学習通信061108
◎永久に癒やすことの出来ない苦悩が……

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借名

 よる、十時すぎ。今夜こそは早寝をするつもりでテレビのスイッチを切ろうとしたら「あすへの記録」=ガン細胞・その転移をさぐる=というタイトルが目に入った。

 この病気で弟を失ってから私はどうしても、ガンという宇を見すごせなくなっている。つい、また座りこんでしまった。

 あの憎らしいガン細胞が泡つぶのような形で顕微鏡に映っている。それがどのように体内をむしばみ、転移してゆくか、その経過が丹念にとらえられている。実験につかわれる白ネズミの尻尾やおなかにガン細胞を移植し、やがて一匹ずつ解剖してゆく。なんという大変な仕事だろう。白衣の先生方のひたむきな努力を拝見しているうちに、感動して胸がつまるような気がした。

 すでに八年間という長い間のこの先生方の研究が、やがて実を結び、ガンの転移をくいとめることが出来たら……どんなにたくさんの人間の命が救われることだろう。見終わったあと、私はしばらく、祈るような気持ちだった。

 気がつくと、テレビの画面はもう変わっていた。第二次米ソ戦略兵器制限交渉の解説番組である。なんでもこのSALTとやらいうのは、ひとつ間違うと第三次の世界大戦にも発展しかねない重大な問題をふくんでいるらしいことは私もぼんやり知っていた。人間を救う話から、人間を殺す話──サッと頭を切りかえることが出来ないで、ドギマギしながら、私は座っていた。

 アメリカの巡航ミサイルの性能を、わかりやすく漫画ふうに見せた絵がなんともこわかった。これは空想科学の一コマではない。こんな兵器が使われたら地球全体がくずれてしまうに違いない。原子爆弾の悲劇は広島、長崎でたくさんなのに、これは一個でその何十倍の破壊カがあるとか──。恐ろしい。

 その夜、しばらく寝つかれなかった。これではガンを治していただいても核で殺されるかもしれない。こんな不安な世の中で私たちは生きる目安をいったいどこへおけばいいのか──いいえ、ヤケになってもしようがない。せめて、まわりの人に優しく、そして嫌なことは嫌と言い切って心ゆたかに残りの人生を過ごそう──そうあきらめて、やっと眠った。
(沢村貞子著「わたしの居間」光文社 p46-47)

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非核三原則
「持ち込ませず」疑問視
 自民党・笹川氏
 党内足並み乱れ

 自民党の笹川尭党紀委員長は七日午前の党役員連絡会で北朝鮮の核実験に関連し「非核三原則のうち(米軍から)『持ち込ませず』を堅持していて日本の安全が守れるのか議論が出てくる」と発言した。中川秀直幹事長が記者会見で明らかにした。

 同原則の一部を疑問視した発言。安倍晋三首相は、中川昭一政調会長や麻生太郎外相が日本の核保有論議の必要性を指摘するなどしたことを受けて、非核三原則の堅持を明言してきたが、政府、自民党内の足並みの乱れがあらためて露呈した格好だ。

 役員連絡会で笹川氏は、「北朝鮮は核兵器を持つということを志向するだろう」と指摘。その上で日本の対応策に関して「三原則の『持たず』、『つくらず』はいい」としつつも、「持ち込ませず」を再検討する必要性に言及した。

 これに対して、中川幹事長は、首相が三原則堅持を表明していることを挙げながら「党執行部は首相が党を代表して公式の場で言っていることを百パーセント守り、サポートしないといけない」とくぎを刺した。

 一方、中川政調会長は、中川幹事長に「何かあるか」と見解をただされ、「お騒がせしています」とだけ述べたという。
(京都新聞 夕刊 20061107)

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 一

 「世界の始めか世界の終りか」といわれた、あの人類の歴史上における最も悲劇的な瞬間──昭和二十年八月六日午前八時十五分──その時から早くも六年の歳月が流れて、またもや悲しい思い出の日がめぐってきた。

