学習通信061115
◎いじめとは、教師からは見えない世界で……
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学校で今何が
後断たぬ自殺・トラブル
子供の心どこに
実態把握難しく
いじめを原因とする自殺や自殺予告など、いじめにまつわる深刻なトラブルが全国で後を絶たない。未来のある若い命にかかわる喫緊の課題。子どもたちの心は容易にはつかめないなが、学校現場や教育委員会、保護者、支援者らが知恵を出し合い始めた。
中学校二年の女子生徒(14)が先月末、いじめを苦に自殺した岐阜県瑞浪市の市立瑞浪中学校。心のケアに当たる二名のカウンセラーの元には、今月十日までに「学校生活に不安がある」などの相談が計約九十件、寄せられた。同市教育委員会の担当者は「同級生が自殺した現実を前に生徒に動揺が広がっている」と厳しい表情で語る。
問題発覚以降、すべての部活動を中止し、部活単位で複数回のミーティングを実施。女子生徒が所属していた女子バスケットボール部は現在も活動を停止しており、ミーティングと個人面談を通じていじめの実態把握を急いでいる。
しかし、各地の学校現場から聞こえてくるのは「実態把握は容易ではない」との声だ。
「そんなに深刻な問題じゃない」「いじめられた子がさらにいじめられてしまうのでは」。千葉県内の三十代の公立中学校の男性教諭は昨年、いじめに対する生徒の認識の軽さに驚いた。ある生徒の机に「死ね」などと書いた紙が入れられたのが発覚し、生徒集会で話し合いをしたときのことだ。生徒会役員がいじめをなくす「宣言」を提案すると、一部の生徒が反対。最後は全員で決議したが、いじめの傍観を許す空気があることも浮かび上がった。
九州の中学校の四十代の男性教諭は「現実のいじめは『水道の蛇口に口をつけた』『授業中に鼻をほじった』など本当にささいなことをきっかけに始まる。それを摘み取れというのは無理な話」と未然防止の難しさを指摘する。
東京都内の小学校の校長は「校舎内の『バカ』『死ね』などの落書きはいじめや暴力の前兆。私は見つけ次第消しているが、放置している学校もある。もっと子どもの心の荒れに敏感にならなくては」と話した。
■教師が範示せ
森田洋司・大阪樟蔭女子大学長(教育社会学)の話
いじめ問題は、いじめる側を減らす視点に立たないと、なくならない。集団の中で自分の役割や行動が他者に及ぼす影響を自覚すれば相手の気持ちを考えることができるようになる。学校教育の中に集団活動や体験活動をもっと取り入れ、社会性と人間性を豊かにする教育を行うべきだ。
いじめのある教室では、多くの子どもが見て見ぬふりをする傍観者になるが、いじめ抑止には子どもの果たす役割は大きい。教師が「いじめを許さない」という姿勢を貫き、いじめを止めようとする子どもたちが声を上げやすい雰囲気をつくることが求められている。
(日経新聞 20061115)専門家指摘
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いじめる側の指導を
学校だけ責めずに
大阪府富田林市と埼玉県本庄市で中学生が十二日に自殺し、北九州市では同じ日に小学校の校長が命を断った。いずれも動機は特定されていないが、「いじめ」が関係している可能性がある。専門家からは、「学校の中だけの問題ではない」「いじめる側の指導を」との声が上がっている。
教育評論家の尾木直樹さんは「自殺予告の手紙から連鎖した現象だが、報道をやめても止まらない。子供も校長も、受け止めてもらえる人が身近にいないことが問題だ」と指摘する。
尾木さんは「いじめられている子供に『頑張れ』『勇気を持て』と言うのはおかしい。加害者側をストップさせるメッセージを出し、死ぬほどつらい子供がいると伝えるべきだ」と話す。
校長自殺の背景については「いじめ問題は終わったものとして学力向上にまい進した結果、学校が商品になった。困ったことがあっても校長は評価する側の教育委員会に相談できず、生徒が死んだら『責任を取らなければ』と追い詰められてしまう」と指摘。「強い者勝ちのムードが社会を覆っている。学校だけの問題ではない」と訴える。
森田洋司大阪樟蔭女子大学長(教育社会学)は「学校も大人も、いじめを軽く見てきた。連鎖反応だけで片付けられる問題ではない」と警鐘を鳴らす。
森田学長は「子供は自己を形成する途中にあるだけに深刻。いじめる側は歯止めが利かず、いじめられる側は自己をズタズタに引き裂かれることに耐えられない」と分析。
その上で「学校の責任に目が向き過ぎ、いじめる側の指導が焦点に入っていない」と指摘し、「自分の行動が相手にどういう結果をもたらすか、分からせることが大切。人との関係やマナーを家庭でも学校でも、しつけていく必要がある」と述べた。
(京都新聞 20061114)
