学習通信061124
◎柳田謙十郎先生……

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柳田先生と京都の学習遊動
 ──「学面闘闘而学」──
    有田 光雄

「学而闘闘而学」。
 京都学習会館の教室正面にこの六文字を入れた小さくない横額がかかっている。

 御依頼したこの揮毫を手渡されるとき先生は、「自分の書いたものではこれは多少自信があるものだ」とおっしゃった。あれは六八年の初夏のことだったからはやいもので、この書がみえるようになってからもう二年目の春を迎えようとしている。教室はほとんど毎日毎晩のように、若いたたかいの真理をもとめる仲間たちでいっぱいである。

 おそらく柳田先生がこの揮毫をなさるについては、ひとしおの感慨をお持ちになったのにちがいない。これは私のかってな想像にすぎないのであるが、先生の書かれた『わが思想の遍歴』などをみても先生と京都は深いかかわりをもっている。

 その京都で、労働者階級の大衆的学習運動をになう若い仲間たち、が毎日、毎夜仰ぎみるそこにどんな文字を置こうかとずいぶんお考えになったのにちがいないのである。

 京都の学習協は一九六三年六月に創立された。
 六〇年安保闘争のあと、労働組合の階級的民主的強化があらためて全国的課題とされはじめ、京都でも学習運動とそれをになう組織づくりが話しわれるようになった。

 そうしていよいよ創立にこぎつけ、記念大学習会とあわせたかたちで創立総会、がひらかれた。このときの記念講演には柳田先生、がこられた。

 会場は京都府庁の近くにあった「京都民生会館」だった、が、せいぜい五百人ほどのところに千名をこえる労働者が参加した。大盛況であった。会場受付では「入れろ」「いや満員で入れない」とこぜりあいがおこるほどであった。こうして、京都の学習運動は幸先よくすべりだすことができたのである。

 この大学習会の成功がもとでその年の八月には専従者が配置されるようになった。第二回目の大学習会は、翌六四年の一月にこんども柳田先生をお迎えしておこなわれた。

 あの「四・一七スト」問題のおきた年のことである。この大学習会には約千三百人が参加しこれまた大成功をおさめた。京都の労働者のなかでも「学習協」の存在がようやく認識されはじめることになった。このときの会場は、国鉄京都駅からそう遠くない堀川七条にある西本願寺会館であった。

 西本願寺というのは、周知のように真宗の大本山で東本願寺とならんで全国に散在する信者にとってはメッカの位置をしめている。私の父などもすでに喜寿の老齢にあるが、ときに上洛すればかならず本願寺詣でだけはかかさず「後生一大事」を宗祖様にお願いする。信徒に君臨してこの本願寺の権威は絶大なものである。

 柳田先生御自身も、戦後のある時期自ら積極的に宗数的真理に道をもとめられ、むしろ宗教の歴史的使命を追求されるなかから観念論との決別の契機をふみだしていられる。しかし、宗教といっても既成宗教にたいする先生の立場はきびしいものであって既成のそれは宗教でもなんでもなくて性悪な寺院企業にすぎないとさえ断言されているのをどこかで読んだことがある。西本願寺会館は、その寺院企業が宗教活動の拠点とするところである。

 その会館をかりだすについて柳田先生と京都の浅くないかかわりをしめす一つのエピーソードがあった。

 さいしょ、西本願寺がわは「学習協」などというえたいの知れぬ団体に会館はかせぬということであった。

 そのころはまだ、京都には千名規模の手ごろな会場がなかった。だから大学習会を成功させるためには絶対にこの会場を確保しなければならなかった。

 「いったい、なにやらはるんですか?」
 「講演会です。」
 案の定、数人の僧職、がいろいろききただした。どうもこれは本願寺の宗旨にはあわない!
 「いや、実は哲学者の柳田謙十郎という先生よんで話しを聞くんですが……。」

 そうしたら、なかでもそうとう長老の僧職が「柳田先生ですか。私もむかし先生の講話を聞いたことがあります。さいきんはすこし立場をちがえておられるようだが……」「今回はとにかく使っていただこう」ということになった。ただし「赤旗などは困りますよ。」ということではあったが……。

 先生の講演は「現代と労働者階級の歴史的任務」というテーマであったが、それは以前にもまして深い感銘をあたえた。「柳田先生のお話しがあるそうですが……。」と年輩の一般市民の人たちが参加するというようなこともあった。この大学習会の成功で、京都の学習運動はいよいよ本格的に軌道にのりはじめることになった。

