学習通信061027
◎おかかたちがはじめた「小さな」行動が……
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番組をみて
その時 歴史が動いた
格差への怒り 政府を倒す
〜大正デモクラシーを生んだ米騒動
(NHKテレビ 18日放送)
現代に通じる「大衆の怒り」
「格差への怒り 政府を倒す」というタイトルは現代にぴったりで、今なら「米騒動」ならぬ「年金騒動」や「偽装請負騒動」が起こっても不思議はない、などと思いながらみてしまった。
歴史的にも、一九一八年(大正七年)に富山県の静かな漁港で米価高騰のため子どもに飯を食べさせてやれない、地元のおかかたちがはじめた「小さな」行動が全国に波及し、労働者や都市住民、農民(出てこなかったが被差別部落民も)が立ち上がったことや、この報道を禁止した政府に対しジャーナリストたちがいっせいに抗議するシーンも再現され、世論を無視して軍隊まで出動させた寺内内閣が総辞職に追い込まれる過程を「歴史が動いた」瞬間としてとらえた好企画であった。「力なきものの力」「大衆」の登場こそ大正デモクラシーのはじまり、という指摘はそのとおりだと思う。
ところで「女房一揆」のその後の展開が、イメージ映像ではほとんど男たちの動きでえがかれていた点はいささか気になった。各地で運動に参加、裁判で有罪になった女性たちが神戸や奈良にもいたのである。もしかするとこの後、一九二五年に成立した普通選挙法が「男子のみ」であったように、当時のデモクラシーは「男たち」主導だったという皮肉かしら。それなら富山のおかかたちはひっそりと消えていったようにみえても、その後を受けつぐ女性たちの活動が時代を動かしたことにつないでほしかった。
松平定知さん(キャスター、次は「女たちのデモクラシー」という企画はいかがですか。
(米田佐代子 女性史研究者)
(「赤旗」20061025)
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京都では八月十日夜、京都市東七条の未解放部落民の蜂起をきっかけに、府下一七町村に暴動ないしその直前の不穏な状況が生じた。
その発端は、十日の午後、東七条派出所に一人の町民があらわれ「これまで東七条へは追善供養とか何々の供養とかで月々有力者から施米券が頒布され、その時には警察から細民を調べた上で券を配り、三ヵ月に一度くらいは必ず施米券が貰えたものだが、こんどはこんなに米が高くなりみんな困っているのに、施米券が貰えないのはどういうわけだろうか」と愚痴まじりに口説いた(『京都日出新聞』大正七年八月十一日)。
係の巡査は本署へ問合せのため同人の住所氏名を手帳へ控えていたところに、われもわれもと付近の者が寄り集まり、七時ごろには約四〇〇人の群衆となった。
この集団は警官の説得で一時解散したが、辻々に貼られた蜂起を訴えるビラに剌激されて、ふたたび集まりだし、八時半ごろまず東七条派出所を襲撃した。
つづいて町民の怨嗟の的であった七条高瀬川下ル米商沼田定次郎方をおそい、米価の値下げを承諾させて凱歌をあげた。その後、一隊は七条塩小路の村井倉庫、一隊は八条東洞院渋谷米店、他の一隊は大仏正面派出所前の米店、のこる一隊は七条不明門酒井米店へとむかい、一升三〇銭の貼紙をださせた。群衆は夜半には数千人に達し、一夜のうちに下京一帯の米屋三四戸をおそい、一升五〇銭の米を二〇銭ないし三〇銭に値下げさせた。
