学習通信061116
◎自立を助ける滑走路が……

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いじめ 小学校 6割超経験
「教員から」も2割前後

京大助教授ら
高校生を調査

被害と加害
容易に逆転

 いじめたり、いじめられた経験のある生徒は、被害者、加害者の立場が逆転しやすく、一方に固定していないことが、京都大医学研究科の木原雅子助教授(社会疫学)と全国高校PTA連合会が十四日発表した高校生約六千四百人を対象にした共同調査で分かった。

 全国でいじめによる自殺が相次いでおり、いじめる側、いじめられる側の双方にケアが必要な状況が明らかになった。
 木原助教授らは今年九月、執拗なからかいや無視など本人が不愉快になることを、「精神的ないじめ」と定義し、全国四十五公立高の二年生男子三千五百一人、女子二千九百五人に文書アンケートで回答してもらった。
 調査によると、いじめた経験があると答えたのは、小学校で六割以上、中学校で五割前後、高校は男子で四割前後、女子で三割弱で、いじめられた経験があるとの回答もほぼ同じだった。

 さらに、小、中学校で仲間をいじめた経験、いじめられた経験のある生徒は、経験のない生徒に比べて、七〜九倍の割合で逆の立場になったことがあると回答。高校生では、この割合は一六〜十七倍にもなり、いじめる側といじめられる側が高い割合で流動化する傾向があると分かった。

 アンケートでは、人間関係といじめとの傾向も調べた。信頼できる友達や教員、家族がいないと答えた生徒の方が、いると答えた生徒よりも、いじめをした経験が一・三〜二倍の割合で高く、人間関係の希薄さが、いじめにつながる傾向も見られた。また、テレビやゲーム、インターネットといじめる側との関係で、長時間テレビを見たり、ネットをする生徒の方が、そうでない生徒に比べて、いじめた経験が一・二〜一・九倍の割合で高かった。いじめを受けた相手を尋ねる設問(複数回答)では、九割が同級生だったが、教員を挙げた生徒も二割前後いた。

 木原助教授は「弱いからいじめられるだけではなく、状況に応じていじめは行われることが明らかになった。いじめられる側とともに、いじめる側の背景を探り、ケアやサポートを行う必要がある」と話している。
(京都新聞 20061115)

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「弱い者いじめ」なのか

同じ集団の中での相互作用

 社会学の立場から「いじめ」間題にアプローチする森田洋司氏は、いじめを「同一の集団内の相互作用過程において優位に立つ一方が、意識的にあるいは集合的に他力に対して精神的・身体的苦痛を与えること」と定義しています(『いじめ──教室の病い』(共著)新訂版、金子書房、一九九四年)。ちなみに、氏の調査によれば、「いじめ」を直接経験した者は小学生の七七・六〇%、中学生の六二・三%。児童・生徒による学級内の「いじめ」の発生認知状況調査では、いじめが発生していない学級は皆無であったといいます。

 私自身の担任経験や生活指導体験から判断しますと、森田氏の定義は簡潔にして充分だといえます。いじめのメカニズムを端的に言い当てているからです。いじめは、行きずりの電車内や街頭での「暴行・恐喝」や、いわゆる「オヤジ狩り」とはっきり区別できます。同一の集団の中でいじめが発生するという点がポイントです。

ここを強調することによって、いじめとは正反対の概念である「「いたわり」「相互支持」「友愛」(森田、前出書)からの「逸脱行動」として位置付けられます。本来の人間関係からいえば、あるべき友愛やいたわりや相互支持が逆転し、人間への「虐待」となるのがいじめの本質です。学級集団での発生がどのアンケート結果でも七五%前後と群を抜いており、続いて部活動や地域のサークルでの発生が高いのです。