中国山脈から流れ出る太田川が六つに分れて瀬戸内海に注ぐ、そのデルタの上に跨がった広島市が、世界最初に投下された原子爆弾によって一瞬の間に焦土と化し、全人口四十万のうち実にその過半数の二十四万七千人の尊い生命が消し飛ばされてから六年、当時黒焦げの屍で埋まった川には、今は澄みきった水が静かに流れ、川辺に青々と茂った樹々の影を映しており、街にもようやく商店が立ち並んで復興への息吹きが感じられる。

とはいえ表通りを離れて一歩足を裏町に踏み入れてみると、そこにはまだ倒れたままの墓石や、赤錆びた鉄片や、煉瓦のかけらなどの散乱した焼跡が残っていて、雑草の生い茂った空地が続いており、昔はあかあかと街燈が並んでいた町々も、夜になると暗闇の中に沈んでしまう。市そのものは外見的にはある程度復興してはいるか、市民の生活は復興してはいないと言える。

それというのも原爆におそわれた広島の街は、他の戦災都市とは比較にならない全く異った困難な状態におかれているのであって、心なき一部のジャーナリストが広島市の復興を盛んに賞めたてている一方、町には依然としてトタンや板をうちつけたバラックが多く、市の周辺にあって焼け残った家々も、爆風によって壁は落ち、柱は傾いたままの醜い姿で放置されている中に、堂々たる鉄筋コンクリートの公共建築物が際立って高くそびえている風景は、調和のとれない、何か不自然な印象をさえ与える。

町の家々に住んでいる人々も、戦災後新たに広島に移って来たものが全体の三分の二という多数を占め、当時市中で惨禍にあいながら、辛うじて生き残った人々の多くは、あるいは田舎に帰り、あるいは他郷に移り住んでちりぢりになってしまって、懐かしい元の古巣に帰って来ることのできた者は、現在の広島の人口二十九万余の僅か三分の一にすぎない。

この人たちは再び町に帰っては来たものの、嘗ては大通りに立派な店舗を構えていたのに、今では人影もまばらな裏町に小さな店を出して、僅かばかりの品物を並べてほそぼそと暮している人が多い。

 爆心地から五百メートルばかり離れたところに大阪銀行の支店があって、その正面入口の石段の片隅に簡単な木の柵が張りめぐらされている。

覗いてみると、そこには黒ずんだ人影が見られる。当時は住友銀行といったその建物の入日の石段に、一人の人間が腰をかけて、恐らくは片肱を膝にのせて頬杖をつき、何かもの思いにでも沈んでいたのであろう。そこへ原爆作裂の閃光か襲いかかって、その時即死したであろうその人の影が、強烈なウラニュームの放射能の作用によって、石段に刻印されたのである。その黒ずんだ人影は今もそこに腰をかけてもの思いに沈んでいる。

年月の経つにつれて、あの日の悲劇もようやく人々の記憶から消え去ろうとしている時、その黒ずんだ人影も次第に薄くなりつつある。けれども親を失い兄弟を亡くした広島の人々の胸には、永久に打ち消しがたい一つの暗い影が残っている。若し他郷の人が広島の人に話しかけたら、彼らはむしろ朗らかな笑顔をもって答えるであろう。しかし広島の人々の胸の中には永久に癒やすことの出来ない苦悩がひそんでいるのだ。そしてその苦悩は年月と共に益々強く燃えさからずにはいない。

 原爆の惨禍にあいながら奇蹟的に生命を取りとめた人々の多くは、今なお身体に傷痕が残っている。

その傷痕が人目につかないところにある人達はともかく、顔や手に傷痕をもっている人々、殊に少女や年頃の娘たちは、訴えどころのない悲痛な思いに人知れずもだえている。

中学一年生の坂本知栄子さんはその手記の中でこう言っている。「治りょう所でつけてもらった薬は、赤チンだけだった。あの時もっと治りょうができたなら、きずは決してのこらなかったのにと思うと、ついなみだがこぼれてくる。いつも『あの時は、もう死んでしまうんじゃないかと思っていたのに、知栄子ちゃんはよくなおったほうですよ。』と言われて、お母さん自身目になみだを一ぱいためておられる。母のなみだを見ると、私は一そうかなしくなって、こらえてもこらえても、なみだが止らなくなる。」