翌十一日は午前八時半田中西河原町の約三〇〇人が蜂起し、岡村・川口の両米店をおそったのにはじまり、騒動は東七条・鹿ヵ谷・東三条・西三条に波及、さらに西陣の職工をもまきこみ、昼前には京都市全域で約二万人の大騒動に発展し、各地の米屋・派出所がおそわれた。京都府当局は全市の警官だけでは足らず、夜一一時に伏見の第十六師団に出兵を要請、二〇〇人の歩兵と六三人の騎兵が派遣された。西三条では住民の抵抗がはげしく、「暁の衝突戦」を展開し、群衆二〇人・警官五人が負傷した。同日、綴喜郡八幡町では数百人が米・呉服・青物・醤油店に押しかけ、一升二五銭の安売りを認めさせたし、乙訓郡ルビ村(現、京都市南区)でも数十人が米屋一戸をおそっている。
十二日には京都市全域に「夜間外出するものは暴民とみなさるるにつき、なるべく夜間の外出は見合わせられたし」との注意書が貼りだされた。この日、市営の外米廉売が開始され、また救済資金募集も開始された(九月四日までに六四万五〇〇〇円集まる)。このような当局の対策にもかかわらず、昼間より各所で小規模の米屋襲撃がおこなわれた。この日も市内各所に歩兵・騎兵・工兵など合計二五〇人が引きつづき出兵していた。夜には紀伊郡伏見町(現、京都市伏見区)でも、群衆が集まり、不穏の状況が発生、五〇人が出兵している。
京都市では十三日になっても不穏の状況がつづき、治安のために在郷軍人が動員された。一方、加佐郡余部町(現、舞鶴市)では、夜に舞鶴海軍工廠職工と町民あわせて三〇〇〇人が一団となり、酒保をおそって白米一升二〇銭の安売りを認めさせた。その後二隊に分かれ、一隊は酒保倉庫を、一隊は市内の米屋六戸をおそった。また加佐郡新舞鶴町(現、舞鶴市)でも、夜約一〇〇〇人の町民が米屋一戸をおそった。
十四日には相楽郡上狛村(現、山城町)で、住民一五〇人が夕方より米商四戸に押しかけ、値下げを承諾させ、富豪四戸に対し救済金寄付を要望した。十五日、相楽郡笠置村(現、笠置町)では二〇〇余人が米屋三戸をおそった。十六日は相楽郡中和束村で数十人が同郡加茂村(現、加茂町)の米屋一戸をおそい、十八日夜には乙訓郡大技村で青年会員六〇人が富豪二戸をおそっている。五日後の二十一日には乙訓郡大原野村(現、京都市西京区)で、青年会員六〇余人が米屋一戸に廉売の談判をしているし、二十九日には同村の石見・上里青年会員が村会議員一人に辞職を要求し、居宅に乱人している。
京都の米騒動でとくに注意すべきことは、全国の先頭をきって軍隊の出動が要請されたことである。また騒動後の弾圧もはげしく三二四人が起訴され、最高六年の刑を処せられた者もでている。
(井ヶ田良治・原田久美子編「京都府の百年」山川出版社 p144-147)
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一九一八(大正七)年七月末、目本海に面した富山県の漁村の婦人たちが、生活の困難を訴えて、米の県外移出反対と米の安売りを要求する運動を役場や商人にたいしておこした。この報道が新聞をつうじて伝わると、おどろくべきスピードで全国に連鎖反応がおこった。
京都、大阪、神戸、名古屋、東京等の大都市で、民衆が街頭におどり出て、「米の安売り」と「悪徳商人征伐」を叫んでデモンストレーションをおこし、米穀商や「戦争成金」を襲撃し、さらに警官派出所や警察署をも焼打ちする暴動に発展する事件がつぎつぎにおこった。
民衆の蜂起は、さらに各地の中小都市から農漁村・鉱山へと波及し、一部では工場・鉱山の労働者の賃金引上げ・待遇改善等を要求するストライキ闘争と結合して発展したところもあった。
結局、七月末から十月はじめまでのニカ月余にわたって、日本全国の一道三府三二県、三三市一〇四町九七村で民衆が蜂起し、約一千万人がこれに参加したとみられた。警察が全力をあげてこれを弾圧したばかりでなく、六〇市町村に延べ五万人の軍隊が出動し、銃剣と弾丸によって多くの血が流された。政府、裁判所は、厳罰主義でのぞみ、全国で八一八五名が検挙され、七七〇八名が起訴された。そして一九一八年中に有罪の判決をうけたものが、七名の無期懲役をふくむ五一一二名にのぼった。
