学習通信061129
◎事故を招いた仕組み……

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経済難民
いざなぎ超えの陰で
 第2部 効率化の果て

(1)
会社の体質
命奪ったコスト削減

 市民球団だからという理由で広島カープを愛し、ロングピースを好んだ一人の教師が二月の寒い朝、突然命を奪われた。宇治市の高速道路で居眠り運転のタンクローリーが渋滞の車列に突っ込み、三人死亡の大事故を起こした。犠牲者の中に、立命館中学・高校の社会科教師、長山徹(五三)=当時=がいた。

 「今は経済が悪くなったら労働者を解雇するが、みんなが給料を減らせば解雇しなくてすむ。これが平等な資本主義だよ」。そんなことを話す長山の授業は生徒に人気だった。追悼ホームページには、教え子らの書き込みが並ぶ。「公民の教師を目指して、友だちと『長山になろ!』と言い合ってます」

 事故を起こした運転手、川村裕(三五)=仮名=は、過労のため六分もの間眠り込み、事故直前には車は時速約百`で数百bを迷走した。この空白の時間をうみ出したのは、長山が教えてきたものとは正反対に走り続ける日本経済の構造だ。

16時間労働も

 川村の勤め先は、大津市にある社員二十五人の運送会社だ。二〇〇五年夏、社員が数人退職したが補充はなく、古参の川村らにしわ寄せが来た。年末年始の労働時間は月五百時間超。休日なしで一日一六時間も働き続けた計算だ。

 「えらい(つらい)なあ」とこぼす川村に、母親は「顔が青白く、人相もきつくなって」と心配を募らせた。川村は当日も「前を見ようとしても自然に閉じてしまう」(京都地裁判決)まぶたをこじ開け運転を続けた。

 この事故で、社長らも過労運転を容認したとして起訴され、京都地裁で「会社の体質が事故の原因」と実刑判決を受けた。だが、事故の真相は、会社だけを責めればすむほど単純ではない。

 同社関係者は遺族を気遣って言葉少なに語る。「荷主に『断ったら仕事を他へまわすぞ』と言われ、運賃をたたかれて経営が苦しくなり、どうしようもなかったようだ」。

仁義なき競争

 トラック業界は一九九〇年の規制緩和以降、毎年約千五百社が参入し、今は六万社を超える。結果は、過当競争に付け込んだ荷主の仁義なき運賃値下げ要求だ。運輸労連の〇三年の調査では、緩和前に比べ運賃が下がった業者は七割を超えた。その結果、営業用トラックの交通事故は九〇年に比べ約六千件も増え、ここ数年、約三万二千件前後で高止まりしている。

 国土交通省は九月、「輸送業界は疲弊しきっている。荷主も安全コストの一端を担ってほしい」と、値下げ圧力を抑えるよう申し入れたが、日本経団連副会長、渡文明(新日本石油会長)らは「価格は個別交渉で解決すべきだ」とつれなかった。

 川村の父親は「弱いものにしわ寄せが来る世の中で、裕も貧乏くじを引かされたんや」と、やるせなさを口にした。長山の妻、秀子(五〇)は言う。「運転手や会社に怒っても、事故を招いた仕組みはなくならない。どこに怒りをぶつければいいのでしょうか」

 規制緩和の流れと制御が利かなくなった市場原理。加害者と被害者の家族を暗転させた事故は、日本経済が抱え込んだ深い闇を映し出している。(敬称略)

 ×  ×  ×

 徹底した効率化で大企業は競争力を取り戻し、消費者も価格やサービス面で恩恵を受けた。だが一方で、人びとの生活や安全が揺らいでいる。戦後最長となった景気拡大の陰に潜むゆがんだ構図を探った。
(京都新聞 夕刊 20061128)

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 われわれは、イギリスの都市労働者階級の生活状態をかなり詳しく考察してきたので、いまや、これらの事実からさらに包括的な結論をひきだし、これをふたたび事実とくらべてみるときであろう。

そこでわれわれは、こういう環境のもとで労働者自体はどうなったのか、彼らはどんな人びとなのか、彼らの肉体的、知的、道徳的状態はどうなっているのかを、見ることにしよう。

 ある個人が他の人の身体を傷つけ、しかもそれが被害者の死にいたるような傷害であるなら、われわれはそれを傷害致死と呼ぶ。

もし加害者が、その傷害が致命的となることをあらかじめ知っていたら、われわれはその行為を殺人と呼ぶ。

しかし社会が、何百人ものプロレタリアを、あまりにも早い不自然な死に、剣や弾丸によるのと同じような強制的な死に、必然的におちいらざるをえないような状態においているとすれば、

またもし社会が何千人もの人から必要な生活条件を奪いとり、彼らを生活できない状態におくとすれば、

またもし社会が、法律という強大な腕力によって、彼らを、こういう状態の必然的な結果である死がおとずれるまで、こういう状態に強制的にとどめておくとすれば、

さらにもし社会が、これら何千人もの人がこういう状態の犠牲となるに違いないことを知りすぎるほど知っており、しかもこれらの状態を存続させているならば

──それは個人の行為と同じように殺人であり、ただ、かくされた陰険な殺人であり、誰も防ぐことができず、殺人のようには見えない殺人である。

というのも、殺人犯の姿が見えないからであり、皆が殺人犯でありながら誰も殺人犯ではないからであり、犠牲者の死が自然死のように見えるからであり、そしてこの殺人は作為犯というよりは不作為犯であるからである。

しかしそれはやはり殺人である。

私はこれから、イギリスでは、イギリスの労働者新聞がまったく正当にも社会的殺人と名づけたことを、社会が毎日、毎時間犯しているということ、社会は労働者を健康のままではいられず、長くは生きられないような状態においていること、こうして労働者の生命を少しずつ、徐々に削りとり、そして早ばやと墓場へつれていくことを、証明しなければならない。

さらに私は、こういう状態が労働者の健康と生命とにどんなに有害であるかを、社会は知っており、しかもこの状態を改善するためになにもしていないということも、証明しなければならない。

私が傷害致死の事実の典拠として公式文書や議会や政府の報告を引用することができるなら、社会がみずからの制度の結果を知っており、したがって社会のやり方はたんなる傷害致死ではなく、殺人であるということは、それだけですでに証明されたことになるのである。──
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p149-150)

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◎「イギリスでは、イギリスの労働者新聞がまったく正当にも社会的殺人と名づけた」と。