 あれから、すでに七年の歳月がたった。
 この間、京都の学習運動は幾多の困難にぶつかり苦闘、がつづいた。せっかく、軌道にのったのもつかのまで、六五年から六七年にかけての時期は、年に二回の労働学校と、千数百部の『学習の友』を維持するのがせいいっぱいというような状況であった。

 労働組合とのむすびつきもまだまだ、運動も小手工業的な範囲をでなかった。それは、六〇年安保の高まりの結果、職場の自由のひろがり、労働者の学習要求の高まりを背景として創立、前進しつつあった学習運動の土台が、六四年「四・一七スト」問題などを契機とする逆流の激化のもとで次第にせばめられてきたという情勢の特徴を反映していた。

 しかし、やがて京都の労働者階級は六六年四月の蜷川知事選挙の勝利などを契機として、七〇年安保の年を展望しながら着実な前進をつづける。京都学習協もその一翼をになって停滞から前進に転じる。

 今日、七〇年安保のたたかいに積極的にとりくんだ京都の学習運動は当時とは比較にならぬほどの力量をそなえ、民主勢力のなかでも確固とした「市民権」をえる力にまでなった。

 現在、労働学校は年間三回、千名規模にふくらみ、『学習の友』は五千部をかぞえるようになった。この『学習の友』の労働者人口比は全国的にみても高いほうだが「一万人あたり百部の友」、つまり京都の労働者階級のなかに当面六千五百部を、これが七一年の課題となっている。

 また七〇年六月、安保条約の固定期限の終了をまえにひらいた「安保をなくし沖縄をとりもどす五千人大学習会」には実に五千四百人もの仲間を結集したが、これは四月のあの歴史的な京都府知事選挙にさいして学習運動が組織的に強化されたことの直接の結果としてかちとられた成功であった。

 七〇年の夏をさかいに京都の学習運動はあきらかに新しい発展段階をむかえたということができる。文字どおり「七〇年代の大型学習協づくり」、がはじまっている。

 かつて五〇年代のはじめのころ、労働者教育協会の創立に苦心された先生たちのえがかれた夢が一歩一歩実現にむかいつつあると断言してもさしつかえなかろう、と私は考えているがどうだろうか。

「学而闘闘而学」
 労働者のたたかいと運動にとって、理論のもつ大きな意義と、それからたたかいと結合し、たたかいのなかで理論を学ぶことの重要性を強調されたこの先生の揮毫はこれからもまた京都の学習運動をはげましつづけるにちがいない。

 それは京都の学習運動のつづくかぎり永遠にそこに輝いて多くの力をそだてあげることであろう。(京都労働者学習協議会事務局長)
(柳田謙十郎喜寿祝賀記念論文集「労働運動と労働者教育をめぐる諸問題」学習の友社 p351-354)

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滝のような涙

女たちが泣くとき

 終戦の年から三年目の春、二八歳の私は白いブラウスに黒いスカートがやっとのおしゃれ、新しい生活にむかって中央線の国電にのった。ラッシュはすでにすぎ、乗客はまばらであった。

 腰をおろししばらくすると、突然、滝のように涙が流れ出した。まさに滝のように、である。
客がまばらであったのは幸いであった。

 もし、この時の涙をうつわに集めたとしたら、どのくらいになったであろうか。からだ中の水分がなくなってしまうほどであった、と思われる。

 それからまた、今度は保母となって、子どもたちにはなしをしている最中、これまた突然、内容となんの関係もなく滝のような涙が流れてきた。この時は、気づいた主任の人がすぐにあとをかわってくれたのでありがたかった。

 これ以後は、私はひとまえではもう滝のような涙を流すことはなかった。

 滝のような涙、とはよくいったものである。当時の女たちで、涙を滝のように流さなかった者たちがいったい幾人いたであろうか。

──私の母は、原爆で死んた長女と、そのおさなごニ人を想いその後十年、折りにつけ泣き、彼女たちが焼失したその日と同じ八月九日の前日息をひきとり、翌九日に灰になった。──

──私が両親を失った現在、父とも思い母とも思い、尊敬してやまぬ哲学者柳田謙十郎氏の、その夫人は、一人息子が学徒出陣のあと間もなく戦没死すると、真夜中に突然おき上り、大声で泣き、ついに悲しみのあまり、なくなられたという。──

