学習通信061128
◎逃亡や途中帰国で……
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トヨタ下請け
外国人研修生の通帳管理
逃亡防止へ「強制貯金」
トヨタ自動車の三次下請けメーカーなどでつくる「豊田技術交流事業協同組合」(愛知県豊田市)が、ベトナムから受け入れた外国人研修生の給料の一部を貯金(預金)し、通帳を勤務先のメーカーが保管すると記した「合意書」を、研修生らから取っていることが十八日、分かった。(29面に関連記事)
合意書には、逃亡や途中帰国した場合、メーカーが預金を身元保証人やベトナムの送り出し機関に返金すると書かれ、本人に直接、手渡さない内容。逃亡や途中帰国でメーカーに損害が出た場合、費用は預金から充てるとしている。
複数のベトナム人研修生は「(期間を満了すれば)帰国時に空港で預金を受け取ることになっていた」と話している。
外国人研修生・技能実習生の受け入れ支援などを目的に設立された財団法人・国際研修協力機構は「途中帰国でも直接、本人に手渡さないのは問題。(労働基準法一八条で禁じた)強制預金の可能性がある」として、協同組合や送り出し機関ヘの調査を検討している。
機構によると、研修生は来日二年目以降、技能実習生となり、日本の労働法規の下で就労することができる。ある下請けメーカーは「逃亡防止の目的で、外国人研修生らの通帳を管理するよう協同組合から指示された」と説明。協同組合は合意書の存在を認め「強制預金は指示していない。合意書はベトナムの送り出し機関が作った。誤解のない内容に変えるよう伝えたい」としている。
コメントしない
トヨタ自動車広報部の話
基本的には取引先の各社の問題であり、当社としてはコメントを申し上げる立場にない。法令順守の徹底は日ごろから取引先にもお願いしており、今後も続けていく。
(京都新聞 一面 20061119)
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トヨタ下請け「強制貯金」
日本に見た夢
低賃金で利用
深夜に及ぶ単純作業、会社の電話を使い罰金ートヨタ自動車の三次下請けメーカーで働き、違法な実態を労働基準監督署や入国管理局に通報した複数のベトナム人が、仕事を求めて来日した夢と現実のギャップを語った。
6畳間で6人生活/手取り月6万円弱
通報したベトナム人語る
「六畳間で六人が生活した。残業中の晩ご飯は十分間で食べなければならなかった」。来日三年目の女性は、外国人研修生制度で禁止された一年目から残業をさせられたと明かす。
月収は天引きの預金を除く手取りで五万八千円。携帯電話の所持を禁止され、会社から私用電話をかけた別の女性は「一万円の罰金を取られた」と話す。「ベトナムでは週四十時間労働で残業はなく、寮の光熱費が無料と聞かされた」と口をそろえる。
法務省入国管理局によると、二〇〇五年度に来日した研修生は一九九六年度の約一・八倍の約八万三千二百人。そのうち日本の労働法規下での就労が認められ、最長二年間、滞在が延長できる技能実習生に約三万二千四百人が移行した。
一方、二〇〇五年に研修生と技能実習生の約千九百人が失跡、外国人側の問題点も指摘される。
「親会社が経費を詰めてくる。安い賃金でも働く外国人は魅力」とメーカー側。労働法規違反を取り締まる監督官は「景気がいい東海地方は人手不足。安価な外国人が手軽に使われる」と話す。
三年間、自動車シートのヘッドレストなどの縫製作業を繰り返した彼女たち。「美容院を開きたい」。別のベトナム人女性が帰国後の夢を語った。
(京都新聞 29面 20061119)