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いじめは減ったのか
「俺だって、まだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。ただ俺、が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃいみない。もう君達もバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ」。
こんな悲痛なメモを残して、盛岡駅のトイレで鹿川裕史君(当時、東京の中学二年生)が首をつって自殺をはかったのは、一九八六年二月のことでした。それから八年後の一九九四年には、今度は愛知県西尾市で大河内清輝君が百万円を超える恐喝と暴行に耐えかねて自殺を遂げました。報道されただけでも、この九四年には一年間にいじめによって七人もの尊い犠牲者を出しました。鹿川君の事件以来、この時期はちょうど再び襲ってきた「いじめの第二次ピーク期」を迎えていたのです。
ところが、文部省調査に限ると、いじめの件数そのものは、一九九六年度以降、発生件数で二〇%前後減少するという沈静化傾向を見せ始めています。メディアの報道も控えめになったためでしょうか、今では社会全体には「いじめ」があまり問題ではなくなったかのような空気が漂っているようです。しかし、実際はどうなのでしょうか。本当に明るい変化はみられるのでしょうか。
実は、最近の世論調査(読売新聞社、二〇〇〇年四月一五、一六日実施)では、いじめや校内暴力、学級崩壊などの間題は、「普通の子どもでも、きっかけ、があれば起こす可能性がある」とみる人が、八五%に上ることが明らかになりました。中でもいじめを最近の子どもの教育についての悩みや問題のトップに上げた人が、半数に近い四八%にも達しています。このように、国民的な感情は依然としていじめ問題に心を痛めているといえます。
そればかりか、二〇〇〇年に入って続発している凶悪な少年事件の背景にはほとんどの場合、容疑者(加害者)がかつてはいじめの被害者であったという事実が明らかになっています。つまり、ある意味では、学校には見えにくく一見減少したかに思えるいじめが、実は子どもたちの世界に奥深く潜り込み、やがてその苦悩に耐え切れなくなった時に、自分より弱い者の命を奪う攻撃等として反転して表出させているのです。つまり、いじめはより深刻化して潜行し始めたと考えられます。
依然として止まぬ自殺
まず、試みにある一ヶ月をふり返ってみましょう。
一九九九年一一月八日、千葉県で高校三年生の男子が、首をつって自殺しました。彼は、家族にあてた遺書の中で、同級生の名をあげて、「一〇万円借りがあり、二万円払ったのですが、残り八万円を返しといてください。ちなみに、おどしとられていました」と書いていました。亡くなった高校生の父親は「(少年は)うちにも何回も泊まりに来ていて、仲のいい友達だと思っていた」と戸惑っています(朝日新聞、一九九九年」一月九日付)。
同年一一月二六日。今度は栃木県鹿沼市の中学三年生の男子が、タンスの取っ手にタオルをかけ、それを首に巻いて自殺している姿が発見されています。
学校側の説明では、半年近くも同じクラスの男子生徒二人から、教室でズボンを脱がされたり、新品の運動靴を使われて汚されるなどのいじめを受けていたといいます。一一月に入ってからは、学校にまったく行かず、家に閉じこもっていたそうです。学校や親には不登校の理由は話しておらず、家族の話によりますと、前日の夜も、A君は家族との食事をするなど普段とは変わらない様子だったといいます(朝日新聞、二〇〇〇年一月二七日付)。
この二つの惨事は、外からは一見仲良しに見えるグループの間でいじめが起きていたり、親にも相談できずに一人で追い詰められているという、これまでのいじめ自殺事件が内包してきた特性を全て象徴的に含んでいます。いじめの手法や陰湿さ、残忍さも、以前と比較して何ら変化していません。実際にはこのように、数こそ「減少」(文部省)していても、依然として不幸な事件が続いている事実を忘れてはならないのです。
二〇〇〇年四月に明らかになった、名古屋市での一五歳の少年が中学三年生の時に同級生から九ヶ月にわたり総額五四〇〇万円にも及ぶ恐喝を受けていた衝撃的な事件は、いじめの範囲を超えた凶悪な犯罪であることは言うまでもありません。しかし、二度も入院を余儀なくさせられるほどの骨折の暴行を受けたり、一緒に遊ばさせられたり、使い走りをさせられる等は、やはりこれまでのいじめの特徴と本質を見事に内包しています。多少件数が減ったとしても、むしろこのように一層悪質化、大型化し、ある時にはいじめの被害者の苦悩が限界にまで達して殺人として爆発するという新たな質の段階に突入しているといっても過言ではないでしょう。
実態つかめぬ文部省調査