──先頃岸壁の母≠フ死が報道された。私が昭和二九年秋にきた深谷にも、岩壁の母≠ヘいたのであった。
 ある四つ角に、照る日も、降る日も、暑い日も、寒い日も、朝から日暮れまで立つ初老の女の人をみかけた。真冬などは多分家族の人たちの配慮であろうか、幾重にも綿入れを重ね、首にも毛織をまきつけて立っていた。
 「もとは小学校の先生までしていた人なのに、ああして息子さんが戦地から帰るのをまっているんだそうですよ」
ときかされた。あまりの日焼けで皮膚は褐色にひからびていた。多分、涙は枯れてしまっていたのであろう。
 いつの間にかもう姿はみえなくなってしまった。

 あの頃は、父を、夫を、息子を、恋する人を、戦争で失った女は数知れず、おそらく、滝のような涙を流さなかった女たちは少なかったであろう。第一回の母親大会は涙・涙・涙≠フ大会であった、ときいている。

 戦争だけではない。
 アンデルセンは「あるお母さんの話」という童話に、死神にさらわれたわが子をとりもどそうと、世界のはてまで追いかけた母が、両眼を滝のような涙とともに行手をはばむ潮に流してやり、その返礼に渡してもらった、と書いている。

 安寿と厨子王を人さらいにつれ去られたその母もまた、滝のような涙で両眼をつぶした。

 私は子どもの折、前に住む人が、一人息子を病いでなくしたとき、ほんとうに滝のように流す涙をみた。

 母親の手一つで高校まで育てた一人息子を、買って与えたばかりのオートバイでなくした保育園の近所の母親もそれこそ滝のように涙を流した。

 私のいとこで、幼くして母をなくし、少女期にただひとり頼る兄をなくし、結婚した夫は戦争で失い、病いでわが子をなくした人がいた。私は戦争中、疎開先の隠岐の島で、日本海の荒波がよせる岩に腰を並べ、はじめてこのいとこと話をした。彼女は、わが子の死が一番いやすことのできない悲しみである、と語ってくれた。彼女はもはや、涙も枯れたごとく、声も生気を失っていた。

 私の、滝のような涙≠ヘ、ふたりの幼い子どもとの別れ、ゆえであった。
 二〇歳で母親になった私は、これまで子どもと別れたことはなかった。右に、左に、必ずひとりずつの子どもがいた。今はいない。両腕をもがれ、まことに寒々とした自分であった。痛みのはげしい間は、父と母が私の両脇にいてくれた。私は今やっとその痛みから立ち上り、あゆみはじめたその日、滝のような涙が突然おちてきたのである。

国の戦争政策は乙女の「生」も断った

 私は大正の女である。私がもの心ついた頃から終戦までの間、農村は冷害につぐ冷害、都市は不況につぐ不況、そして失業者(ルンペンとよばれた)と乞食の姿が幼い私の目からはなれないのであった。そして小学校の頃からもう戦争、戦争、のあけくれであった。

 女子教育には女大学≠ェ復活し、忍従、服従を第一の徳とし、恋愛などは大変な悪ときめつけられ、職業の選択の自由もなかった。

 私が幼稚園主任教諭の辞令をことわって託児所に働きたい、といったばかりに、当時もっともおそれられた危険思想にかぶれたのでは、と家によびもどされ、両親の強い説得にまけて、一九歳で蘭領ジャワ島で働く青年との結婚を半日で返事をしてしまった私であった。それ以来「私」という人間は死んでいた。

 ジャワ島の三年間、その後引きあげて「嫁」としての生活を送った数年間は、私はパタリと絵をかかない人間になった。いや、絵がかけない人間になってしまったのであった。

 学生時代まで、どんなに暗い世の中であっても、私は絵筆をはなしたことがなかった。

 子ども時代、ひとりでいるとき、本をよんでいないか、絵をかいていないか、ハーモニカをふいていなかった私を、その頃のまわりのひとたちは知らなかったであろう。

 それが、二五歳の夏、戦争が終ったときもほとんど喜びを感ずることがなかった私になってしまっていた。

 心になんの愛もなかった。何をみても感動がなかった。おそらく、たとえ夫の戦死が伝えられたとしても、涙は出なかったであろう。

 疎開先の隠岐の島で終戦をむかえ、秋に母がむかえにきたとき、私は喜ばず、帰りたくなかった。隠岐の島の、母の生家である山奥の廃屋に子どもたちと三人だけで住みたい、と願った。しかしゆるされなかった。