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こんな話も、あんな話も、もうとっくに多喜二が本に書いてるっちゅうども、わだしが多喜二に話して聞かせたことを、多喜二が書いていることもあるので、あんたさん、おもしろくもないべども、まあ我慢して聞いてもらうべか。
わだしがあの若竹町に住んで、一番度胆(どきも)返したことは、なんたって、かんたって、タコ部屋のことだわねえ。昼間は汽車が通る、トロッコが走る、棒頭が怒鳴る。その騒がしさ、夜になってやっと静まったと思ったら、タコ部屋のほうから、
「ギヤーッー・」
とか、
「助けてくれー!」
とか、獣の呻(うめ)くような声が聞こえたりしてきてねえ、それが布団さ入ってると、よく聞こえるの。それでも初めのうちは、
「何だべな」
「あれ何だべな」
と思っていたわけ。
そのうち、店に来る客たちの話で、それはタコ部屋の棒頭が、タコたちの背中に、焼火箸ば押しつけたり、薪ざっぽで、殴りつけたりして、折檻しているっていうでないの。何でそんなことしなきゃならないんだべかと思ったども、労働があんまり辛くて、タコ部屋ば逃げ出す者がいるんだって。それで、焼火箸だの、薪ざっぽで、惨(むご)い折檻するんだって近所の人や、店に来る人たちがわだしに言って聞かせたの。
ああ、タコって、知らんべねえ、あんたさんたちは。金ば前借して、労働する人夫たちのこと、タコって言ったのね。どうしてタコっていうかわかんないども、海の蛸のように、自分で自分の足ば食うような生活するから、タコっていうんだと、聞いたどもね。
それはともかく、わだしはタコたちが可哀相で可哀相で。タコだって、親もあれば、子供もあるべし。労働が辛くて逃げたからって、折檻までしなくたっていいべに。ひどい時は砂ば掘って生き埋めにするって聞いたどもね。わだしらがトロッコに乗って労働したことあるせいか、タコたちもわだしらの仲間に思われてね、何とかして助けてやりたいもんだと思ってね、末松つぁんに、
「警察に知らせたらどうだべ」
って言ったら、末松つぁんは、
「無駄だべ」
と、ぽつりと言っただけ。
「何で警察さ、いじめないようにって言うのが無駄なの?」
って、わだしが怒って聞くと、末松つぁんは言った。
「なあ、おセキ。お前もいつかわかるべ。とにかく、子供たちが大きくなった頃には、少しは世の中の仕組みも変わるべ」
ってねえ、あとは黙って何か考えてるの。わだしは何かわからんども、すごくおっかない気持ちになった。わだしは、警察は殴られてるもんを助けるもんだと思ってた。いじめられてるもんを、助け出してくれるもんだと思ってた。
わだしの生まれた家の向かいにいた駐在さんは、飴だの、煎餅だの、わだしによくくれたもんだ。貧乏なわだしらば、ほんとに可愛がってくれたもんだ。それが警察っつうもんだと信じて育ったから、末松つぁんの言うことは、どうも俯に落ちない。附に落ちないども、末松つぁんという人は、考えなしにものを言う人じゃない。でたらめを言う人じゃない。本をいろいろ読んでいた人だからね。だからわだしは、何かわからんども、わだしにわからんことがこの世には隠されているんだなあと、わだしはわだしなりに思った。
けどなあ、こんな話も忘れられん。ある時発破の爆発で、一っぺんに崖崩れが起きて、タコがたくさん死んだんだって。そしたら、その死んだタコたちは、一つ穴にぼんごぼんごと投げ入れられて、棒っこの一本も立ててもらえず、あの若竹の崖の下に眠っている。そんな話聞いたら、どうにもタコが哀れでならない。出稼ぎはたいてい東北の貧乏百姓だべし。向こうで、いいだけ貧乏で苦労して、北海道さ行ったら、一日三円の出面賃(でめんちん)がもらえるって、喜んでやって来て、悪い周旋屋にだまされて、タコに売りとばされて……。
