学習通信061107
◎核を抜きにした議論はありえない……

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防衛庁長官「9条改正時期来た」

 久間章生防衛庁長官は一日の衆院安全保障委員会で、戦力の不保持などを定めた憲法九条について「変える時期に来ているんじゃないかと思う」との認識を示した。久問氏は自衛隊が国連軍に参加する場合を例示し「よその国と同じようなことができるのか。憲法の規定があるからできません、ということもあり得るんじゃないか」と指摘した。

 核保有議論の必要訴え

 自民党の中川昭一政調会長は一日、日本記者クラブでの講演で、北朝鮮の核開発問題に関連し「周辺状況が急変する中、相手が核という今までない要素を出してきた以上、核を抜きにした議論はありえない」と述べ、核保有を巡る議論の必要性を改めて訴えた。
(日経新聞 20061102)

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北朝鮮は必ず核大国になる!
世界覇権国アメリカとアジア覇権を目論む中国、
不確定なロシアに囲まれた日本の選ぶ道を戦略的に分析する
『片岡鉄哉のアメリカ通信』でおなじみの著者が安部政権に緊急提言!

核武装なき改憲は国を滅ぼす
 ブッシュ政権が続く間に「憲法改正」を急げ!
  スタンフォード大学 フーバー研究所元上席研究員
    片岡鉄哉

安倍新首相は日本の救世主となるか/戦後日本「四度目の敗戦」/憲法改正こそ急務/靖国参拝と修正主義/甦る天皇制/パックス・アメリカーナの行方/中国の脅威は本物か/ならず者国家と米軍再編/新しい日本の姿

(日経新聞20061107 2面の書籍広告)

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高等学校一年(当時小学校四年)
   大賀章子

 すくなくとも六年前までの私は、父母兄姉だれ一人として欠けることのない幸福なそして楽しい月日をおくっていました。戦争はこの幸福な一家をこわしたのです。一つの家庭ばかりではありません。数かぎりのない何十万という家庭の幸福をこわしてしまったのです。

 その頃兄は召集されて、私たちの家を去っていきました。
父は顔に面打ができて、五日くらい前から毎日病院にかよっていました。

 思い出してもぞっとして背すじが寒くなるような八月六日。父と姉は何も知らずに元気で広島へ出ていきました。だが数時間後には、広島の人の運命が一転されたのでした。それは言うまでもなく、原子爆弾一発のためです。父と姉は、ともかく家に帰ってくることはできました。だが……。私は、父が原爆にあってから死にいたるまでの約三週間のことを述べてみたいと思います。

 八月六日八時を過ぎた頃、父は、市内土橋にある樽谷外科医院の待合室で自分の診察の時間のくるのを待っていました。突然閃光がひらめくと同時に大音響がして、家がくずれかかってきました。真暗になって一寸先も見えなくなったので、誰か助けにきてくれるだろうと静かに目をとじて待っていますと、急に周囲にいた人々の助けを求める声が聞えはじめました。あたりをすかしてみると、だんだん明るいところが見えてきます。明るい方へはい出していくと、もう死んでいる人につきあたりました。父はその死体をこえて、明るい方へと進んでいきました。

 だが、その明るい方とは何だったのでしょうか? それは燃えさかる火焔だったのです。外はもう火の海になっておりました。父は逃げ場を失って、茫然とたちすくんでしまいました。そこへ、落ちついた七十くらいの老人が歩いてこられました。父は気をとりもどして、大分心強くなってきました。川べりに行けば大丈夫だというので、その老人と一緒に本川の方へ逃げていきました。だが、川べりに出てみると、そこももう火の海になっていました。

そればかりではありません。橋のランカンもメラメラと燃えさかり、川を見れば川ももえていました。川のなかでも、吹きとんできた家屋の柱や戸板などがバチパチと音をたてて燃えているのです。しかたなしにまた基原の方へひきかへして、しばらくその場にたたずんでいました。けれど、そこも火焔につつまれていって、熱くて熱くてどうすることもできません。歩きまわっているうちに、電車線路に出ていました。枕木までが火を吹いていて、もう火をのがれるところはなくなってしまいました。

大勢の人々とともに、両側の家が悪魔の舌のように燃えさかるなかを、電車線路づたいに己斐に向って歩きはじめました。

「あの時の大勢の人々の行列は、地獄絵を見るよりももっとむごたらしい有様だったよ。」

と父はあとになって語りました。さまよったあげく父が家にたどりついたのは、もう十一時を過ぎておりました。あの時の父の姿。私たちは父にとりすがって泣きました。父はそれから三日間寝たきりでした。父には仕事がありました。父の外傷は浅かったので、起きあがりました。

 「ああ、きついなあ、きついなあ。」

と言いながら、苦しさをこらえて、原爆被害者の食糧問題のために働きつづけていました。だがその時すでに、にくらしい原子の放射能は、父の身体の奥深く食いこんでいたのでした。とうとう八月の二十日になって倒れてしまいました。原因不明の高熱がつづいています。