 ただただ、この広い宇宙間に、親子三人たけで住みたい、という願いだけの私であった。両親も想わなかった。姉弟も想わなかった。友もひとりも想わなかった。

 天上天下、ただ、私とふたりの子どもだけの世界で生きたい、心底、それ以外の希望の何もない私であった。

そんな私が一変したのである。

 冬の木枯しの中、枯れたとみえた草も、ある日、春雨(しゅんう)に会えば緑の芽をふき出す。

 それがやがて、どんなにぬいたと思ってもそこにおけばすぐに根づき、どんどんのびてしまう夏草のいきおいのように、私は突然絵を描き出し、とめようとしてもとめることのできない私に変ってしまったのである。

 終戦の年もようやくあけ、大阪から上京した私たちは西高井戸の父の家に住み、上の男の子は小学校に入学し、私は、下の女の子を母にあずけ、はじめて働くことになった。

 玩具研究室の一員としてである。
 戦争で九死に一生を得た若者たちは次々と復員し、死から解放された喜びは春と重なりそこらにあふれていた。生命あることへの限りない喜び、感動は、不幸であったものへの、弱いものへの献身とかわり、暗い社会で夢をなくしていた子どもたちにすばらしい明るい夢を与えたいという使命感が躍動し、皆創作活動に熱中していた。その生き生きした芸術家たちの息吹きにふれた私は、まるで春雨をうけた枯草のようであった。

 私は絵筆をとりはじめた。そして創作した。
 彼らは間もなく、私のかくされていた創造的才能に驚嘆した。彼らは専門家であったが、私はまったくの素人であった。しかし私は、さくら・さくらんぼの子どもたちのように、絵を描かずにはいられない本来の私にもどったのであった。私の作品はまったく独創的なものであった。

 彼らは、アンデルセン童話のプシケ≠ノついて熱中して語った。
 私は古井戸から掘り出されたプシケの像≠フようにあつかわれとまどったのであった。

 それからは私は、生いしげるにまかせる夏草のようないきおいで次々と作品を生み出し、松坂屋、三越、伊勢丹などを会場とする展覧会で専門家をおどろかせたのである。

 ところが突然、七年ぶりにジャワ島より夫が復員、たちまちにして夢は消え、「嫁」という現実にひきもどされることになった。

 どれほどのおもいが私の胸を去来したことであったろうか。誰一人相談することもできぬまま、勇を鼓して離婚を宣言し、実家からはなれることを拒否したのである。

 当然のことながら夫は容認するはずもなく、力ずくで突然二人の子をつれ去ったのであった。

 当時、私を知る人たちは、おそらく私が玩具の仲間と恋愛し、離婚をしたと思ったにちがいない。しかしその後私はその人たちからも姿を隠したのでおどろいたようであった。

自由に生きたい、創造したい

 私は一度知った自由∞生きる喜び∞創造の喜び≠すてて、再びくさりにつながれるのを拒否したがゆえに、以前にもまさる茨の道、苦しみの道を歩まざるを得なかった。多分、私のえらんた道を理解できる人は数少ないにちがいない。

 しかし、理解できる人なら、なぜ、さくら・さくらんぼの子どもたちがあのような豊かな、創造的な絵が描けるかがわかるにちがいない。

 キエフの人たちが今なお愛してやまない詩人であり画家であるシェフチェンコは、四十数年の生涯の間、自由であった期間はわずか三年であった、という。

 彼は生まれおちるときから農奴であった。少年時代、遊芸人の演ずる民族楽器バラライカ≠フしらべをきき、身がふるえ、忽然として地に枝で絵を描きはじめたという。それからはひまさえあれば描きつづけ、次第にそれが人の口からロヘと伝わり、やがて見にきた一人の画家がその才能におどろき、著名な詩人の肖像画をえがかせ、その金で農奴である彼を買取り自由にし、彼を美術学校に入学させた、という。はじめて学問をすることができるようになった彼はほとばしるほどの勢いで詩をつくり、絵を描いたという。ところがどれもこれも、彼が知る農奴の生活であり、それをみる人たちは涙をしぼり、農奴制の不当性を主張するようになったがため、三年後、皇帝はシェフチェンコをとらえ投獄し、再び絵を描くことのないよう申し渡したという。

