学習通信061121
◎歴史的性格をそなえた……

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京大、議会文章1万2000冊公開
大英帝国の盛衰伝える
マルクスも参照

 大英帝国の盛衰を伝える十九〜二十世紀の英国議会の文書約一万二干冊が二十一日、京都大学付属図書館で公開された。法案や委員会報告、外交文書など上下両院に提出された資料が議会の会期ごとに編集され、田中耕司・京大地域研究統合情報センター長は「ほぼ完全にそろっており、特に経済史研究で一級資料といえる」と話す。

 公開されたのは一八○一〜一九八六年の下院文書など。マルクスが「資本論」執筆に当たり参照したことでも知られるように、産業革命下の英国内の情勢や、植民地を中心とした貿易などの経済統計を網羅している。
 日本関係では、薩英戦争などが発生した開国維新期と、日英同盟を締結した明治後期の外交報告などにページが割かれている。

 サッチヤー政権下に商務省が放出し、日英の古書店をさまよっていたところを、京セラが企業メセナの一環として購入し、国立民族学博物館地域研究企画交流センターに寄贈。同センターが今年四月に京大地域研究統合情報センターに再編されたことに伴い、移管された。

 文書は室温二五度、湿度六〇%の書庫で保管され、一般の閲覧もできる。京大は収録された図版や地図の高精細デジタルデータ化を進めており、二〇〇七年度にも公開する予定。
(日経新聞 夕刊 20061121)

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 ロンドンにおけるマルクスのおもな日課は、大英博物館の図書室に通うことだった。朝の九時から夜の七時まで、ここで膨大な文献資料を読んではノートに取り、その後、自宅で仕事を続ける。書斎の絨毯(じゅうたん)には、ドアから窓辺まで、牧場の小道のようにはっきり区切りのある、すっかり彫りきれた筋が見られたという。

仕事中に部屋のなかを行ったり来たりした跡であるが、マルクスの一本気な性格がしのばれるようだ。仕事に疲れると、頭を休めるために高等数学の問題を解いた。彼の頭脳はいつも難問で刺激し続けておく必要があったようだ。それにも疲れると、ソフアに横になって小説を読んだりしていた。
(木原武一著「ぼくたちのマルクス」筑摩書房 p64-65)

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『資本論』第一巻

 インタナショナルでのマルクスの偉大な活動にもかかわらず、彼は「資本論』第一巻の完成に懸命に励んだ。まえにも記したように、マルクス夫妻はヴィルヘルム・ヴォルフの死後、ちょうど一八六四年に、遺産を受けとった。きょうの暮らしにあくせくする心づかいから一時的にも解放されたため、マルクスの理論面での労働能力は、たかまり、したがってまたイェニーの精神的、肉体的状況も改善されるようになった。

 マルクスはインタナショナル大会の指導にかんする心づかいや、指令の起草や、その他さまざまな仕事に忙殺されながら、一方では『資本論』の準備に熱心にとりかかった。しかし彼のもちまえである過度の良心から、なかなかこれを完成することができなかった。

 さらに、マルクスは「経済学批判』を分冊にして出すという計画を変更したので、この分だけ『資本論』の分量を大きいものに変更した。このためいっそう多くの労力を必要とすることになった。イェニーはこれについて、ペルタ・マルクハイムにこう書いている。

「……カールの本はさまざまなつまずきがあるにはあっても、急速におわりに近づいております。この本は彼が前どおりの計画、つまり二〇ボーゲン〔一ボーゲンは一六ベージ〕か三〇ボーゲンの分量で出版するのでしたらもっと早く完成していたでしょう。ところがドイツ人は『厚い』書籍にしか信用をおきません。だからすべてを簡潔に、ひきしめて、不要な分は切りすてて書いた本は、ドイツ紳士の眼にはなんの価値もないものにしか映りません。そこでカールは、歴史的性格をそなえたたくさんの資料をつけてくわえました。こんどの本は五〇ボーゲン分のしっかりしたものですので、爆弾のようにドイツ国土に落下することでしょう。」

