学習通信061114
◎母親がひとりでいないこと……

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救えた命 長岡京虐待事件

持続的なかかわり不可欠
対応見届けるシステム構築を
 京あんしんこども館
  澤田淳センター長

 ──亡くなった男児は発見時、体重が七`しかなかった。

「一般に三歳児の平均体重は十二、十三キロで、七キロというと生後五ヵ月程度。知識のある人間が、もっと早くに姿を見ていれば分かるはずだった。食事を与えないことに伴う脱水症状で、急激に体重が減少したのだろう。顔を合わせる対応ができなかったことが悔やまれる」

──容疑者は「しつけ」だったとしている。

「三歳ごろの幼児期は、自己主張が出る時期。基本的なことを必ずできなくてはならないと親が思い込んでしまうと、懲罰的な行動を引き起こしかねない。しかし、子どもの側は懲罰の理解がない。なぜしかられるのか分からないまま同じことを繰り返し、悪循環になってしまう」
「小児科医としてこれまで、診察の場面で多くの親とも顔を合わせており、その気持ちも理解できなくもないが、この時期にこうでなければならない
──ということに縛られていないか。

おむつにしても、『三歳になったら、とらないといけない』との強迫観念にとらわれるのでなく『とれた方がいい』ぐらいのゆるやかな理解でいい。発達・発育は、し続けなればならないが、個人差はある。教科書通リには育たないことを常々話している」

──そうした言葉が届かなかった、と。

「周囲に相談する相手もなく、家庭にこもりがちな人をどうするか。国は来年度、生後四ヵ月までの乳児のいる家庭の全戸訪問をすすめる『こんにちは赤ちゃん事業』を打ち出しているが、これは大いに期待できる。家の中の様子が分かれば安心できるし、万が一、家庭訪問が受け入れられない場合、問題発生の可能性も高く、見守ることができる。三歳、五歳の手数のかかわリ方はまた違ってはくるが、つながりをもつことができる。孤立させてはいけない」

──虐待のおそれがある場合、親との接し方は。

「いきなり『あなたは虐待している』と言っても、親は納得しない。親にとって『しつけ』と考えているものを、虐待と理解させるには、ある程度の時間も必要となる。持続的にかかわれる人を、支援の輪に入れることが不可欠となる」

──同じ過ちを繰り返さないためには。

「事実関係を時系列で整理し、対応が悪かったのか、システムの問題なのか問題点を明らかにしていく作業を進めている。さらに、各自治体が把握している虐待事案を洗い直し、対応を見届けて、ネットワークの確認をしなければならない。虐待の中でもネグレクト(育児放棄)は、子どもが小さいと上手に周リに訴えることができない。目に見える身体的虐待とは違い、じわじわと進み、影響は深刻だ。全国的にも増えている。しかし、救い出すこともできるだけに、きちんとしたマニュ一アル作りが必要だ」
(京都新聞 20061102)

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母乳──新生児との格闘

思うように飲んでくれない

 胎内にいたとき、生存・生活に必要なあらゆる条件を母体に依存していた赤ちゃんは、出生によって、みずからのからだのしくみとそのはたらきによって生活することをはじめなければなりません。

 呼吸、血液循環、体温調節、栄養摂取、消化、老廃物の排泄──これらの生理的活動が、胎内ですでに形成されている「無条件反射」のしくみをはたらかせておこなわれます。

 赤ちゃんがはじめてお乳を飲むときはどうでしょうか。唇の周辺に乳頭が触れるとそれを唇の中央にとらえて吸いつく反射が生じ、唇と舌をつかって乳汁を吸い出す反射が続き、口の中に乳汁がいっぱいになるとそれを飲みこむ反射が起きる。また、この間、赤ちゃんのほかの動きは抑えられている──というふうに、一連の反射が連鎖し、関連しあって生じるといわれています。このように「自然の摂理」がはたらいてうまくいくはずの授乳なのですが、どういうわけか、授乳は母親にとって非常に努力を必要とする仕事であって、最初の数日間から二週間ほどは、赤ちゃんとの格闘みたいなものです。

