学習通信061031
◎一匹の馬が……
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もうけはどこから生まれるか
具体的な例で示そう。
机をつくってもうける資本家の場合、木材や釘や機械など必要な諸経費に四万円支払い、労働力を一万円で買い、働かせて机をつくったとする。一万円の労働力は八時間使用されて四万円の新しい価値となり、木材や釘や機械の価値四万円はそのままの大きさで机に移り、計八万円の価値の机ができあがる。八万円の価値の机を価値どおり売って八万円の金を手に入れる。
はじめに生産手段(原料・機械など)に四万、労働力に一万、計五万円投下した資本家のお金(資本)が八万円に増えている。資本とは自己増殖する価値だ。その増えた分の三万円が利潤である。これは生産手段から生まれたのではない。生産の過程で労働者がつくり出したのだ。労働者は一日四万円の価値をつくり出しているのに、三万円の価値は搾取され、賃金として一万円しか受けとっていない。
賃金の三倍も搾取された。これを、搾取率三〇〇パーセントという。(賃金を二倍の二万円にしてもまだ二万円も搾取されている。搾取率一○○パーセント)時間であらわすと、労働者が朝から八時間働くうち、二時間分(一万円)は賃金として受けとるが、あとの六時間分(三万円)は資本家のふところだ。
原始共同体では、まる一日働いても一日生きるのに必要な分しかつくれなかった。この社会には搾取の可能性はなかった。
奴隷制社会では、人間がまるごと道具として使われ、封建制社会では、農民のつくりだした生産物のうち半分(五公五民)が年貢として封建領主階級に搾取された。いずれも、搾取が目に見えた。
ところが資本主義社会では、高い生産力のもとで、生活に必要なものをつくる労働(必要労働)はわずか二時間ですみ、それを越えて行なわれる労働(剰余労働)が六時間にもなり、この剰余労働の生みだす剰余価値がまるごと搾取されているにもかかわらず、まったく目には見えないのである。
平均して、一人の労働者から三万円毎日搾取しているのが今日の社会だ。その点は中小企業でも変わらない。もっとひどいところもあるだろう。しかし、親会社や取引きで関係している大企業にその利益はすい上げられ、経営が苦しいところは少なくない。生産部門だけではなく、商業、金融、サービス部門でも搾取は行なわれている。くわしくは経済学を学んでほしい。
この巨大なしくみをもつ資本主義社会が、資本家の管理のもとに維持されるために国家と地方の行政が行なわれている。こうしたところで働く公務員労働者は、もちろん地域住民や国民の利益につながる仕事も行なうが、大企業に奉仕する仕事をやらされているという点で、大企業に「搾取」されていることになる。
資本主義社会で働くかぎり、どんな産業のどんな会社のどんな部門で働こうと、この搾取からのがれられない。
朝から二時間働いたから賃金の分は終わった。帰らせてもらいます≠ニいえばまちがいなく首を切られ、明日からの暮らしが成り立たない。
搾取のしくみを知れば、怒りが湧くが同時に働く意欲がなくなるという声も聞く。しかし私たちはこのしくみのなかで、働き、生き、そして明日の社会をきりひらく以外に道はない。
明日にむかう大きな見通しの前に、まず搾取そのものがどのように強められているかを、具体的にみて、そのなかで働くとはどういうことか深めてみたい。
(中田進著「働くこと生きること」学習の友社 p58-60)
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剰余価値の生産
いま、一人の労働者の毎日の生活必需品の平均量を生産するために、六時間の平均労働が必要であると仮定しよう。さらに、六時間の平均労働は、これまた、三シリングにひとしい金の分量に実現されているものと仮定しよう。
そうすると、三シリングが、その人の労働力の価格、つまり労働力の一日の価値の貨幣による表現となるだろう。もし彼が毎日六時間働くとすれば、彼は、自分の日々の生活必需品の平均量を買うのに十分な、すなわち自分自身を労働者として維持するのに十分な価値を、毎日生産することになろう。
だが、この人は賃金労働者なのである。だから彼は、自分の労働力を資本家に売らなければならない。
もし彼がそれを一日三シリング、つまり週一八シリングで売るならば、彼はそれをその価値どおりに売ることになる。彼が紡績工だと仮定してみよう。もし彼が毎日六時間働くならば、彼は毎日三シリングの価値を綿花につけくわえるであろう。