 ところが、周期的にマルクスは重病に襲われ、この過度の緊張を要する仕事はしばしば中断された。こんどはイェニーが、夜ごとにマルクスの枕元で看病しなければならなかった。一八六六年四月一日付のクーゲルマンあての手紙で、イェニーはつぎのように書いている。「私たちはみな、この病気が数年間もひっきりなしに繰りかえされるとしたら、どんなに危険なものかを知りつくしています。ですから、私たちが日夜どんなに悲しい思いをしているかは、はっきりとご想像いただけることと思います。」

 とどのつまり、マルクスは医者のすすめにしたがって仕事を中断し、保養地へ出かけなければならなくなった。保養地から帰ったあと、『資本論』は急速に完成に近づいた。そこでイェニーは親しい友人たち、まず第一にもっとも親しい友人エンゲルスと急ぎよろこびを分かちあった。「もしハンブルクの出版業者がことばどおりまともに早く印刷にとりかかってくれれば、本はいずれにせよ復活祭までにはできあがりましょう。これほど膨大な分量で、しかもきれいに清書された原稿を目のあたりにみるのは、なんというよろこびでしょう! 私は肩から山のような重荷がぬけた思いです。しかし走りまわったり、気をくばったりすることがいぜんとしてたくさんすぎるほど残っております。」

 『資本論』第一巻が完成したことについて、イェニーはエルネスティーネ・リープクネヒトあてにこう書いている。「カールは原稿の最終部分にとりかかりました。……私はこの仕事がみられるかどうかとあのように長年のあいだ苦しみ、心配し、ほとんど絶望といってよいほど長期にわたる悲しみののち、原稿がだんだん嵩(かさ)をましてゆくさまを、どれほど安らかな満足感でみまもっていたか、それはとても正しくおつたえすることができません。」

 マルクスは一八六七年四月、ドイツの出版業者マイスナーに『資本論』第一巻の原稿を送った。彼はみずから校正をすすめるため、その地に滞在せねばならなかった(この期間はクーゲルマンのもとに滞在した)。最後の校正刷りをひきわたしたとき、彼はエンゲルスに心のこもった礼状を出し、エンゲルスがこの仕事の完成をたすけてくれたことにお礼を述べずにいられなかった。

 「親愛なフレッド! たったいま最後の(第四九)ボーゲンを校正しおえた。……だから本巻はすんだわけだ。これが可能だったのは、ひとえに君のおかげだ! 僕にたいする君の献身的犠牲がなければ、とうてい僕は三巻もの膨大な労作をしとげることはできなかったろう。感謝の心をこめて君を抱擁する。」

 この天才的創作はついにおわった。そして世界は、人間の思想史に幾時代を画したこの労作の一部を目のあたりにすることができたのである。エンゲルスは手紙で、「ばんざい!」の歓呼をもって著者を祝った。

 『資本論』が世に出たことは、エンゲルスのほかに、イェニー・マルクスのおかげでもある。もしイェニーがいなかったなら、私たちは第一巻を見ることができなかったろう。彼女はいっさいの努力をこれにさしむけ、うるさい客をマルクスから退け、基本的でない文献を読むことを彼に禁じ、新しい外国語を研究することをさえ彼にさしとめて、『資本論』を完成するようマルクスをせきたてた。

 これについてマクシム・コヴァレフスキーはその『思い出』で、つぎのように書いている。「ニコライーオンと私はマルクスにできるだけのものを送った。ところで彼の妻は全著作ができるだけ早くおわることに非常に気をつかって、冗談を旨いながら私をおどかしたものである。──贈り物などして、私の夫が予定どおりに仕事を完了するのをさまたげたりしたら、羊肉のコロッケをごちそうするのはやめますよ、と。」