「米騒動」は、生活防衛のための自然発生的な大衆行動が暴動化したものであって、組織も計画も存在しなかったことが特徴であったが、運動参加者には労働者が多かった。また京都・大阪などをはじめとして、被差別部落民が、もっとも戦闘的に行動したことが目立った。大部分の新聞は、蜂起に同情的な態度をとり、その報道が蜂起の全国的拡大を促進する役割を演じたともいえた。大部分の新聞は、軍部と官僚とがヘゲモニーをにぎる反動的な政府に反対の立場をとっていたから、報道禁止命令に反発して、「言論の自由」擁護を叫び、政府を攻撃した。
結局、陸軍大将寺内正毅の内閣は、「米騒動」の責任をとって総辞職を余儀なくされた。かわって原敬の内閣があらわれたが、原は官僚出身であったが、日本ではじめて貴族の特権をもたぬ首相であったので、「平民宰相」と呼ばれた。支配層は、政党内閣の装いによって、民衆の圧力を緩和しようとはかったのである。
単に偶発的な暴動とみられがちであった「米騒動」の歴史的意義を、もっとも早く、もっとも鋭く評価したのは、事件の当時アメリカに亡命しており、のちにモスクワに行ってコミンテルンの幹部となった片山潜であった。かれはつぎのように書いている。
「日本歴史上、かくの如き重要性を有する叛乱は嘗つて見られなかったところである。この米騒動は明らかに日本における民衆の全般的覚醒の最初の、力強い端緒であって、現代の革命運動の火蓋を切ったものとして考えることが出来る。日本の革命運動は米騒動の瞬間から十倍の力を獲得したのである。
過去における農民一揆と異って、この暴動は都市労働者によって統制され、全国的性質を帯びていた。それは当時深く根ざしていた労働者の不満、成長しつつあったその反抗力、悲惨な、貧窮な生活を絶ってしまおうとする彼等の断乎たる決意を立証した。
しかもこの騒動はその直接原因である米価の異常な高騰によって一層煽られたのであるが、真の原因は世界大戦によって惹き起された急激な経済的変動を受けて、一層悪化した民衆の広範な深刻な不満に根ざしているのである。富める者と貧しい者とを隔てる深淵は刻々と深くなって行った。
支配階級の極度の豪奢と傲慢、労働者階級の益々加わる悲惨と貧窮、それは民衆に憤怒の情を発生せしめたばかりでなく、就中ロシア革命が惹き起した無言の影響に対する、最初は漠とした、しかし益々強くなって行く
興味が、遂には全国的な暴動となって現われたのである。」(「大戦後に於ける日本階級運動の批判的総観」『中央公論』一九三一年四月)
──略──
その後の人民の成長
「米騒動」を境に、日本社会の姿は大きく変わりはじめた。あたらしい社会思想がひろがりはじめ、ひとびとは労資の階級対立を中心とするあたらしい「社会問題」に目をむけはじめた。労働運動を中心とする人民の諸運動が急速に組織され、急テンポで発展しはじめた。
それまで日本では、労働組合はきわめて微弱な勢カにしかすぎなかった。わずかに一九一二年に組織された友愛会その他の労働者団体があったにすぎなかった。ところが「米騒動」の翌年の一九一九年から、労働運動は目ざましく発展しはじめた。労働組合の結成と労働争議の発生とが相互に促進しあって、労働運動の組織性と戦闘性とがつよまりはじめた。政府統計によると、一九一八年には一〇七であった労働組合数が、一九一九年には一八七になり、さらに一九二〇年には二七三にふえた。労働争議件数も、一九一九年には四九七件と、これまでの最高を記録した。