ねえ、あんたさん、売られたタコが悪いんだべか。故里に帰れば、父親もいるべし、母親もいるべし、女房、きょうだいもいるべし、みんながいつ銭こ持って帰って来るかと、首長くして持っていたって、いつまで経っても帰って来ねえ。まさか、一つ穴に、とうに葬られていたなんて、誰が思うべ。ねえ、可哀相でならね。わだしは、タコが毎日棒頭に怒鳴られながら、首ば垂れて働きに行く姿を見ただけでも、なんぼ涙がこぼれたもんだか。
あれは大正何年頃だったべか。五、六年頃だったと思うけどね。多喜二が十かそこらの子供だったからね。暗ぁい晩だった。店の戸締まりをする時、星が三つ四つ雲間から出ていたのを、どういうわけだか覚えてるの。
ああ、春も終わりの頃だった。戸締まりして、寝るべと思っていたら、店の戸が何かごとごと音がする。寝巻に着替えようとしていた末松つぁんが、客かと思って店の戸を開けてみたらば、若い男が両手を合わせて、わしらば拝んだ。
「助けてください」
その言葉でタコとすぐにわかった。
末松つぁんは毎日、土工現場にパンば背負って売りに行っていたから、向こうは末松つぁんの顔ばよく知っている。誰が見ても末松つぁんの顔はやさしい顔だ。タコはきっと、この人なら助けてくれるべと、前々から思っていたのかねえ。
タコの拝む姿を、末松つぁんと並んでわだしも見たけど、とにかくすぐに家ん中さ入れてやらねばと思った。むろんそん時はびっくりして、一瞬、どうしたもんかと、末松つぁんとわだしは顔を見合わせたども、逃げたタコが見つかった時、どんな目に遭うか何べんも聞いていたから、外に突き出すわけにもいかない。
「まずは上がれ!」
と引っ張りこんで、家の押入れさ隠してやった。わだしたちの布団はもう敷いてあったから、押入れにはタコの一人や二人かくまってやる余裕があった。
灯りを点けていて、怪しまれるとならないから、すぐに灯りば消した。わだしも末松つぁんも、一応寝巻に着替えて床の中さ入ったども、おっかなくておっかなくて、胸がドキンドキン小鼓打つみたいに、大きく動悸するの。何せ棒頭共の乱暴なことは何度も見てるし、逃げたタコを助けた者ば、棒っこでいいだけ殴ったっちゅう話も聞いている。まさか、こんな近い家に飛びこむはずはあるまいと、気いつかんでくれれば……と、がたがたふるえながら、わだしは神さま仏さまに祈っていた。
それから十分も経った頃、あっちらこっちらと、男共の騒ぐ声がしたかと思ったら、いきなりわだしらの店の戸ば、ドンドンとぶっ壊れるほどに叩き始めた。
歯の根も合わんとは、あのことだね。カチカチカチカチ、歯が音を立てるの。けどね、末松つぁんは優しく見えても男だった。店に出て行って、
「何だねえ、騒がしい」
と、いつもの声で返事をしながら、しんばり棒を外した。二、三人、どっと店ん中さ入った。顔見知りの棒頭が先頭にいた。目が吊り上がっていて、鬼のような顔だった。ええ、わだしも末松つぁんの後から、ふるえながらついて行ったのね。その鬼みたいなのが、
「父っつぁん、誰か逃げて来んかったかね?」
と、奥のほうをのぞきこんだ。
「まさか、目と鼻の先に逃げこむ間抜けもあるめえさ」
末松つぁんが、呆(あき)れたように言った。わだしは、あん時ほど末松つぁんが頼もしく思われたことはなかった。だってねえ、顔つきがちっとも険しくならんのね。ちっともびくびくしておらんのね。
「それもそうだな」
棒頭が納得すると、末松つぁんはわだしの顔みて、こう言ったのね。
「ああー おセキ、したらばさっきの走ってった足音、あれタコだったんだべか」
わだしは大きくうなずいた。胸がまたドキドキした。棒頭が殺気立って、
「何? 足音? それ、どっちさ行った?」
と声ば、うわずらせた。わだしは左のほうば指さして、
「はい、あっちのほうさ、駆けて行ったようだったね、ね、あんた」
と、大嘘ついた。
「おおう! あっちか! じゃ、朝里のほうだな」
疑う様子もなく、棒頭は手下の者と一緒になってすっ飛んで行った。朝里のほうばなんぼ追っかけたって、追いつくわけないわね。うちの押入れの中にいるんだもの。