また高等学校二年生の藤岡悦子さんはこう書いている。「私の傷あとは、一生かかっても、とれないものであった。なぜこのように傷あとを気にするのでしょう。それは、みんなから『ピカドン傷』といってからかわれ、またののしられ始めたからです。その時私は、こんなことぐらいと思って、父にも母にも言わないでだまっていた。……また広島に舞いもどってきた。そこでも私は、近所の人や同級生や下級生までに馬鹿にされ、いじめられた。新制中学に入学してから、又しても悲しみがふえた。……これから先のことを考えると、生きていくことが恐ろしい。」

 しかし思えば傷痕は単に外傷だけではなかった。それは肉体の奥深く食いこんでいた。

アメリカ原子力委員会・国防省・ロザラモス科学研究所の編纂している『原子爆弾の効果』によれば、「……一時的な生殖不能は、日本の男女に起ったようにもっと少い輻射(ふくしゃ)量で起り得るが、その大部分はその後で正常に回復した。」(第十一章、人員の被害、D「輻射病の原理」中の生殖器官十一の六十二)(「自然」八月号、中央公論社)とのことである。

ところがこの「大部分」という言葉のもつ内容を何と解するかは別として、事実回復しないものの数が相当あることは否定出来ない。当時女学生であり、現在は家事に従事している一人の若い娘の寄せた手記に目を通した時、私はこの世界が暗黒に包まれたような衝撃を受けた。というのはその少女は永久に母となる力を喪失したことを涙ながらに記していた。

しかもその少女が絶望のどん底から、なおも新しい理想に向って起ちあがろうとしている姿に接した時、その少女のこと、更にはこの子供を持つ両親の心情に思いをめぐらして、私は暗涙(あんるい)にむせばざるを得なかった。

 私は進んで広島の人達のかかった原子爆弾症について語らなくてはならない。

原子爆弾のあの放射能はガンマー線や中性子として、肉体の奥深く滲透し、骨髄まで侵した。少しの外傷もうけず元気に見えた人々が、数日たって、数週間たって、数箇月たって、その影響が表われて来て、頭髪が脱け、歯茎から出血し、下痢をおこし、皮膚に暗紫(あんし)色の斑点が現われ、血を吐いて、意識は明瞭なままに斃(たお)れていった。そうした症状を表わした患者も、八月・九月・十月と時間が経つにつれて、次第にその数を減じていったので、やがてその姿を消すのではないかと思われた。ところがそうではなかった。というのは六年を経過した今日、元気で働いている大人に、楽しく遊んでいる子供たちに、不意に爆弾症が襲いかかりつつあるのだ。

小学五年生の若狭育子さんはその手記の中でこう書いている。
 「半年前(昭和二十六年一月)に、十になる女の子が急に原子病にかかって、頭のかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生かひっ死になって手当てをしましたが、血をはいて二十日ほどで、とうとう死んでしまいました。戦争がすんでからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。」

 私がこの原稿の筆を進めている最中、広島県安芸郡のある村の青年が話しに来た。

聞けばこの青年の父は当時広島にいたが、その後元気に田畑で働いていた。それが今年の七月中旬になって、原因不明で寝こんでしまい、医師の診察を乞うたところ、白血球が極度に減少して、原子爆弾症の症状を呈しているという。しかもその治療法が今だに不明なので、家族は病床に臥した父をかこんだまま、憂愁(ゆうしゅう)に閉ざされているというのである。このような話は六年後の今日でさえ広島のあちこちで聞かされる。

