形を目的意識的に描きはじめるのに、まだ一歳後半のような状態の絵を描いている場合、その原因はなんだろう、と担任にまずききます。

 担任はその生育歴から、受けもっていての毎日の様子を話し、すぐに発達のおくれがけんとうつかない場合、職員たちがいろいろ情報を提供してくれたりするのです。

 こんなこともありました。お父さんは失業中で、お母さんは夜バーに働きにいっているため、お父さんは二歳の子どもをつれてのみ屋にゆくことが多い。などという例です。また、偏食がひどく、生野菜をほとんど食べないとか、あるときはもう文字をおしえていた、なんていう例も出てきました。

 秋葉英則先生も一度、私たちの職員会に参加されて、うちの職員が実に家庭の事情をよく知っている、といってびっくりされていました。こうした家庭の事情だけでなく、クラス全体の子どもの絵が暗い場合、子どもたちが先生としっくりたのしく遊んでいないのではないか、とか、子どもの絵が全体に動きが感じられない場合、先生の規制が多いのではないか、などずいぶんいろんな意見を出しあいますよ。

 卒直な職員間の批判も出しあいますし、この前の職員会議の時の絵に比べて、ぐっと子どもが明るくのびてきたことが感ぜられた場合、皆に評価されて喜んだり。

 ともかく、ひとりとしてその時、その時、適切なはたらきかけがないままにみすごさないよう、自分だけの目でなく、全職員の目が一人ひとりにそそがれるようにしてみんなの力が出しあえるようにするのがうちの職員会の特長でしょう。よく他園からも絵をもって比較してみさせてくれ、といってきますが、こういう熱心なところはだんだん子どもたちがのびてくるのがわかりますね。

 なにしろ現在は三園で子どもの数が三百人をこえていますので、朝から、一学期一回は父母たちの協力をいただいて休園にして、午前午後かけてゆっくりと一クラスずつ討論しあっています。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p132-136)

■━━━━━

飲み会

 高級レストランや割烹が不況の嵐の中であえぐのをよそに、学生や若いサラリーマン相手の居酒屋はいつも満員。昔に比べれば店内も明るくきれいでメニューも充実、ひとり二千円もあれば十分満足する価格設定で、たまに訪れると感動すら覚えるほど。

 そういう話を聞くと、「若者は本当に飲み会が好きなんだなぁ」と感じる人もいるだろう。「ほかにすることがないのだろうか、それとも仲間といなければ寂しいのか。飲み会ばかりなんて、まったく今の若者は非生産的だ」と眉をひそめる人もいるかもしれない。

 しかし、彼らの飲み会の様子をちょっとのぞいてみてほしい。するとその中身は、かつてのコンパや宴会とはずいぶん変わってきているのがわかる。まず、彼らは決してお酒を強要しない。また、アルコールを飲むときでも、選択は各人の自由。「私、ウーロン茶」「僕はチューハイレモン」「こっちは熱爛で」「カリブのさざなみ、ってカクテルひとつ」と、まったくバラバラにそれぞれが好みの飲み物を頼む。店員も、面倒がらずにひとりひとりから注文を取っていく。

いつだったか、酒好きの学生たちとの飲み会に出席したとき、「とりあえず全員ビールでいいかな?」と言うと、「どうしてみんなビールなんですか」「私はワインにします」といっせいに反発を食らった。注文や出てくるまでに時間がかかろうとも各人が好きなものを飲みたい、ということなのだろう。もちろん、一気飲みとかお酌のし合いなどということもない。そのかわり、飲みたい人は自分でどんどん追加注文する。まさに「自己責任時代」という感じだ。

 また、飲み会の雰囲気も以前とはかなり違う。みんなで「かんぱーい」と言ったら、あとは自由。ひとりで黙々と食べる人もいれば、三人くらいで秘密の雑談に興じる人も。もちろん、携帯でその場にいないだれかと熱心にメールを交換している人もいる。その場での最低限のルールは、「えー、何の話?」「だれとメールしてるの? 見せてよ」と過度に他人に干渉しないことである。あるグループに加わりたければ、自分も「そういえばこのあいださ」などと積極的に話題を提供して、入っていくことだ。待っていてはいけない。