けど、どうして人間、あんなに簡単に人の言葉ば信ずるもんだか。押し問答してると、遠くさ逃げられっちまうと思って、すっ飛んで行ったもんだかね。
さあ、それから、すぐにタコに末松つぁんのふだん着ば着せて、売れ残りのパンば風呂敷に包み、背中に負わせてやった。店の銭こも幾らか持たせてやってね。
あの晩、一晩中、無事に逃げてくれろと、まんじりともしなかったが、うまく逃げてくれたらしい。その夜、タコ部屋では騒ぎもなかったし、折檻された様子もなかったからね。
今思い出しても、総毛立つ思いがする。ああいう嘘は、ついたっていいんだかって、いつか近藤先生に聞いたらば、
「人の命を助ける嘘はいいことだ。聖書にも、逃げて来た敵の兵隊ばかくまった水商売の女の話がある。聖書に書かれるくらい、いいことだ」
って、言ってくださったっけ。ああ、近藤先生って、近藤春義という牧師さんのことなの。
それはそうと、わだしはね、パン屋の店が好きでね。パン屋といっても、豆腐も油揚も色紙も、お弾きも、ビー玉も、鉛筆も、雑記帳も売ってたことがあるの。タコ部屋でない飯場から、人夫たちもやって来る。それが、餅だのパンだの、あがりがまちに腰かけたり、立ったまま食べたりするの。わだしが番茶ば俺れてやるの。するとね、
「小母さんの滝(い)れたお茶はうめえ。おふくろが滝れてくれた味とおなしだ」
なんて言ってね。わだしは、
「あんたの故里はどこだの?」
とか、
「おっかさんはなんぼになるね?」
とか、
「子供は何人いるの?」
なんてね、いろいろ聞くと、首に巻いた手拭いで涙ふきふき、いろいろ身の上話語って聞かせてくれたりしてね。そんな話聞くと、もう銭こなんて要らんような気持ちになってね。
人の話聞いてやることって、いいことなんだよね。みんな、大変な暮らしばしてるんだわ。わだしもかえって励まされてねえ。こっちの苦労話をすることもあった。
(三浦綾子「母」角川文庫 p44-52)
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タコの幽霊
北海道のオホーツク海側、北見市と遠軽町とのあいだに、常紋(じょうもん)トンネルというトンネルがある。常紋というのは、北見国常呂(ところ)郡と紋別郡とのさかいという意味で、四〇分の一という急勾配のところだ。このトンネルに幽霊がでるというのはこの近所では有名な話だが、それには、このトンネルがつくられたときのいきさつがあるという。
トンネルにでる幽霊をなぐさめ、安らかに成仏してもらおうという趣旨で、一九五九年に、このトンネルの出口から一キロほどのところに、歓和地蔵というお地蔵さんが建てられた。その横の立札に、つぎのようにこの地蔵の由来が書いてある。
「湧別(ゆうべつ)線工事中最大の難工事とされていた常紋ずい道(五〇七メートル)は、大正元年にはじまり三年の年月をかけて、大正三年一〇月完成しました。工事は本州方面から募集してきた労務者を飯場に収容し、通称タコと呼ばれた者によって行なわれた。労務者は人権を無視された苛酷な取扱いをうけ、粗食と重労働で病気にかかる者も多く、医薬も与えられず、体罰を加える。そして使役不能とみたものは、一定の箇所に監禁し、死者はそのまま次々と、大きな穴の中へ投入してしまうという、残虐非道なことが、公然と行なわれたといわれている。このずい道工事中、百数十人の若者が犠牲となり、ずい道付近に埋められております」
じっさいにこのトンネルの近くの人たちは、埋められていた白骨をいくつもほりだしている。それだけではない。いまから何年か前にトンネルの修理をしていて壁のレンガをはずしたところ、なかから頭蓋骨がでてきたという。しかもその頭蓋骨の右後頭部には布きれがくっついていて、それをはずしたら傷あとがあった。町の老人の話では、働きの悪いタコをスコップでなぐりつけ、みせしめのために人柱にしたというが、その証拠がトンネルの壁のなかからでてきたのである。