 まず、なかなかお乳を飲んでくれない赤ちゃん──乳房に吸いついたと思ったら、もぐもぐ口を動かしていたのも一分間足らずで、眠りこけてしまいます。授乳指導のゆきとどいた病院なら看護婦さんが回ってきてくれます。だけど、「これこれ○○くん、さぼっちやだめですよ」とやさしく声をかけて、ほっぺたをつっついてみて、最後の非常手段は赤ちゃんの足の裏をくすぐって……といろいろ目をさまさせる試みをしてくれても、ちっとも効果がありません。

 それでも何とか飲んでくれるようになって、飲んだ後は眠ってくれるという生活リズムのはずなのに、それを裏切る赤ちゃん──しかも真夜中に。

 たっぷり飲んでうつらうつらしかけたのをべッドに寝かせると、眠ったかと見る間にクスンクスンとぐずり声、たちまちワーワーギャーギャーと泣き声に変わり、母親の肝を冷やさせます。しかたなく、眠いのをこらえて、おしめを替え、抱きなおし、お乳を与える……とはじめからやりなおしてみます。

 でも、こんどはちっとも飲んでくれません。抱いてみたり、寝かせてみたり、また授乳の儀式をくりかえしてみたりしても泣きわめくばかり、途方にくれて放っておいたら三時間も泣き続けてやっと眠ってくれた、などということもあります。

 こんな夜が数日間続くと「育児ノイローゼ」になりかけてしまいます。

試練をのりきることの意味

 そんなある晩、試みに哺乳ビンでミルクを飲ませてみたら、その後、泣きもせず、起きもせず、しっかり眠ってくれたなどということがあったりしますと、ミルクの方が助かる、赤ちゃんにとってもよいのではないかと考えたくもなります。

 母乳は赤ちゃんの栄養として、たんぱく質組成の面からも、病気予防の面からも人工乳には代えがたいとされています。また、いわゆる「スキンシップ」(肌の触れあい)や姿勢の安定感、母と子の眼と眼の適切な距離など、母と子の心理的関係を強める条件としても重視されています。

 にもかかわらず、日本の赤ちゃんの三人に一人が母乳だけで育ち、一人は人工乳だけで育ち、一人は母乳と人工乳の両方で育つという比率がここ数年の実態で(○〜ニヵ月児のばあい)、母乳を与えるのをやめる人がずい分多いのです。

 人工栄養が必要以上に普及していくことには、産科医療システムの不十分さや乳業会社の営利主義商法など種々の社会的要因が介在しています。それに加えて、授乳習慣の確立(母親が飲ませ、赤ちゃんが上手に飲むという相互の協調の成立)までの母親の苦労の大きさも関係していることでしょう。「この子は私のお乳よりもミルクの方がおいしくて、好きみたい」という理由で、ミルクにしている人にも出会ったことがあります。

 しかし、こうした困難をのりこえて母乳をしっかり飲ませることに成功すれば、何よりも母親は大きな自信をもつことができます。子どもの見かけの要求に安易に妥協しないことは、その後の育児にとっても大事な意味をもつ母親の姿勢ではないでしょうか。

 母親はこうした試練を主導的にのりきるがんばりをもたなくてはなりません。同時に、授乳の初期には母親にたいする周囲の援助や励ましが必要です。家族、親族や医療機関の役割に加えて、職場や地域でも手助けしあい、知恵を出しあう仲間づくりが望まれます。
(清水民子著「子どもの発達と母親」新日本新書 p32-35)

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乳児は母親が育てたほうがよいのでは?


乳児保育のことでおききしたいのですが。三歳までは母親が育てないと、とよくいわれますが、こちらは産休あけから、ということですが、この点についてどうお考えでしょうか。


 皆さんは、ここのO歳児や、一歳児をごらんになっていかがでしたか? かわいそうでしたか? また発達がおくれている、とごらんになりましたか?