 そして、帰りたくなったら「じゃ、私はこれで」と抜けるのも自由。自分の分の飲み代さえ置いていけば、「もう少しいいじゃないか」と引きとめられることもない。これも当然、帰りたくもないのに引きとめてもらうことを期待して「そろそろ帰ろうかなー」などと言ってみるのはナシ、という前提のもとにあることだ。

 つまり、若者の飲み会は、「みんなで同じ酒をくみ交わして連帯を強めるため」に行なわれるわけでも、「微妙な人問関係を新しく発生させたり修復し合ったりするため」に行なわれるわけでもないようだ。おそらくそれは、安心して集える人たちと同じ場で、あくまで自分が好きなものを好きなだけ飲み食いしたいために行なわれているのだ。もしかしたらさらに割り切って、「ひとりやふたりで食事すると割高だから、飲み会に参加してるだけ」と思っている若者もいるかもしれない。

現に、「お金がないから」と欠席する若者もいる。友人などからお金を借りてまでも顔を出さなければ、といった義務感はそこにはない。十人で飲み会をしようと、そこにいるのは「ひとつのグループ」ではなく「ひとりの個人が十人」。

 だから、若者に「飲み会に行きませんか?」と言われても、「若者も寂しいのか」「私も彼らの仲間と認められたのか」と、その裏にある意味を深読みしない方がいいだろう。「そうだな、居酒屋にでも行かなければほっけの開きなんか食べられないし、行ってみるか」と、飲み物・貧べ物に目的を絞って出かけるくらいがちょうどいい、と言える。

そして、そうやってあまり期待しないで参加すると、案外リラックスしてその場の雰囲気に溶け込めて、彼らの意外な一面に触れられたり、だれかと熱く語ることができたりするかもしれない。しかし、そういうことがあったときは「ラッキーだった」と思うべき。

最初から「よーし、今日は彼らとの親睦を深めるぞ」と意気込んで参加すると、「だれもオレの相手をしてくれなかった。オレに期待されてたのは金だけだったのか」と悲しい気持ちで帰路に着くことになりかねないからだ。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p106-109)

■━━━━━

 さて、労働組合が以上のような任務をりっぱに遂行していくためには、どうしても、組合の運営と活動のすべてにわたって組合民主主義を確立することが絶対に必要です。

組合民主主義とは

 組合民主主義とは。一ロにいえば、労働組合の主人公である「労働者の、労働者による、労働者のための」民主的な組合運営と活動のことであり、労働組合運動の最高原則というべきものです。

 なぜ、組合民主主義が組合運動の最高原則かといえば、それは、労働者がみずからかちとった自主的な大衆組織であり、思想・信条、支持政党のちがいをこえて、要求にもとづいて団結し、その要求実現のためにたたかう組織だという労働組合の根本的性格に根ざしたものだからです。

 労働組合においては、支配するものと支配されるものとの対立関係はなく、組合員の権利と義務は、組合員としての経歴や肩書きに関係なく、まったく平等であり、対等であり、組合員一人ひとりが組合の主人公なのです。

 だから、この一人ひとりを主人公とすることなしには、思想・信条、支持政党のちがった者どうしの集まりで、真に統一した意志をつくりあげることや、自発性にもとづく積極的な活動を期待することはできません。

 ここに、どうしても、組合民主主義の確立が不可欠なのです。
 歴史的にも、労働組合は「初めに話しあいありき」で、酒場での「話しあい」からはじまりましたが、組合員一人ひとりを主人公としたてってい的な話しあい、討論のなかから、要求とたたかいの統一的な意思をつくりだすことによって、どんなにきびしい弾圧のなかでも団結をまもってたたかいぬいてきたのです。

 組合民主主義にもとづく労働組合の運営と活動は、労働者の自発的な積極性を全面的にひきだし、労働者の労働組合への結集をつよめ、労働組合の戦闘的力量をたかめます。

 こうして、組合良主主義の確立によって、労働組合の階級性と大衆性を統一して、労働組合の任務をりっぱに達成することができるのです。

 また、このような組合民主主義にもとづく活動とたたかいのなかで、労働者は、訓練され、きたえられて、未来の政治の主人公となるのにふさわしいプロレタリア民主主義の資質を身につけるのです。
(労働者教育協会編「わたしたちと労働組合」学習の友社 p67-68)