「タコ」という言葉の意味はよくわがらない。北海道でだけ使われた言葉のようだ。道内出身の土木工事の労働者のことを「地蔵(じこ)」といい、本州からつれてこられた労働者のことを「他蔵(たこ)」といったという説もあり、長いあいだ、もっこなどをかついで肩にタコができていたので、タコといったという説もある。
その土木工事の飯場のことをタコ部屋といい、棒頭(ぼうがしら)という監督が見張りをしていて逃げだせないようにしていた。ときにいのちがけで逃げだすものがいると、追手をだし、山狩りをしてもつかまえ、スコップでなぐりつけて半殺しの目にあわせるとか、両手をしばって木につるし、下から松葉をたいていぶすとか、残忍なリンチが加えられた。病気になったもので、土木工事のときトロッコにのせられ、土といっしょに生き埋めにされてしまったものもあった。北海道の鉄道や道路やかんがい工事には、こういうタコの犠牲のうえにつくられたものが多い。
タコには道内の出身者もいたが、本州からかなりの数のものがつれてゆかれている。それもはじめのうちは東北の出身者が多かったが、だんだん関東や中部、近畿地方の出身者がふえていった。たいていは周旋屋にだまされてつれてこられるのである。
北海道へゆくと牧場で働いて高い賃金がもらえるとか、だれにでもできる仕事でふつうの賃金の二倍か三倍になるといわれ、うっかりそのロ車にのると、見張りのついた家にとじこめられ、宿賃だ、汽車賃だといって、いつのまにか何十円かの前借金ができるようなしくみになっていた。
じっさいに北海道へわたって、朝、暗いうちから夜暗くなるまで一日一五時間くらい働かされ、賃金は一日一円、そのうち五〇銭は食事代として差し引かれる。そのほか、軍手や地下足袋などを、一般より高い値段で買わされ、いくら働いても前借金は減らないのだった。
こういうタコ部屋の話は、遠い昔のことなのではない。タコ部屋ができたのは一八九〇(明治二三)年のことだが、その最盛期は大正時代のことであり、そして世論の批判がだんだんきびしくなるなかですこしずつ衰退しながらも、第二次大戦中もつづき、終戦後、ようやく一九四六(昭和二一)年に、アメリカ占領軍の「民主化」政策のひとつとして、タコ部屋解散命令がだされたのである。
資本主義が生まれたころだけでなく、敗戦にいたるまで、日本資本主義の底辺にはこういう労働が残っていたのだった。タコ労働だけではない。タコ部屋以前に北海道の土木工事をになっていたのは囚人の労働だった。かれらは鎖につながれて道路をひらき、かんがい溝をほったのだ。そしてタコ部屋とならんで、第二次大戦中に北海道で強制労働につかされたのは、朝鮮や中国からむりやりにつれてこられた労働者であった。
本源的蓄積というのは、農民から土地をとりあげ、これを労働者にかえてゆくということである。しかしそれで間にあわないときには、囚人を使い、タコ労働を使い、さらには武力によって外国人までつかまえてきて酷使する、それが資本主義の本性なのだ。ここでは暴力はむきだしである。
(浜林正夫著「物語 労働者階級の誕生」学習の友社 p116-121)
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◎逃亡防止へ「強制貯金」……「ベトナムでは週四十時間労働で残業はなく、寮の光熱費が無料と聞かされた」と……。
◎「北海道へゆくと牧場で働いて高い賃金がもらえるとか、だれにでもできる仕事でふつうの賃金の二倍か三倍になるといわれ、うっかりそのロ車にのると、見張りのついた家にとじこめられ、宿賃だ、汽車賃だといって、いつのまにか何十円かの前借金が」と。