学習通信061120
◎分け前ではない……

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賃金

 あなたは農業労働者だと想像あれ。昨日までは自分の畑だったのに今日からは他人のものになり、新しい所有者に雇われて働く身になった、と。昨日までは自分の生産物を自分で使って生活していた。今日からはあなたの生産したものは、もうあなたの所有物ではなく雇主のものです。あなたには、その一部を雇主が賃金としてくれることになる。

 つまり、賃金とは自分がつくり出したものです。もらえるのはその全部ではなく一部だけれども、もらったものは実は自分がつくり出したもの。だから、賃金とは自分がつくり出したものの一部を返してもらうことだと言えます。労働者の生産したものは雇主の所有に入る。雇主はそのなかから自分の考えで「誰にはいくら」と返す。もし賃金を雇主が前払いしているとする。労働者の生産したものが雇主の所有に入ることで、労働者はその分を雇主に返しているのです。

したがって、「雇主が賃金を払う」と言いますけれど、賃金はなんら雇主が負担しているわけではない。したがって、労働者を雇うということは、タダで、無償で労働力を利用するということなのです。その無償利用で雇主は利潤を獲得する。この関係というか、仕組みというか、それを搾取と言うのです。

 搾取。字面がスゴイですね。そのせいで「昔は搾取があったろうが、いまはそんな悪どいことはないよ」と言う人が多いのですが、搾取と訳されている言葉Ausbeutung, Exploitationの本当の意味は、タダ利用、無償利用ということ。労働者をコキ使って油を搾り取るようなやり方をするかしないかは、その中心的意味とは関係ないのです。

 賃金は労働にたいする報酬だという見方は、賃金が雇主にとってタダである以上、成り立ちませんね。でも賃金は、「おまえはこれだけの仕事をした。だからこれだけやる」と、雇主からいただくものと見えます。賃金、「賃として払われるおカネ」という言葉のせいもありますね。だちん、駄賃、いまはもう死語かな。元々は品物の運搬にたいして払う報酬・駄には「粗末な、小さな」の意味もあるので、子どもに手伝いをさせたときのほうびの意味でも使った。賃とはそのように一回一回の、そのつどの労働提供にたいする報酬のことです。だから、賃金は労働提供、労働支出にたいする報酬というイメージを誘います。

 しかし、賃金は労働への報酬ではなく、労働力の価格です。労働者が賃金をもらうことと引替えに提供する(売る)のは労働ではなく労働力だし、雇主が買うのも労働力。どう使おうと買手の勝手として労働力を使うには、買うのは労働力でなければなりません。労働者が労働するとき、自分の労働をしているのではなく、資本の力として労働するのです。
(岸本重陳著「新版 経済のしくみ100話」岩波ジュニア新書 p114-115)

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 労働者たちは、彼らの商品である労働力を、資本家の商品と、すなわち貨幣と、交換する。しかもこの交換は、一定の比率でおこなわれる。

これだけの長さの労働力の使用にたいして、これだけの貨幣。一二時間分の織物労働にたいして二マルクである。

ところで、この二マルクは、私が二マルクで買うことのできる他のすべての商品を代表してはいないか? だから実際には、この労働者は、彼の商品である労働力を、すべての種類の商品と、しかも一定の比率で、交換したのである。

資本家は彼に二マルクをあたえることによって、彼の労働日と交換に、それだけの肉、それだけの衣服、それだけの薪、灯火などをあたえたのである。

だから二マルクは、労働力が他の諸商品と交換される比率、すなわち彼の労働力の交換価値をあらわす。一商品の交換価値が貨幣で評価されたものがその価格にほかならない。

だから労賃は、労働力の価格、ふつう労働の価格とよばれているもの、にたいする、すなわち人間の肉と血とのほかにはその容器をもたないこの特有の商品の価格にたいする、別名にすぎないのである。

 任意の一人の労働者、たとえば一人の織物工をとってみよう。資本家は彼に織機と糸とを供給する。織物工は仕事にかかり、糸はリンネルとなる。資本家はリンネルを自分のものとして、それをたとえば二〇マルクで売る。

ところで、織物工の労賃は、リンネルの、二〇マルクの、彼の労働の生産物の、分け前であるか? けっしてそうではない。リンネルが売られるよりもずっと前に、おそらくそれが織りあげられるよりもずっと前に、織物工は彼の労賃をうけとっている。

だから資本家はこの賃金を、リンネルを売って手にいれた貨幣で支払うのではなくて、もちあわせている貨幣で支払うのである。

織機と糸とが、それらをブルジョアから供給されている織物工の生産物ではないのと同じように、織物工が彼の商品である労働力と交換してうけとる諸商品も、織物工の生産物ではない。

ブルジョアは、彼のリンネルの買手をまったく見いだせないこともありえた。彼がそれを売って労賃をさえとりもどせないこともありえた。彼がそれを織賃にくらべて非常に有利に売ることもありうる。これらすべては、織物工にはなんの関係もない。

資本家は、彼の手もちの財産、彼の資本の一部をもって、織物工の労働力を買うのであって、それは、彼が彼の財産の他の部分をもって、原料──糸──と労働用具──織機──とを買ったのとまったく同じである。

彼がこれらを買い入れたのちには──そして、これらの買い入れたものにはリンネルの生産に必要な労働カもふくまれているのであるが──、彼はただ、彼のものである原料と労働用具とをもって生産するだけである。

ところで、わが善良な織物工もまた、もちろん労働用具にふくまれるのであって、彼が生産物または生産物の価格の分け前にあずからないのは、織機がそれにあずからないのと同じである。

 だから、労賃は、労働者が生産した商品にたいする労働者の分け前ではない。労賃は、すでに存在している商品の一部分であり、資本家はそれをもって一定量の生産的労働力を買いとるのである。

 だから、労働力は、その所侍者である賃労働者が資本に売る一つの商品である。なぜ彼はそれを売るのか? 生きるためである。
(マルクス著「賃労働と資本」新3オんにほn 33-35)

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◎「労働者は、彼の商品である労働力を、すべての種類の商品と、しかも一定の比率で、交換した」と。