■━━━━━

(1)労働者と日常的に結びつき、人間的信頼関係をつくる

 まず最初に強調したいのは、労働者と日常的に結びつき、人間的信頼関係をつくるという問題です。

 「政策と計画」という場合、それを難しく考えないことが大切です。その土台は、労働者と日常的に結びつき、人間と人間との信頼関係をつくることにあります。

 大会決議では、このことについて、「支部と党員がまわりの人々と日常的に広く深く結びつくことは、あれこれの党活動の手段ではなく、それ自体が党の活力の根本にかかわる問題であり、党の基本的なありかたにかかわる問題として、重視されなければならない」と強調しました。この見地は、資本の労働者支配によって分断がもちこまれている職場では、とりわけ大切だと思います。

 全国のすぐれた経験では、例外なく、労働者と日常的に結びつき、人間的信頼関係をつくることを、党活動の根本に位置づけています。聞き取り調査から大切だと感じたいくつかの経験を紹介したいと思います。

出発点はあいさつから
 一つは、出発点はあいさつから、ということであります。

 東京の出版関係の職場支部からこういう報告がよせられました。「党大会での『お茶を飲んでいきな』『野菜を持っていくけ』という言葉をおろそかにしてはなりませんという発言の報告を『印象的だった』と聞いた同志が、人間的結びつきで自分自身が変わらなければと思い、これまで会釈しなかった人には会釈を、会釈してきた人には『おはよう』と声をかけ、『おはよう』といってきた人とは会話する努力をし、これからは選挙での支持を広げ、読者も増やせるようにしたいと決意をのべている」。

 北海道の民間の職場支部からはこういう報告がよせられました。「支部では『実践する三項目』を支部の『政策と計画』として確認した。(1)職場に入ったら元気よくあいさつすること、(2)会議を欠席するときは必ず連絡すること、(3)月一回の宣伝紙を活用すること。これを実践してみたら、『合理化』で党員もくたくたになっていたが、半年たったら党と労働者の関係がよくなった。この積み重ねが支部の団結につながっている。こつこつ増やしてきたら、結果的には日刊紙で130%を達成し、日曜版もあと少しで130%目標に達するところまできた」。

 ここでも「元気よくあいさつする」ことが冒頭にすえられていることが、たいへん印象的でした。支部会議についても、「会議に100%出席」といわないで、「欠席するときは必ず連絡する」というところが、柔軟でリアルな知恵が働いていると感じました。

労働者の全生活にわたってつきあう
 二つ目は、労働者のすべての生活にわたってつきあうということです。

 大阪の民間大企業の職場支部からは、こういう報告がよせられました。「労働者の全生活にわたってつきあう姿勢をつらぬいている。労働者との懇談会を二〜三カ月に一回の割合で開いている。バーベキュー大会や花見、釣りなどもおこなっている。そこに、これまで結集していなかった党員も誘っている。この集まりに三回参加した青年が、昨年、入党してくれた」。

 同じような努力は、全国からたくさんよせられました。

党員の苦しみは、労働者みんなの苦しみ
 三つ目は、党員と労働者の結びつきの基礎はどこにあるかという問題です。

 聞き取り調査で印象的だったのは、成果主義管理のもとでの長時間過密労働、メンタルヘルス問題などに、党員も同じように苦しみ、傷ついていることでした。党員の苦しみは、労働者みんなの苦しみでもある。ここに党員と労働者との結びつきの基礎があるし、団結の土台がある。ここを前向きにとらえた活動の発展が大切ではないでしょうか。
(「職場問題学習・交流講座への報告」幹部会委員長 志位 和夫「しんぶん赤旗」20060425日)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「ひとりとしてその時、その時、適切なはたらきかけがないままにみすごさないよう、自分だけの目でなく、全職員の目が一人ひとりにそそがれるようにしてみんなの力が出しあえるようにするのがうちの職員会の特長でしょう」と。