 つまり、学級の集団としての拘束力が強ければ強いほど、教師が正常な人間関係の構築に成功しない限り、いじめは発生するという理屈です。ですから、どんなに厳しい競争主義を採用する進学塾であっても、共同性がない場合はいじめはほとんど発生しません。競争主義にいじめの主因を求めるのは一面的でありますが、しかし、進学塾関係者が、塾ではいじめが少ない事実を誇るのも見当はずれといえます。いじめも発生しないほど競争原理が貫徹されている証拠でもあるのですから。

 競争主義がいじめの主因ではないとしても、それが激しいストレスを生み、学校での同一集団内の相互作用を引き起こす「引き金」の役割を果たしますので、いささかも、見過ごしていいわけではありません。人間関係の密度が濃ければ濃いほど流動性、爆発性、が強いといえます。ほんのひと押しで相互作用が働きます。

集団としての共同生活、共同訓練の場である学級や部活でこそ相互作用を引き起こしやすいといえます。文部省の「児童・生徒のいじめ等に関するアンケート調査」一九九六年五月公表)結果でも、中学生の女子の場合、その二八%もが「仲良しグループ」の間で発生していることは、このことをはっきりと物語っています。大人や教師には仲良しグループ内のトラブルにしか見えないのはこのためです。

「弱い者いじめ」なる言葉

 一方、「いじめ」問題克服の中心的役割を果たしてきた文部省は、一九八五年に次のように「いじめ」を定義しています。

 「自分より弱い者に対して一方的に、身体的心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないものとする」。

 この定義は、大きな問題点をいくつか含んでいます。
 一つは、前にも触れた「学校としてその事実を確認しているもの」とする最後の条件部分です。これはようやく九四年度の調査から削除されました。「いじめ」かどうかを判断するのは、あくまでも被害者本人のはずです。なぜ、学校が判定など下す資格などあるのでしょうか。この一項に学校側の何でも自分たちが一番わかっていて正しいのだと言わんばかりの視線が感じられます。

 二つめの問題点は、「自分より弱い者」という表現に関してです。この定義から「弱い者いじめ」なる言葉が一人歩きし始めました。そして、「弱い者をいじめることは、人間として絶対に許されない」(文部省「いじめの問題に関する総合的な取組について──いじめ問題に関する基本的認識」)などと言われるようになっていったのです。結論的には、確かにその通りでしょう。

 しかし、いじめを調査しますと、決して「弱い者」だけをいじめているわけではありません。たとえば、全教科が「5」に近く、スポーツマンであり、明るく人柄もよく人気者の中学校の生徒会長ですら、いじめを受けて自殺を遂げたケースさえあります。またいじめを受けまいと練習を重ねて、武道に秀でた男の子がターゲットになることも珍しくありません。なぜなら、彼らは「強い」がゆえにそのことが嫉妬されたり、疎まれて、いじめられるのです。自己主張の力が弱い者や身体的弱者もいじめの対象になることは多いのですが、決してそうした子どもばかりがいじめられているのではありません。

まさしく、森田氏が定義したように、「優位に立つ一方」からのアクションであり、一つの学級内に固定された中での人間関係だからこそ、その時々の力の差がはっきりしやすいという「集団内の相互作用過程」における現象なのです。ですから、場面や状況が変わるといつその立場が入れ代わってもおかしくないし、いじめられっ子が他方では同時に別の子をいじめる加害者であることも珍しくないのです。

 この「弱い者いじめ」の定義は、いじめられっ子の「弱さ」に原因を求めているとも理解できます。いじめの被害者たちを「自分は弱い人間なのだ」という心理に囲い込み、加害者を告発する勇気を奪う役割を果たしてきました。とくにプライドが強くなる思春期の中学生は、よけいに被害を告げることができず、自分一人で苦悩を抱え込まざるを得ないのです。

 しかも「弱い者いじめ」は、とても卑劣な行為ですから、すぐさま次の「人間として絶対に許されない」というフレーズに吸い寄せられます。これは一見すると、人間味あふれた迫力に満ちたスローガンに見えますが、実践的にはあまりにも問題が多い見方といわざるを得ません。というのは、加害者は「自分は人間として許されないようなことをしている非人間的な存在である」と思い知らされるわけです。