 慢性病の再発に見舞われていたマルクスは、『資本論』第二巻の執筆のときも、この病気にひどくなやまされた。

 これについてイェニーはフィリップ・べッカーにつぎのように書きおくった。

「残念ながら、私がご無沙汰したのは、けっして愉快なことからではなかったのです。気の毒な私の夫は、もう数週間も、昔ながらの重い、苦しい、そしていつも再発の危険をはらんでいた病気に、またまた手も足も出ないほどがんじがらめにしばられてしまっています。そして目下これほど仕事をしなければならないそのときに、それに、『資本論』第二巻の注文がきているときに、しかも、世界がたとえいまのところは『赤い雄鶏』〔大火事〕ではなく『古代火薬』程度のものであれ、ふたたび火がついているまさにこのときに、無為を強制することほどあの人を苦しめるものはほかにありません。寄生虫やすることのない者には生活手段や健康がめぐまれているのに、新しい世界に所属して、全生活をこの世界の獲得に捧げている人々、こうした人々が病気や貧困の重荷を背負ってゆかねばならないとは。「恥辱、恥辱だ!』こうイギリス人たちは集会で叫んでいます。」

 周知のように、マルクスは『資本論』第二巻と第三巻の出版を自分の手では完了しなかった(彼は第二巻をイェニーに捧げようと願っていた)。予定されていた献辞については、エンゲルスが第二巻の序文でかたっている。マルクスがなしえたことは、『資本論』第一巻のドイツ語版第二版の編集と、第一巻のフランス語訳の編集だけであった。マルクスは後者に大きな意義をみとめていた。フランス語による『資本論』の公表は、当時まだフランスにつよい影響をもっていたプルードン的見地を粉砕するのに大いに役だつはずだったからである。

 イェニーはフランス語版を出版する仕事に熱心に参加した。しかしこの仕事には、適切な翻訳者をみつけるうえで大きな困難があり、当時にあってはこのことは大きな問題だったのである。

 イェニーは翻訳の質というものに大きな関心をはらいこのことでシリーその他とさかんに手紙をかわした。フィリップ・べッカーあての手紙で彼女はつぎのように知らせている。

「私は臨時秘書としてシリーに手紙を書き、翻訳を手伝いたいと申し入れてきたある人の手紙を彼に送りました。モーゼス・ヘスもシリーを通じて翻訳者として役だちたいと申し入れてきました。そしてただいまのところ、『クリエ ・フランセ』誌上で二、三の観測気球をあげる準備をしているようです。しかしこの紳士たちとはとっくの昔に消息を絶ってしまい、一方、お送りした上記の手紙から推して、彼はこの仕事に適した人ではないようです。ヘスは哲学的教養があり、弁証法的飛躍と軽業の技術をこころえている能力から推して、その他大勢の純形式的な翻訳者よりもましかもしれません。しかし反面、わが神秘のラヴィ中のラヴィ〔ユダヤの律法学士〕は、かならずしも頼りにならず(あまり『正統派』とはいえません)、そして無頓着なことも多いですから、彼のため他の人々の申入れを拒むのは、正しいことではありますまい。シリーはいま、この問題の全権となっており、だれがいちばん適任かをやがて決定するでしょう。」

シリーは共訳してもよいというM・ヘスおよびE・ルクリュの両人と交渉をはじめた。しかしこの二人は『資本論』の完訳をするのではなく、フランスの一般読者むけの抄訳をつくる計画だったので、この交渉は成立しなかった。周知のように、ケラーがマルクスの助力をえて『資本論』のフランス語訳にあたったが、彼はパリ・コミューンに参加、コミューンが失敗したあとは国外に亡命したため、訳を完了することができなかった。第一巻の完訳をなしとげたのはJ・ロアで、この訳書は一八七二年から一八七五年にわたって分冊でパリで発行された。

 『資本論』が世に出たのちも、ドイッでは、出版界になんの反響もおこらなかった。ブルジョア出版界はこの天才的労作を故意に無視したし、また大部分の人たちにとって、目の仇であったばかりでなく、友人たちにとってさえも、それは家蔵版にすぎなかったのである。たとえばフライリヒラートなどは、あきらかに自分ではこれを読みもしないで、マルクスに、ラインではたくさんの若い商人や工場主たちがこの本の出版に大よろこびしているなどと言いきるありさまであった。