 しかし彼の内なる欲求はとどめることができず、長靴にしまっておいた絵が発見され、ついにジベリヤに流刑となり、四十歳をこえるまでそこにとどめおかれたのである。

 当時、デカブリストたちの運動をはじめ、民主的な改革を求める多くの知識人たちの声は高まり、皇帝はやむなくシェフチェンコの解放をゆるしたという。多くの知識人たちはシェフチェンコを心からいたわりむかえ、キエフが一望に見える丘の上に彼をなぐさめたが、長い流刑地の生活ですっかりからだはおとろえ、間もなく四十数年の生涯をとじたときく。彼が自由であったわずか三年の間にかいた多くの絵や詩はウクライナの人びとから心から愛され、今なおキエフのシェフチェンコ博物館には涙を流す見物者がたえないという。

 私も幸い、十数年前キエフを訪れ、ジェフチェンコにふれることができたことは終世わすれ得ぬ感激であった。

 彼の墓は遺言により、ドニエプル河の上流のさびしい丘の上にたっている。どんな圧政も、どのようなくさりも、彼を屈服させることはなく、彼はわずか三年という短い年月にもかかわらず、その自由な、わずかの間に、一生を生ききり、自己表現をしたのであった。

 これが今なお、真の自由を希望する人びとの心を打つゆえんである。

人間を奴れいにしてはならない。
人間の自由をうばってはならない。
人間を生きるしかばねにしてはならない。

 これが、私の保育の真髄、なのである。
 私の保育園が、子どもを抱え、自由を求める女たちのかけこみ寺≠ニいわれるゆえんもここにある。

 一九八一年は自由民権百年の記念の年である。私が、自分が学んできた保育の道三十五年をふり返り、今日までの茨の道をくわしく書いてみようと決心したのは、一九八一年十一月、自由民権百年全国集会に仲間の保育者たち五十五名とともに参加したことも大きな理由になっている。

 私は今、自由民権運動の理論家植木枝盛の書いた尊人説≠、学習院大学教授である柳田謙十郎氏の二女節子氏(中国史研究家)より「よみ」の手ほどきをうけた。ほとんどが漢文の引用のためである。

──昔から人は、天、地に人をつけて、三才(天地人)というが、どうして、人≠天地≠ノ並べることができようか。人≠ヘ天地の上にあるべき、である。
 なぜなら、天は万物を覆うものであり、何一つ覆わざるものはないが、何一つ、載せることはできない。

 地は、万物を載せる。どんな重い山でも、河や海の水も、一滴ももらさず載せることができる。何一つとして載せる事のできないものはない。しかし、わずか一物をも覆うことはできない。

 ところが人≠ヘどうか。人は小天地であり、万物を備え、自主独立、万物の霊長、万物の主人である。──とときはじめているのである。まさに尊人説である。

 私が哲学者柳田謙十郎氏を父母とも、師とも仰ぐ理由は、氏から、この人間の尊厳について深く学ぶからである。氏の著書『マルクスの人間観』(青木書店)をよむと、マルクスが青年の時に書いた博士論文の一説が紹介されている。ギリシャ悲劇中のしばられたプロメテウス≠引用しているのである。

──人間に火(知恵)を与えた罪で、プロメテウスはゼウスという絶体的権力者である神より、峨々たる岩山にくさりでしばりつけられ、鳥に内臓をついばまれるにまかせられた。しかも、どんなについばまれてもまた新たに内臓は生まれ、永劫に死ねないという苦しみの刑をうけたのであった。

 しかしプロメテウスは、ゼウスの言に従うならそのいましめをといてやろう、という使者の言をしりぞけた。そして、ぎゃくに、そこにたどりついた、ゼウスの愛のために正妻ヘラより牛の姿にかえられ、その耳の中にあぶを放たれ苦しむイーオーにむかって、「ゼウスは必ずほろびる。どんな絶対的権力も必ずほろびる時が来る」と予言し、自殺しようとするイーオーをはげまし、エジプトヘの道をおしえるのであった。──

 真の自由をかくとくするまでには、常に苦しい代償を要求される。

 私の三十五年の保育所づくりは、私という女、私という人間が、その自由を求めて生きるための長いたたかいであった。

 それこそ、身をけずるほどの痛みを伴う代償を要求されても、屈服することができなかった生きたい∞創造したい≠ニいう内からの叫びの実現のためにほかならなかったのである。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p239-250)

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人間を奴れいにしてはならない。
人間の自由をうばってはならない。
人間を生きるしかばねにしてはならない。

 これが、私の保育の真髄、なのである。