 薬をもとめるために大切な食糧と交換して、私たちは食べるものも食べないで、ありとあらゆる手当てをほどこしましたが、病状は悪くなる一方でした。熱は四十二度ぐらいまで上ったまま、どうしても下がりません。身体には斑点が表れてきて、白血球はぐんぐん減っていくばかりです。歯ぐきからは血が流れて、かたまることを知りません。家族の血液をとって輸血をしてみても、止血の注射を何本うってみても、効き目がありませんでした。

 私たちにとって、もっとも悲しい結末か迫ってきました。

それは二十七日の夜のことでした。今まで出てきて困った血液が、こんどは出なくなってしまったのです。それから十一時間の後に、父は私たち一人一人の手をにぎり、ただ一人そばにいない戦地の兄のことを心配して、兄の名を呼びつづけながら、二度と帰ることのない旅へと旅だっていきました。

(後書)
 「始めか終りか」という映画を見ましたが、その時感じたことを書いてみたいと思います。

 ウラニュームの原子爆弾を発明した科学者たちは、その爆弾を落せばどうなるか? 何十万の罪なき人々がどんな悲しい思いをしなければならないか? それを実験の結果よく知っておったのです。それにもかかわらず原子爆弾をつくり、広島に落してしまったのです。

 それは戦争に勝つためであったのでしょう。戦争さえなければ、こんな罪をおかさなくてもすんだでしょう。立派な科学者を失わなかったでしょう。また楽しい家庭をこわすこともなか、たでしょう。

 二度とこんな悲しいことを繰りかえすことなく、どんなことがあっても私たちは平和を守りぬかねばならないと思います。


 原子爆弾をつくった科学者たちの中には、ヒュママニーストもいた。


「一九四五年六月に、シカゴの冶金研究所によって任命された原子力の社会的、政治的意義に関する委員会≠ェ、陸軍長官に一つの報告書を提出した。七人の科学者から成るこの委員会の委員長は、ジェームス・フランク教授で……この委員会報告の効果を補強するために、原子爆弾製造計画に関与した六十四人の科学者によって 署名された同一趣旨の請願書が、トルーマン大統領に直接とどけられた。」(プラッケット著『恐怖・戦争・爆弾』田中慎次郎訳)

 フランク報告にはつぎのように言っている。
「ロシアはもとより、アメリカの遣り方や意図をおおむね信頼している連合諸国すら、また中立諸国も、日本にたいする原子爆弾投下によって深刻な衝撃をうけるだろう。ロケット爆弾と同じように無差別な被害をあたえ、且つそれよりも一千倍も強烈な破壊力を発揮する新兵器を、秘密裡に用意し突如としてこれを使用するような国が、かかる兵器を国際協約によって廃棄する希望を表明しても、世界をしてこの国の真意を諒解せしめることは至難であろう。

……日本にたいする原子爆弾の奇襲攻撃によって得られる軍事的利益とアメリカ人の生命の節約よりも、世界各国に波及する恐怖感と反感の方が大きいかもしれない。

……この見地から、新兵器の実験は、連合国全部の眼前で、砂漠または原野上において行わるべきであろう。

……かかる実験を行った後、日本にたいする降伏の最後通牒を発し、然る後もし連合国(およびアメリカの国内輿論)の同意が得られたなら、原子爆弾が日本に投ぜられても已むを得まい。

……このように考えると、日本にたいして原子爆弾を逸早く投下することに吾々は反対である。もし合衆国が、人類にたいするこの新らしい無差別破壊兵器の最初の使用者となるならば、合衆国は世界中の輿論の支持を失ない、軍備拡充競争を激化し、かかる兵器の管理に関する国際協定を達成する可能性を阻害するであろう。」
(長田新編「原爆の子」岩波書店1951年刊 p204-207)

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「核武装議論」発言で市田氏
予算委で集中審議を

 日本共産党の市田忠義書記局長は、六日の記者会見で、麻生太郎外相の「核武装議論」発言について、「いちばん大事なことは、なぜああいう発言を外相としてしたのかということを、安倍晋三首相も出席した予算委員会の席上で集中審議することだ。麻生外相と安倍首相の責任を追及する審議の場を設けるべきであり、その実現に力を尽くしたい」とのべました。

 市田氏は、野党側が麻生外相の罷免を要求していることに関連し、不信任決議案や参院での問責決議案の提出について記者団に問われ、日本共産党は、麻生外相の罷免を要求している、とあらためてのべたうえで、「まず予算委員会での集中審議をやるべきだ。そこでの議論をふまえ、他の野党とも相談しながら、どの時期になにを出すのが適切か、もっとも有効な方法を判断したい」とのべました。
(「赤旗」20061107)

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 それは戦争に勝つためであったのでしょう。戦争さえなければ、こんな罪をおかさなくてもすんだでしょう。立派な科学者を失わなかったでしょう。また楽しい家庭をこわすこともなか、たでしょう。

 二度とこんな悲しいことを繰りかえすことなく、どんなことがあっても私たちは平和を守りぬかねばならないと思います。