たしかに、ある工場主たちは『資本論』を、商売を「うまく」やる参考書と解釈し、マルクスにさまざまな忠告をしたり、依頼をしたりし、そのたびごとに、このような本の著者は工場主でないはずはないなどと想像するのであった。クーゲルマンが、ビーレフェルドのそのようなある工場主〔グスタフ・マイアー〕から受けとった手紙をマルクスに転送したことが一度あるが、マルクスはエンゲルスあての手紙でこのことを指摘してつぎのように言っている。「とくに僕を笑わせたことは、この工場主が僕自身はもと裁縫用ミシンをつかう工場主だったにちがいないと考えていることだ。ところで、僕という人間が、こうした問題いっさいにきわめてうとい者だと知っただけでも、この連中はいったいどんな態度をとるだろうか。
 そしてかならずたずねることは、『今後どうなるか?』ということだ。こいつらはみんな、奇跡療法の処方箋をほしがっていて、しかもすでにかなりはっきり感じられる鉄と火による療法を彼らは見ていない。」

 そしていま、『資本論』が世に出てから一〇〇年が過ぎ、多くの国々が資本主義体制を離脱して社会主義陣営を形成している今日なお、ヨーロッパやアメリカには経済学者や社会学者などの「学者」がいて、「人民資本主義」とか「近代化された資本主義」の名のもとに、資本主義の病根を救いだす万能薬をみつけたとか称しながら、その腹話術的呪文をくりかえしている。

 イェニーが一〇〇年前にべッカーあてに書いたことばは、今日なおじつに予言的なひびきをもっている。彼女はこう言っている。

「マルクスは、なんらの特別の治療法──いまでは社会主義的でもあると自称するブルジョア世界が、それを求めて大声でわめいていますが──も、すなわち、現社会の口をあけた、血を流している傷をいやすためのどんな丸薬も、軟膏も、細微糸も用意してはいません。しかし私には、彼が近代社会の成立過程の自然史的な展開から、実践的な結論と適用を引きだし、非常に大胆な帰結にまで到達したと思われます。……強力は、古い社会の助産婦になる。……今日合衆国で出生証書をもたずに現われる多くの資本は、やっと昨日イギリスで資本化されたばかりの子供の血なのである。……もしも貨幣は……「頬に血のあざをつけてこの世に生まれてくるのだとすれば、資本は、頭から爪先まで、毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである。』あるいは、『資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る……。』」

 イェニーの名誉のために言っておかねばならないが、彼女はこの天才的著作をただちに理解し、わがものにした一人であった。この手紙で、イェニーはプラシ製造工のべッカーに『資本論』のはじめの数節に述べられている弁証法の細部が十分理解できないなら、資本の本源的蓄積と近代植民理論にささげられた諸章をまず読み通さなければならない、と教えている。

「私はあなたがこの部分を私自身と同様に、非常な満足をもって理解されることと信じます。……事柄のこの簡潔で情熱的な叙述は、私を感動させ、歴史を白日のごとく私の前に明らかにしたことを、正直に告白せねばなりません。」

 しかし、イェニーは『資本論』を会得し、その意義を理解したればこそ、この書物をとりまく黙殺という秘かな申し合わせにあのような病的ともいえる反応をしめしたのであった。

 イェニーは『資本論』出版のあと、絶望的ともいえる手紙をクーゲルマンに送っている。

「ドイツ人たちはどうやら、黙殺と完全黙秘とで賛意を表明する手段をえらんでいるようです。親愛なクーゲルマンさん、あなたはためらっているすべての人を、根底からゆさぶってくださいました。この本より困難な条件で書かれた本がほかにあったでしょうか、そしてたくさんの、数かぎりないたくさんの世に知られない心配、危惧、苦しみが姿を現わすであろうこの本の創作上の裏面史は、私の手によってこそ描きとおすことができることを、あなたは信じてくださることと思います。もし労働者たちが彼らのために、そして、彼らの利益をまもるためにのみ書いたこの本をしあげるため、私たちがしのばねばならなかった犠牲について思いをめぐらしてくれさえすれば、彼らはおそらく、すすんでもう少し大きな関心をこの本によせてくれるはずだと思うのです。」

