学習通信061109
◎ものの値段はどうして決まるのか……

■━━━━━

 諸商品の交換価値はこれらの物の社会的機能にほかならず、これらの物の自然的性質とはなんの関係もないのであるから、われわれはまず、すべての商品に共通した社会的実体とはなにか? と問わなければならない。

それは労働である。

ある商品を生産するためには、一定量の労働がそれに投下されたり、費やされたりしなければならない。しかも私は、たんに労働というだけではなくて、社会的労働と言おう。

自分自身が直接つかうために、つまり自分で消費するために、ある品物を生産する人は、生産物をつくるが、商品をつくりだすのではない。自給自足の生産者として、彼は社会とは没交渉である。

ところが商品を生産するためには、人はたんになんらかの社会的欲望をみたす品物を生産しなければならないだけでなく、彼の労働それじたいが、社会の支出する総労働量の不可欠の一部分をなしていなければならない。彼の労働は、社会内部の分業に服さなければならない。それは、他のもろもろの分業がなければなりたたないし、またそれはそれで、他のもろもろの分業を補完するものでなければならない。

 われわれが諸商品を価値として考察するばあい、われわれはそれらの商品をもっぱら、体現された、凝固された、またはそう言いたければ結晶された社会的労働というただ一つの観点から考察するのである。

こうした点から見ると、それらの商品は、たとえば絹のハンカチには煉瓦よりも多量の労働が投入されるだろうというように、それのあらわす労働量が多いか少ないかということで区別されることができるだけである。

では、労働の量はどのようにしてはかるのか? 労働の継続時間によって、すなわち労働を時間、日などではかってである。もちろん、こうした尺度をあてがうためには、あらゆる種類の労働がその単位である平均労働または単純労働に還元されるわけである。

 したがってわれわれは、以下のような結論に到達する。商品が価値をもつのは、それが社会的労働の結晶だからである。

商品の価値の大きさ、つまりその相対的価値は、そのなかにふくまれているこうした社会的実体の量の大小によって、すなわち、その生産に必要な相対的労働量によって、定まる。

したがって諸商品の相対的価値は、それらの商品に投入され、体現され、凝固された労働のそれぞれの量または額によって決定される。

同じ労働時間内に生産されうる諸商品のたがいに対応する商品量はあいひとしい。あるいは、ある商品の価値と他の商品の価値との比は、ある商品に凝固された労働量と他の商品に凝固された労働量との比にひとしい。
(マルクス著「賃金、価格および利潤」127-129)

■━━━━━

 値段はどのように決まるのか

 この問題を考える前におよそものの値段はどうして決まるのか考えてみよう。

 時計は二万円、紙は二円。一万倍のちがいがある。それは時計が時間がわかる便利なものだから高いのか。それなら紙も字が書けるしものもつつめてとても役に立つ。経済学ではこうした有用性をもつことを使用価値とよんでいるが、この使用価値で値段が決まるのではない。時計にも紙にもそれぞれ固有の使用価値があって、大小は決められない。ではなぜ一万倍もちがう値段がついたのだろう。

 それは、そこに結晶している労働の大きさがちがうからだ。時計には小さいネジや歯車がビッシリ組み込まれていて、これをつくるのに複雑で長時間の労働を必要としたことが感じられる。紙も製紙工場の大きな機械設備のもとで複雑な工程でつくられるが、一枚分の紙に結晶している労働は時計に比べて一万分の一だ。

 だから時計屋さんと紙屋さんが損得なしに交換しようと思えば、一個と一万枚を交換すればよい。資本主義社会の商品経済は全体としてこうした等価交換を原則にしている。

 価値の大きさは、その商品をつくるのに社会的に必要な労働時間の長さで決まる。その価値を貨幣の量であらわしたものが価格だ。

 もちろん、いつも価格どおりの値段がつくとはかぎらない。売り手が多すぎると値が下がり苦労の割には安い値で売らねばならず、馬鹿らしくてその商品をつくらなくなる。しばらくするとその商品が不足して値が上がり「これはもうかる」ということになって再び大量につくられ売りに出される。こうして需給関係で価格は上下するが商品の価格は価値を基準に決まる。
(中田進著「働くこと生きること」学習の友社 p52-53)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「商品が価値をもつのは、それが社会的労働の結晶だからである」と。