労働争議が、労働組合の指導によって組織的・計画的におこなわれることが多くなった。一九二〇年には、官営八幡製鉄所で二万数千人の労働者が待遇改善を要求してストライキをおこし、熔鉱炉の火をおとしたといわれた大争議があった。一九二一年には、神戸の三菱・川崎両造船所の労働者三万人が五〇日もストライキをつづけた。これは第二次大戦前の日本における最大のストライキ闘争であった。また一九二〇年には、東京で第一回メーデーが催されて、五、〇〇〇人の労働者が参加し、その翌年からメーデーは全国各地につぎつぎにひろがった。
このような運動の上げ潮のなかで、労資協調主義の親睦・共済団体であった友愛会の性格も変化しはじめ、戦闘的な労働組合の全国中央組織としての役割をもちはじめた。そのことは、一九一九年の年次大会で、友愛会の名称を大日本労働総同盟友愛会と改称したことにも象徴されていた。さらに一九一二年の年次大会では、友愛会の幼名に別れを告げて、日本労働総同盟という労働組合らしい名称にあらためられた。
労働者階級ばかりでなく、農民その他の諸社会層も自主的な組織運動を発展させた。「米騒動」には、多数の小作農民の参加がみられたが、かれらは自分がつくった米の約半分を地主にとりあげられるために、自家用飯米に不足し、「米よこせ」の運動に加わらざるをえない窮境にあったのである。一九二二年四月、農民運動の全国的組織として日本農民組合が結成された。「土地と自由」のスローガンのもとに、小作料の減免、耕作権の確立、さらには「土地を農民へ」と要求して、全国各地に小争作議が続発した。政府統計によると、一九一七年には八五件であった小作争議が、一九二一年には一、六八〇件、参加人員一四万六、〇〇〇人と飛躍的に増大している。
被差別部落民が「米騒動」のなかできわめて戦闘的に行動したことはさきに指摘したが、それはかれらの生活がとりわけ貧困で不安定であり、また平素うけていた社会的差別待遇への反発が強かったことの反映であった。そしてまた官憲の弾圧も、かれらにたいして特別に苛酷であった。これらの経験は被差別部落民を目ざめさせた。一九二二年三月、差別反対の解放運動の組織として、全国水平社が結成された。この運動はげんざい部落解放同盟の名称でつづけられている。
日本の婦人解放運動は一九一一年、小ブルジョア的立場からの人権確立運動として、青鞜社によってはなやかに開始された。ところが「米騒動」以後は、婦人参政権を求める具体的な政治運動として、またプロレタリア階級の立場に立った社会主義婦人運動としてあたらしく展開するようになった。それらの目的のための団体として、新婦人協会(一九二〇年)、婦人参政権獲得期成同盟会(一九二四年)、赤瀾会(一九二一年)、八日会(一九二二年)などの組織がうまれた。また労働組合にも、婦人部を設置する動きがあらわれた。
知識層が政治的・社会的に発言し、さらに組織的に活動しはじめたこともあたらしい動向であった。一九一八年一二月には、デモクラシー運動を推進するために、吉野作造博士や福田徳三博土によって黎明会という進歩的思想家の団体が結成された。吉野博士は東京帝国大学の政治学教授であり、福田博士は東京商科大学(現一橋大学)の経済学教授であった。早稲田大学の政治学教授大山郁夫も、デモクラシーの啓蒙・宣伝に大きな役割を演じた。とくにかれは、人民の民主主義をおしすすめようとする立場から、やがて社会主義運動の実践に参加するようになった。また京都帝国大学の経済学教授河上肇博士は、『貧乏物語』(一九一六年)を書いて社会的矛盾に鋭い眼をむけたのち間もなく、マルクス主義の研究に没頭し、大きな啓蒙的役割を演じた。
時代のあたらしい展開をもっとも鮮明に印象づけた知識人の動向は、学生社会運動であった。