彼が毎日つけくわえるこの価値は、彼が毎日うけとる賃金、つまり彼の労働力の価格と正確にひとしい価値のものであろう。しかし、このばあいには、なんらの剰余価値または剰余生産物も資本家の手に入らないことになる。そうなると、ここでわれわれは困難にぶつかる。
資本家は、労働者の労働力を買い、その価値を支払うことによって、ほかのどんな買手とも同じように、買い入れた商品を消費しまたは使用する権利を得たわけである。諸君は、機械を動かすことによってそれを消費または使用するのと同じように、人間を働かせることによってその労働力を消費または使用する。
だから資本家は、労働者の労働力の一日または一週間の価値を支払うことによって、その労働力を、まる一日またはまる一週間使用しまたは働かせる権利を得たことになる。労働日や労働週には、もちろん一定の限界があるが、このことはあとでもっとくわしく見ることにしよう。
さしあたっては、諸君の注意を決定的な一点にむけてほしい。
労働力の価値は、それを維持または再生産するのに必要な労働量によって決定されるが、しかしその労働力の使用は、ただ、労働者の活動的なエネルギーと体力とによって制限されるだけである。
労働力の一日分または一週間分の価値が、労働力の一日分または一週間分の行使とはまったく別であるということは、一匹の馬が必要とする飼料とその馬が騎手を乗せてゆける時間とがまったく別であるのと同じことである。
労働者の労働力の価値に限界をあたえる労働量は、彼の労働力が遂行できる労働量の限界をなすものではけっしてない。
さきの紡績工の例をとってみよう。すでにのべたように、彼は、彼の労働力を毎日再生産するには、三シリングの価値を毎日再生産しなければならず、彼は毎日六時間働くことによってそうするのである。しかしこのことは、彼が毎日一〇時間または一二時間、あるいはそれよりも多くの時間働くことを妨げるものではない。
ところが資本家は、紡績工の労働力の一日分または一週間分の価値を支払うことによって、紡績工の労働力をまる一日またはまる一週間使用する権利を得たのである。
だから彼は、紡績工を、たとえば一日一二時間働かせるだろう。
だから紡績工は、彼の賃金、つまり彼の労働力の価値を補填するのに必要な六時間を超過して、もう六時間働かなければならないことになる。
私は、この六時間を剰余労働時間と名づけることにする。
そしてこの剰余労働が体現されたものが、剰余価値であり剰余生産物である。
もしわが紡績工が、たとえば一日六時間の労働によって、綿花に三シリングの価値、つまり彼の賃金とちょうどひとしい価値をつけくわえるとすれば、彼は、こ一時間では六シリングの値うちを綿花につけくわえ、それに比例する剰余の糸を生産することになるであろう。
彼は、自分の労働力を資本家に売ってしまったのだから、彼がつくりだす生産物の価値はすべて、彼の労働力の一時的な所有者である資本家のものになる。
したがって資本家は、三シリングを前貸しして六シリングの価値を実現するであろう。というのは、彼は、六時間の労働が結晶している価値を前貸しして、そのかわりに一二時間の労働が結晶している価値をうけとるからである。
これと同じ過程を毎日くりかえすことによって、資本家は、毎日三シリングを前貸しして、毎日六シリングをふところにいれる。そしてこの六シリングのうち半分はふたたび賃金を支払うためにでてゆくが、のこりの半分は、資本家がそれにたいしていかなる対価をも支払わない剰余価値を形成する。
資本と労働とのこの種の交換こそ、資本主義的生産または賃金制度の基礎であり、かつそれは、労働者を労働者として、また資本家を資本家として再生産するという結果をたえずひきおこさざるをえないものなのである。
剰余価値の率は、ほかのすべての事情が同じだとすれば、労働日のうち労働力の価値を再生産するのに必要な部分と、資本家のために遂行される剰余時間または剰余労働との比率によってきまるであろう。
したがってそれは、労働者がそれだけ働いたのではたんに彼の労働力の価値を再生産する、もしくは彼の賃金を補填(ほてん)するにすぎないような程度をこえて、労働日が延長される比率によってきまるであろう。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p145-149)
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◎「資本家は、労働者の労働力の一日または一週間の価値を支払うことによって、その労働力を、まる一日またはまる一週間使用しまたは働かせる権利を得たことになる」と。