それだけではない。原子爆弾の恐るべき破壊力は、当時広島におった人々の子々孫々にまで及ぶという説が、現に一人の遺伝学者によって唱えられているではないか。私は遺伝学に対しては全くの一門外漢であって、それが果してどれだけの信をおくに値する学説であるかは判断できないが、ロイター・ニュースによると、イギリスの有名な科学者ジョリアン・ハックスレー博士は、最近原子爆弾の使用が人類に与える生物学的影響について、放射能は人類に遺伝学的影響──遺伝子の突然変異──をひき起すという新説を発表したと言われる。即ち一般的に原子爆弾から生ずる放射能は、遺伝子の突然変異をむしろ促進し、この変異は有害なものとなりやすいという。

もちろんこの影響はすぐには現れず、結婚によって遺伝子が二代の変化を経なければ現れない。それも影響をうけた遺伝子や、吾々のうけた精神的欠陥の如何などによっても違ってくるというのである。このようにして広島の父や母は、無心にたわむれ遊ぶ子供たちの姿を見るにつけても、原爆以後生れた子供たち、また生れるであろう子供たちや孫たちの将来を思って、暗澹(あんたん)たる思いに閉ざされてしまうのである。

 肉体に対するこのような破壊力もさることながら、同時にその結果として、人と人の関係に測り知ることのできない無数の精神的不幸をもたらした。鈴ガ峯女子高校三年生の藤野昌子さんの手記にはこうある。「あの惨劇を惹(ひ)き起した原爆は二十数万の生命を奪ったばかりではなくて、更に生き残った幾十万の人間の魂をどんなに傷つけたことだろう。原爆は眼に見える不幸とともに、到底測り知ることのできないほど大きい、眼に見えない不幸を生んだのだ。」

 その当時まだ学校に上っていなかった幼い子供も、今ではもう小学校の上級に進み、あるいは小学校を終えて、中学に進もうとしている。その頃まだ人間の死ということをおぼろげにしか理解出来ず、亡くなった父母の顔すらはっきりとは覚えていなかったこれらの子供達も、成長するにつれて、ようやく自分の失ったものが何であったかを、しかも父母の死が病気によるものではなくて、原爆による不自然な痛ましい死であったということに思い及び、その悲しみはあたかも樹木の年輪のように年とともに増大してゆくのである。

小学六年生の佐々木啓子さんはこう書いている。
 「その時私は、いなかでおばあさんとすんでいた。……それ(八月六日)から一週間ぐらいたってから、おばあさんがかえってきたので、私が『お母ちゃんは』ときくと、おばあさんは、『せなかにおおてきた』というので、私は喜んで、『お母ちゃん』とさけんだ。けれど、おばあさんのせなかには、リュックサックしかなかったので、がっかりした。すると、お姉ちゃんや、いなかの人がなきだした。私はなぜだろうかと思った。けれど、私にはわからなかった。するとおばあさんは、リックサックの中から、おこつを出して、みんなにみせた。それは、お母ちゃんの金歯と、ひじの骨だけだった。それでも、私は何のことかわからなかった。そうして、一年たっても、二年たっても、お母ちゃんはかえってこなかった。そして三年たったら、私は小学校の二年生になった。その時はじめて、お母ちゃんが死んだということが、やっとわかってきた。それからというものは、お母ちゃんがこいしくてたまらなくて、毎日のようにお母ちゃんのおはかにまいった。」

 愛する父親を原爆で失った中学三年生の森一夫君はこう言っている。「ようやく小学校を卒業した僕は、その頃になってはじめて、お父さんのことを考えだした。友だちには、みんなお父さんがいるのに、なぜ僕のお父さんは亡くなったのかと思うと、だんだん悲しさが増してくる。」原爆によってこうした悲劇の種が無心な子供の胸中に捲かれ播(ま)かれてあったのである。

 私は今ここに、当時広島に住んでいて、原爆の悲劇を身をもって体験し、あるいは父や母を失い、あるいは兄弟に死なれ、あるいは大切な先生や親しかった友達をなくした広島の少年少女達が、当時どのような酸苦を嘗(な)めたのか、また現在どのような感想を懐(いだ)いているかを綴った手記を諸君の前に示そうと思う。
(長田新=おさだあらた著「原爆の子」岩波書店 p1-6)

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◎「私は進んで広島の人達のかかった原子爆弾症について語らなくてはならない」と。