第一次世界大戦・ロシア革命・「米騒動」などの世界と日本の歴史の激動は、知識青年である学生の鋭敏な反応をひきおこした。これまで個人の立身出世や内面的世界への沈潜にむけられていた学生の関心が、社会問題にむけられるようになり、社会改造の熱情に燃えて、労働運動・農民運動に接触する学生がつぎつぎにあらわれた。一九一八年一一月、京都帝国大学の学生は友愛会員の労働者と提携して労学会を組織した。同年一二月、東京帝国大学の学生が新人会を組織し、翌年、早稲田大学の学生が建設者同盟を組織した。
そしてマルクス主義が急速に学生運動の指導理念となっていった。学生運動の活動家のなかには、卒業後、労働・農民運動の指導者になったものも少なくなかったが、その立場は、その後の歴史の波のなかで、共産主義者から右翼社会民主主義者までの、さまざまな思想的立場に分化した。
以上にみたような進歩的運動の発展にたいする反動として、一九一九年には大資本家渋沢栄一らによって、労働運動を労資協調主義に誘導するための団体として「協調会」が設立され、また大日本国粋会(一九一九年)や大日本赤化防止団(一九二二年)のような暴力的な右翼団体も結成された。
革命運動の新段階
一九一〇年の「大逆事件」いらい、日本の社会主義運動は「冬の時代」と呼ばれる一時的窒息状態においこまれていた。ところが第一次世界大戦のもとで社会の空気がかわりはじめるとともに、社会主義運動は復活しはじめたが、「米騒動」以後の労働運動・諸社会運動の高揚の波に乗って、あたらしい段階に発展しはじめた。とりわけロシア革命の刺激によって、マルクス主義の影響が急速にひろがりはじめた。一方、明治末年いらいの有力な潮流であるアナルコ・サンジカリズムの運動も活発になった。
一九二〇年には、すべての社会主義的分子の統一体として日本社会主義同盟が結成された。マルクス主義者とアナーキストとの思想的・組織的対立がはげしくなり(アナ・ボル論争)、一九二二年九月、労働戦線統一をめざした総連合運動も、この対立のため挫折した。しかしこの頃から、マルクス主義の指導権が確立し、アナルコ・サンジカリズムは影響力を失っていった。
一九二二年七月一五日、日本共産党が結成された。それは一九一九年にモスクワで結成された共産主義インタナショナル(コミンテルン)の日本支部という位置づけをもち、当時の日本の条件のもとで非合法の秘密結社であった。
「日本共産党の創立によって、日本の労働者階級と勤労人民は、はじめて、真に革命的で科学的なマルクス・レーニン主義にみちびかれ、国際労働者階級のたたかいと結びついて、日本における人民革命への道を不屈にきりひらいていく司令部をもったのです。その意味で、わが党の創立は、日本の労働者階級と勤労人民の解放をめざすたたかいの歴史のうえで、画期的なできごとでした」(「日本共産党の四十五年」)。
日本共産党の創立者である片山潜は、「米騒動」を評価した論文で、つぎのように書いた。
「米騒動は、日本の労働運動に力強い刺激をあたえ、それを広い革命的な道のうえにおいた。米騒動と巨大なストライキの波の経験は、プロレタリアートの自然発生的大衆運動が勝利しえないことを示した。革命的闘争の鍵は組織にある。これこそ日本プロレタリアートがこの闘争から学んだ教訓なのだ。その後まもなく、日本プロレタリアートの最良の代表者たちが日本共産党をつくった。この旗の下に、労働者・農民・日本植民地の被抑圧者が、自由を渇望して団結しはじめた。」(「日本における一九一八年の米騒動の一五周年によせて」『コミユニスト・インタナショナル』誌一九三三年一〇月)
(労働運動史研究会編「米騒動五十年」労働旬報社 p6-15)
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◎「米騒動は明らかに日本における民衆の全般的覚醒の最初の、力強い端緒であって、現代の革命運動の火蓋を切ったもの……日本の革命運動は米騒動の瞬間から十倍の力を獲得したのである」と。