 もっとも、この時代にひらかれたイソタナショナルの大会は、全世界の労働者に、「労働者階級のバイブル」であるこの『資本論』に精通するようにと推薦したのであった。

 マルクスの忠実な友人エンゲルスは「この黙殺という秘かな申し合わせをうちやぶる」決心をし、ありとあらゆる名前をつかってさまざまな出版社に書評をおくり、こうした方法でこの本を「広告」することにっとめた。エンゲルスは『経済学批判』のときと同様、いろいろな型の読者の視点から、さまざまな『資本論』の書評を書いた。彼は皮相な雑誌論文だけを読みなれているイギリス人に弁証法の方法を説明することはきわめて困難であるとマルクスにこぼしている。

マルクスの娘ジェニーは、「ドイツののろまたち」が、マルクスのあたえたいっさいになにも報いることのできないであろうことに憤慨している。彼女はエンゲルスが一人でいろいろな変名をつかって、このようにさまざまな観点からものを書いた技術に苦笑をおくっている。

 しかし、忠実な友人エンゲルスがこのような術策をもちいた喜劇ともいえる裏には、もっとも深刻な悲劇が秘められていたのであった。

 『資本論』が世に現われて一〇〇年たったいま、マルクス主義は勝利している。マルクスの小さな党から成長した多数の共産党は、全世界の革命的変革にむかってしっかりとした足どりですすんでいる。マルクス、レーニンの名は人間の歴史の新しい象徴、共産主義の象徴となった。しかし当時はどうであったろう? 当時は、エンゲルスがさまざまな筆名をつかって、眠っている頭の鈍い連中に、『資本論』が出現したことは、世の中に一つの新しい事件がおきたのであることを話すため、腕をふるわねばならなかった時代であった。

 おもしろいことは、マルクスが『資本論』が世に出たあと、バクーニンに一冊おくっていることである。しかし.バクーニンはなにも答えなかった。これについてイェニーはスイスにいるフィリプ・べッカーにつぎのように書いた。「あなたはバクーニンにかんしてなにかご存知ありませんか? 私の夫は老ヘーゲル派としての彼にあの本をおくったのですが、返事もあいさつもありません。彼はあれを受けとったのでしょうか?」

 バクー二ーンはのちに、沈黙していたのはたいへんまずかったと告白している。「べッカーはただいま第一巻だけ出ているきわめて抽象的ではあるが非常に重要な、学問的な、内容の深い著作──『資本論』をマルクスの名で私に手渡した。そのとき私は恐ろしい誤りをおかした私はマルクスにお礼のことばを述べるのをうっかり忘れてしまったのであった。」

 こうした側面からみると、マルクスが一八六八年一〇月一二日付でクーゲルマンに送った手紙はたいへんおもしろい。マルクスはペテルブルグの本屋から『資本論』のロシア語訳が出版されたと通知があったこと、そして写真を送ってもらいたいとの依頼がきたことは、おどろきであったと告げている。「プルードンに反対する僕の著作(一八四七年)〔『哲学の貧困』〕やドゥンカーの出版した本(一八五九年)〔『経済学批判』〕が、ロシアほどたくさん売れたところはどこにもない。そして『資本論』をはじめて翻訳した外国人はロシア人であった。」
(ヴィノグラドスカヤ著「マルクス婦人の生涯」大月書店 p227-235)

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◎「寄生虫やすることのない者には生活手段や健康がめぐまれているのに、新しい世界に所属して、全生活をこの世界の獲得に捧げている人々、こうした人々が病気や貧困の重荷を背負ってゆかねばならないとは」と。