しかも、いじめの実態把握は、調査がきわめて困難です。たとえば不登校調査では、出席簿を見ながら三〇日以上の欠席者をカウントするだけで正確な把握が可能ですが、いじめの場合そういうわけにはいきません。とりわけ、学校や教師にはつかみづらいのです。なぜなら、いじめとは、教師からは見えない世界で行われ、しかも加害者、被害者ともに教師には報告しないという点が最大の特徴だからです。
にもかかわらず、文部省のいじめ実態調査では、一九八六年度の発表以来、一貫して、子どもたちには直接問わず、学校の教師に対してのみ実施されてきました。しかも、九三年度までは、「学校が認定したもの」しかカウントしないという信じがたい基準さえ設けてきたのです。二重の誤りを八年間も続けていたことになります。
したがって、文部省発表のいじめの発生状況は実態とは大きくかけ離れており、ほとんど当てにできるものではないといってもよいでしょう。表1-2からわかるように、九八年度には中学校の四四・八%、小学校の一七・一%でしか発生していないという結果が出されています。一校あたりの発生件数に至っては、中学校では二件、小学校では、わずかに〇・五件にすぎません。
これは、私の中・高での二二年間の現場教師体験をふり返って考えてみても、全く納得できる数字ではありません。なぜなら、学級という狭い空間で二〇人、三〇人の児童・生徒が生活すれば、必ずいじめは発生するからです。発表のデータは、実数とはとても大きな隔たりがあるように思えてなりません。文部省は毎年児童・生徒への直接的な調査方法を取り入れ、内側からの正確な実態把握に努めるべきでしょう。
一学級に二人もの被害者
一方、総務庁が実施している調査は、文部省とは違いダイレクトに子どもに向けられています。したがって、実態により近いと考えられますし、事実、文部省のデータとは大きく異なっています。
たとえば、一九九八年四月に同庁が発表したデータ(表1-3)を見ますと、全体としていじめは少しも沈静化などしていないことが明らかです。いじめを受けた者は三人に一人。しかも、調査時点の「今いじめられている」という進行中の被害者が小学生の五・三%、中学生の三・五%もいます。これは「今いじめている」と答えた者が、小・中でそれぞれ三・九%、二・六%存在することを重ね合わせて考えますと、数値の信頼度は高いでしょう。つまり、四〇人学級の場合、小学校では一学級につき二人、中学校では一人は必ずいじめで苦しんでいる子どもがおり、今この瞬間にも多くの被害者が耐え忍んでいるということになります。
この調査結果を受けて、一九九八年暮れに総務庁長官名で文部大臣に対して、いじめ問題に対する取り組み強化の勧告が出されましたが、十分に納得できる処置です。
いじめの深い苦悩
先の総務庁調査では、今日のいじめの深層にある問題点を、いくつかの角度から鮮明にしています。
第一には、教師だけでなく、保護者もまたわが子がいじめの被害に遭っているという事実を認知している率が極めて低いことです。いじめの被害体験児童・生徒が三三・一%存在するのに対して、わが子がいじめに遭ったと答えた保護者はわずか一五・〇%にとどまっています。いじめられた子の半数の親しか、わが子のいじめの被害とその苦悩を知らなかったことになります。
第二には、いじめの加害体験者は被害体験者(三三・一%)とほぼ同率の三〇・四%も存在することです。双方経験している者も相当数にのぼり、いじめっ子といじめられっ子が交叉したり逆転するケースも珍しくないことを示唆しています。
第三には、いじめられた時の対応として、「親に相談した」子が三九・四%に対して、「だれにも相談しないで我慢した」が三七・八%も存在することです。いじめは、学校の教室で発生するケースが圧倒的多数(多くの調査では約七〇%)であるにもかかわらず、「先生に相談した」は二九・〇%にとどまっています。
第四には、いじめ克服に必要なことは、クラスの友人の動向にあることがはっきりしたことです。「我慢した」者に、「どうしてほしかったか」と尋ねた回答には、「友達に助けてほしかった」とする者が四六・八%と半数近くに達し、トップを占めています。しかも、小学生から中学生へと年齢が上がるにつれてこの数字は増加しています。
これらいじめの四つの断面から言えることは、とにかくいじめは親に認知されにくい上に、いじめの加害・被害者が容易に逆転もする関係にあるということ。だから、親には黙っていても、身近な友だちには助けてほしいのです。友だち、つまりクラス全体にどのようにいじめ解決の能力を養成できるのかが克服への大きな課題であるといえそうです。
(尾木直樹著「子どもの危機をどう見るか」岩波新書 p36-44)
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◎「友だち、つまりクラス全体にどのようにいじめ解決の能力を養成できるのかが克服への大きな課題である」と。