学習通信061102
◎だれでもふつうに考えること……

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 そこで、一般的に言って、またいくらか長い期間をとってみると、あらゆる種類の商品がそのそれぞれの価値どおりに売られているとすれば、利潤──個々のばあいの利潤ではなく、いろいろな事業の経常的かつ通常の利潤──は、商品の価格を法外に高くすること、つまりその価値を超過する価格で商品を売ることから生ずると考えるのは、ナンセンスである。

この考えの愚かしさは、これを一般化すればはっきりする。

人は、彼が売り手としていつも得するものを、買手として同じようにいつも損するであろう。買うだけで売らない人、消費するだけで生産しない人たちがいる、と言ったところで、役にはたたないであろう。こうした人たちは、彼らが生産者たちに払う分を、まず生産者たちからただで手にいれなければならない。

もしある人が、最初に諸君の金をとりあげておいて、あとで諸君の商品を買ってその金を返すのであれば、諸君は、諸君の商品をこの同一人物にいくら高く売ってもけっしてもうかることはないであろう。

この種の取引は、損失を少なくするかもしれないが、けっして利潤を実現するたすけにはならないであろう。

 したがって、利潤の一般的性質を説明するためには、諸君はつぎの定理から出発しなければならない。

すなわち、諸商品は平均してその真実価値で売られる、そして、利潤はそれらの商品をその価値どおりに、すなわち、それらの商品に実現されている労働量に比例して、売ることによって得られる、という定理である。

もし諸君がこの前提にたって利潤を説明することができなければ、諸君にはとうてい利潤を説明することはできない。

これは、逆説であり日常の見聞とは相反するように見える。

地球が太陽のまわりをまわっていることも、また、水が非常に燃えやすい二つの気体からなりたっていることも、やはり逆説である。

科学上の真理は、もしそれを事物のまぎらわしい外観だけをとらえる日常の経験から判断するならば、つねに逆説である。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」新日本出版社 p138-140)

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利は元(仕入れ)にあることを忘れるな

「昔から利は元にあり、ということばがある。利益は上手な仕入れから生まれてくるという意味だと思う。まずよい品を仕入れる。しかもそれを、できるだけ有利に、適正な値で買う。そこから利益が生まれてくる。昔の人はまったくうまいことを言うものである。実際その通りで、商売を成功させるためには仕入れはきわめて大切である。したがって商売を営むものは、よい品物を安定的に供給してくれる仕入先を求め、その仕入先を、品物を買ってくれるお得意先と同じように大切にしていく気持ちが肝要である」

【解説】
 要するに仕入れは商売の大切な命脈ということである。だからといって、やたらに安く買い叩けばいいというものではない。自分も儲け、相手も儲けさせることが必要だとは、松下氏がほかのところでも繰り返し説いているところである。

 このことは、ちょっと考えると両立しがたいようだが、ちゃんと両立するようになっているのである。

「私は過去において、成功した会社、商店で、その成功の大きな秘密が仕入先をだいじにしたことにあるという例をたくさん知っている。なるほどあの店は成功するはずだ、ということを、しばしば感じたことがある。仕入先をだいじにすれば、仕入先のほうでも、自分をよく理解して、だいじにしてくれるところは、よい品を安くお届けしよう、ということになる。それは人情というものである」

 と松下氏は言っている。きわめて当然のことでありながら、案外見落とされやすいことである。
(解説・大 久光「松下幸之助 一事一言」波書房 p21-22)

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ではその利潤はどこからでてくるのか。この問題についてはいままでも何回かとりあげてきたが、ここでまとめて整理してみよう。

 第一に、利潤は安く買って高く売るという流通面で生ずるのではない。もし流通面で生ずるのだとすれば生産者には利潤がないことになってしまう。生産者は原料その他いっさいの生産のための費用に利潤にあたる分を上積みして出荷する。問題はこの上積み分がどこからでてくるかということなのだが、これは生産するという仕事そのもののなかからでてくる。つまり、生産ということは新しい価値をつくりだすことなのだ。
(浜林正夫著「社会を科学する」学習の友社 p111)

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 資本家のもうけは流通ではうまれない

 そこで問題は、資本家のこのもうけの五億円がいったいどこからでてくるということである。

だれでもふつうに考えることは、紡績資本家が一〇億円の貨幣をもって生産手段と労働力とを買ったとき、あるいは新たに生産した綿糸を売って貨幣を手にいれたとき、この五億円というもうけ(剰余価値)が生まれるのではないか、ということである。

しかし商品と貨幣とが交換されるばあいに、もしも商品のうちにふくまれている価値と貨幣のもつ価値とが同じ大きさのものであれば、資本家のもうけ(剰余価値)は生まれない。だから売買から資本家のもうけが生まれるためには、交換される商品と貨幣との価値の大きさがちがわなければならない。

すなわち、はじめに一〇憶円の貨幣を投じて実質上一五憶円の価値をもつ商品(生産手段と労働力)をその価値よりも五億円安く買うか、あるいは新しく生産した一〇億円の綿糸をその価値よりも五憶円高く、一五憶円に売るかしなければならない。

そうすると、一見したところ、資本家のもうけは売買から生まれるようにみえる。そしてまた、じっさい、一人一人の資本家についてみれば、こういう方法(相手をだますこと)によってもうけることは可能である。

しかし社会全体、資本家全体を考えるならば、事情はまったくちがってくる。売手の立場からみれば、一〇憶円の商品を一五憶円に売って五億円もうけているが、買手の立場からみれば、一五憶円の貨幣で商品を買って五憶円損をしているのである。

だから社会全体からみれば、一方のもうけは他方の損失であって、価値の総量はすこしも増加していない。資本家階級を全体としてみれば、こういう方法ではもうけ(剰余価値)は生まれないのである。それでは資本家全体がだれもかれもその商品を、たとえば五〇%だけその価値以上に売ることができたらどうだろう? そうすれば資本家階級は全体としてもうかるのではないか。けっしてそうではない。

資本主義社会では、資本家は一方では売手であるとともに、他方では買手である。かれらは、売るときもうけた五憶円を買うときうしなってしまうのである。資本家全体が、たれもかれもがその商品を、たとえば五〇%だけ価値以下に買うことができるばあいにも、事情は同じである。資本家たちは、買手としてえたものを売手として失ってしまうのである。だから、資本家階級全体をとってみれば、売買からは資本家のもうけ(剰余価値)はけっして生まれないのである。

 資本家のもうけは生産過程で生まれる

 ところが資本家階級全体をとってみても、資本家のもうけはつねに生みだされ、資本家階級全体のもつ価値の総額は、年とともに大きくなっている。明治の初年頃には日本の資本家階級のもつ価値の総額は、比較的小さいものであった。会社の資本をみても、五〇万円、一〇〇万円の会社は大会社であった。ところがこんにちでは、一〇億円以上の資本金をもつ大会社が日本には一七三もある有様である。

資本家階級全体のもつ価値の総額は、いまでは明治初年にくらべて何十倍、何百倍にもなっている。これはいったいどうしたことか。資本家階級のこの厖大なもうけはどこから生まれてきたか。それは売買から生まれてきたはずはない。もし売買から生まれてこないとすれば、それは工場のなかから──すなわち生産過程から生まれてくる外ないのである。
(宮川実著「新経済学入門」社会科学書房1983年 81-82)

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◎「科学上の真理は、もしそれを事物のまぎらわしい外観だけをとらえる日常の経験から判断するならば、つねに逆説である」と。