 卒園式に参加された方はおわかりでしょうが、私どもの卒園式は、乳児期から保育した子どもと、幼児になってから入園した子どもとにわけて並んでいますが、乳児期からの保育の子どもに障害があらわに見えた子どもがほとんどいないことに気づかれる、と思います。

 それは盲でありますとか、ろうでありますとかの身体障害や、胎内での重い障害があった子どもは見えるのは当然ですが、それにしてもほとんど重くはありません。てんかん症、水頭症、微細脳損傷、脳性マヒの子どもなどは、O歳から入所の子どもは、まったくといってよいくらい健常に育ってきていますし、健常の子どもも、乳児期からの保育の子どものからだのしなやかさ、敏捷さ、ごく自然にとりくんでゆったりとしていながら無雑作になんでもできてしまう全面発達、障害のある子どもに対しての適切な援助ぶり、やさしさ、など、ごらんになった方は皆感動されます。まして描画の創造性の豊かさは感受性も豊かであるし、脳が健全に発達していることを物語っています。

 ですから、集団の保育は乳児期は害がある、ということはここでは考えられないことで、むしろ、幼児期から入園した子どもさんの大半はもう虫歯がひどく、とくに年長になってはじめて集団生活にはいった、という子どもさんはほとんど栄養が不良であり、ひっこみ思案で積極性に欠けている状態がみられます。

 といって、O歳児を預かる施設が、すべて私の園のような施設か、このような育て方をしているが、というと決してそうではないと思いますよ。

 大勢の赤ちゃんを少ない職員でみるために、寝かせたまま、また歩行器にいれている時間が長いとか、コンピラックにねかせてミルクを与えているとか、冷暖房完備で、室内にとじこめているときが長いとか、おしめは一日に何回、ときめてみているとか、情ない保育室もいっぱいあるのはいなめません。

 それだからといって、母親が育てるのが一番か、といいましても、たしかに母乳で育てるというのは赤ちゃんにとって第一条件ですから、私の園でもできる限り母乳をのませてもらっていますが、家庭でも、よい指導がないと、早くお乳が出なくなってしまう母親もいますし、仕事の合間に子どもをみているという母親もいますし、テレビをつけっ放しでその前でねかせている人、ジュースをほしがるままにやっている人、とくにひるま、スーパーなどにいってみますと、背中におぶったまま長時間買物をしている人、子どもにアイスクリームやチョコレート、あめなどを手にもたしてつれている人など、まったく好ましくない風景にしばしばぶつかります。

 とくに高層住宅に住んでいる人たちは、子どもが気軽に土にふれられませんし、小動物も飼うことができませんから、身近にふれられませんし、下におりてもコンクリート、アスファルトの道では体によくありませんし、どっちみち、いま、よほどみんなで子育てを考えてゆかなくては子どものためにはよいところなしなのですよ。

 ですからまず私は、母親がひとりでいないこと、といっているのです。保育所にいれようが、家庭で育てようが、一人ひとり孤立していてはもう駄目なんです。

 母親がより集まって、皆で勉強しあって、家庭でならどうすればよいか、保育園ならどう皆で改善してゆくか、を話しあって、お互いによかれ、と思ったことは助け合って実行に移す、ということが大切だと思いますよ。

 三歳まで母親が、という人はどんな人がいいだすか、よく考えてみることが必要なのです。自分のうちは広い家で庭も豊かで、人手も十分あって、子どもにゆったりと話しかけながら子育ての余裕がある人か、もう一つは行政側です。乳児保育にはお金ががかりすぎると、思う人たちで
すよ。

 こういう人は先が見えない政治家だと思いますよ。乳児期にちゃんとお金をかけ、さくらんぼのような施設の整備、人員の配置、お母さんたちの集団学習を保障すれば、青少年の対策費、非行防止、塾、などにつぎこむお金はいらなくなる、ということを知らない人たちが、目先のことだけで政治をすれば、またまた大きい失敗をするようになるのですよ。

ここのところを皆さんもよくよくみとおして、まちがった宣伝にはのせられずに、大勢の人たちが安心して働けるための施設を充実させるよう粘りづよく運動をしてみて下さい。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p147-150)

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◎「母親はこうした試練を主導的にのりきるがんばりをもたなくては……同時に……母親にたいする周囲の援助や励まし……家族、親族や医療機関の役割に加え……職場や地域でも手助けしあい、知恵を出しあう仲間づくりが」と。