いじめの加害者が、せっかく自分の加害行為に気づいても、この一文が逆に彼を落ち込ませ、立ち直る機会を失わせてしまうのです。加害者の保護者も教師からいじめの加害者であるという連絡を受けると、多くの場合「私はわが子をそんなにひどい人間に育ててしまったのか」と大きなショックを受けるようです。

 いまだにいじめ問題の根本的解決の方向を示すことができない背景の一つには、私は、この文部省の定義のズレが大きな影響を与えていると考えています。
(尾木直樹著「子どもの危機をどう見るか」岩波新書 p49-53)

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オピニオン解説
教基法改正案 単独採決
子どもの救いになるのか
国家のための教育に変質

 教育基本法改正案を審議していた衆院特別委員会で、野党欠席のまま与党が政府案の単独採決に踏み切り、可決した。国民的議論の成熟もない。数を頼リの強行突破で、教育の根本法を政争の真っただ中に放り込んだ。

 「公共の精神」など国民統合を強調する改正案が国民分裂の象徴になる。政治的意図を優先し、大局を見失うとは愚かしいにもほどがある。

 「制定から六十年。時代も変わり新たな課題に直面している」「根本にさかのぼるために基本法を改正する必要がある」 国会審議を通じて繰り返されたのはこんな抽象的な答弁ばかり。納得できる人は何人いるだろうか。例えばいじめ問題の取り組みがどう変わるのか。きちんとした説明はないままだ。

 凶悪な少年事件、いじめ自殺した子ども……。支えを失い、孤立した現代の子どもの現状について診断も示さないまま、いきなり処方せん。そんな印象を免れない。

 ベテランの小学校の先生から聞いた話だ。
 「みなさん」と呼び掛けてもまったく自分のことと思わぬ子どもが増えている。「○○君」と個人名で呼ばないと反応しない。自分のことだけを見てほしい、という子どもが年々多くなっているのだという。

 家庭崩壊や生活苦。親子のゆったりしたコミュニケーションが失われ、子どもたちは、満たされぬ寂しさをかばんに詰めて学校に通っている。子ども一人一人の暮らしの文脈が分からないと、教室の言動も理解できない。学校はそんな難しい時代になっている。地域社会の崩壊で、社会性を育ててきた子ども集団も失われている。

 今、必要なのは、子どもの自立を助ける滑走路が失われているという事実に向き合うことだ。

 現行法が教育目的に掲げる「人格の完成」は、まず個人としての完成が第一義で、それが結果としてよき国民につながる、という理屈だ。国民である前にまず個人としての完成を目指すべきだ、というものだ。

 これに対し政府案は、人格の完成という言葉は残したものの、重心は「志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくる」(安倍首相)ことにある。

 教育目標に「公共の精神」「伝統と文化を尊重」「国を愛する態度」を新たに加え、軸足を国家・社会に置いた。学校も「教育目標が達成されるよう、体系的教育が組織的に行われなければならない」とされている。

 先生の仕事は、国の決めた教育目標を実現したかどうかで評価されることになる。国家・社会のための教育への変質だ。だが、公共の精神の強調で、子どもの抱える問題が解決されるのか。

 人は人に支えられなければ生きられない。いじめで自殺まで考える子どもの絶望感は、支えを失った結果だ。いじめる側も心に解消できない不安を抱えている。学校が、子どもの心に目を向けるより、教育目標実現を第一義とするようになれば、子どもとの距離はさらに遠くなる。「自分の方を向いてほしい」。いじめ自殺の子どもはこう大人に突きつけている。どう答えるのか。(共同通信編集委員山田博)
(京都新聞 20061116)

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──「いじめ」かどうかを判断するのは、あくまでも被害者本人……なぜ、学校が判定など下す資格などあるのか

──本来の人間関係からいえば、あるべき友愛やいたわりや相互支持が逆転し、人間への「虐待」となるのがいじめの本質