学習通信061130
◎母親が赤ちゃんへ……

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子どもとしっと

 私は時折、あまりにも深刻に悩む幼児の顔にぶつかり、ほんとうにおどろく。

 青ざめて、じっと動かず、かんもく症のように黙りこくってしまった子ども、食欲もなくなり、おねしょをするようになったり、ある子どもは、今までコップで飲んでいたのに、どうしても哺乳びんでないと飲まなくなったり、母親の乳房をまた求めるようになったり、逆に、誰にもかれにもつっかかっていってなぐってしまう子ども、急にボス的になり、保母などにも反抗的になってしまった子ども、そのあらわれ方はさまざまであるが、その心の中はいかほどの悲しみ、苦しみにあるか、それを思いはかってやらなければ、あるいはとり返しのつかない傷痕を残すことにもなりがねない。

 なぜこのように幼い子どもが悩むのか?
 なんのために?
「愛」を求めてである。

 「愛」こそ、まことにふしぎなもの。
 人間をこのうえなく仕合せにするのも、不幸にするも、この一字の中にあるとさえおもわれるふしぎなものであるが、この「愛」は、初代の京都大学霊長類研究所長であり「足の話」で有名な近藤四郎氏の近著「人間の生と性」(岩波書店)によると生物としての人間は皮膚感覚によってたしかめるもの、という。

 したがってどんなに口で「おまえを可愛いがっている」といっても、また幼い子どもたちは自分の皮膚によってたしかめなければ満足しない。

 さて、子どもの最初の深刻な悩みは、はじめての競争者の出現によってはじまる。

 しかも、下の子どもがまたこの世に誕生しない前から、母親の妊娠がまた外に見えない頃から、うっかりすると母親が妊娠に気づかないうちから、子どもに悩みの顔があらわれることさえある。

 なぜか?
 赤ちゃんは生まれおちると、母の乳房にふれ、また両腕にいだかれ、全身の皮膚で母の愛を感じて育って愛の喜びにみたされているが、その母親が次の子どもを妊娠すると、上の子に乳房にふれられるのもいやになり、まつわりつかれるのもうとましくなって、つい、つい、自分で気がつかないうちに子どもを押しやる結果となってしまう。これが自然の摂理といおうか、次の子どもを生み育てるための準備であり、致し方のない行為であろうが、子どもにとっては青天のへきれきなのた。

 なんで今までどおり、皮膚に愛を感じさせてくれないのか、もう自分は愛されていないのではないのか、と、真剣に悩みはじめる。

 私は幼い子どもの顔にチラッとそれがみえてきたとき、お母さんによくきいてみる。
 「下のお子さんができましたか?」と。
 「先生! どうしてわかるんですか!」とおどろく人もいる。
 「そうなんですよ、急にうるさくなってつき離すと、しつっこくつきまとってくるんで、なんだか可愛いくなくなってにくらしくさえなってくるんです」という人もいる。
 そこで私は子どもにかわって小さい胸の中の苦しみ、なやみをお母さんにわかってもらうよう話すのである。
 「急につきはなさないでね、小さい可愛い赤ちゃんが生まれてくる話をしてあげてね。上の子どもさんにもそんな小さい可愛い時があったこともね、赤ちゃんが生まれて半年もたつと、だんだん赤ちゃんが可愛いくなって、気持がしずまってきますよ」と。

 またお父さんに、いよいよお父さんの出番がきたことも話す。今まで母と子だけで自分がとりのこされたような感をもっていた父親も、上の子のために自分の腕が、ひざが必要になってきたことを自覚してゆく。こうして、子どもの深刻ななやみが後遺症を残すことなく晴れるよう、まわりの大人たちが配慮してやるのである。

 後遺症といえば、こんな深刻な悲劇も生まれるのだ。
 昔の職場にそれはそれはへんくつにしっと心をあらわに出す人がいて、まわりのものは悩まされた。

 彼女は「絶対に私は結婚しない」と宣言していた。しばらくして打ちとけたとき話をきくと、三人姉妹のあとに弟が生まれ、しっとのあまり、その弟を湯舟の中に入れて殺してしまった、というのである。また幼いときであり、両親はわが子をせめることもできず、それ以来、ぷっつりと弟のことは口にしなくなり、一家はお互いに口に出せぬ悲しみにとざされてしまったという。

 この人は「母のことは思い出したくない」といって、お母さんの身につけていた衣類を私にどうしてももらってくれというのであった。

 私はおどろいた。私は、両親がつかっていたものはなにひとつなくしたくない、と思い、自分が買ったものはたとえ高価なものでも人に上げることもあるが、両親のものだけは大事に大事にしまっているので、友のそうした行為が理解できかねたのであった。

 私自身も、女の姉妹が五人、男の子は一人、という家族構成の一員であり、したがって姉妹は、父親の、男の子に対する偏愛に対し、ある時は共同戦線をはったこともあった。しかし母が賢明であったためか悲劇はおこらないですんだ。私の場合、四歳の時妹が二歳でなくなり、可愛い盛りであったためか、それまであまり子どもはひざにしなかった、という父が私をひざにする時がおおくなった直後、弟が生まれたため、急にひざからつきはなされたためであろうか、小さいときはまるで悲劇の女王のような顔をしていた、とよくいわれた。写真をみてもそれがうなずかれる。それだけに子どもの表情をよみとるのに敏感なのかも知れない。

 若い両親にはちょっとしたアドヴァイスが必要なのだ。ちょっとひとこと「子どもの気持を考えてあげてね」といっただけで、幼い子どもを明るく育てることができるものた。

 私の子どもも、海外から引揚げてきたときハシカで死にかけていたのを、母や姉たちの必死の看護で助けてもらったが、ちょうど二歳をすぎた頃であったため、なおった時は歩けなくなっていたので母や姉がよく抱いてくれた。私はやがて長女を出産した。すると姉はもう下の女の子に夢中になって誰の子どもだかわからないほどになってしまった。すると、上の子はわざと赤ん坊の口まねをしたり、せっかく立って歩くまでに回復したのにまたハイハイをしだしたりしたので、姉たちは笑ったりからかったりしたのであった。

 私は急に息子がふびんになり特別にかわいがるようにしたので、息子は私をとてもしたうようになり、私でなければねるのもおきるのもいや、といいだし、母などに「あんなにおばあちゃんがめんどうみたのに」などとさびしがられたこともあった。が、しばらくたてばまことに仲良い兄妹となり、私が仕事に出ている間は母と留守番をする子に育っていった。

 またある子どもは、五歳になってから下の子が生まれたため、その荒れ方もひどく、保育園の年長時代、一時、女番長のようなときがあったが、二十年たってその母親と会ったとき、新婚早早であるのに、その妹がノイローゼ気味になった時、医者通いに便利だからといって同居させてくれた、といってそのやさしさを私に告げた。

 これとは逆に、男兄弟のあとの一人娘として生まれ、あまりにも大事に大事にかわいがられ、いつでも自分は女王のように兄たちにもかしずかせて育った人がいた。

 この人は成人後も女王のように扱われないと承知ができず、結婚後も姑とおり合いが悪くとび出し、職についても下積みの仕事はきらい、上にならないと長つづきせず、友だちの中に自分よりすぐれているものがいると、猛然と敵意をあらわし、周囲の男性たちを自分にかしずかせずには気がすまない人であった。

 男性が独身者ならまだしもだが、友人の夫であってもあそびにさそい、それがひとりやふたりではなく、さまざまな事件をひきおこしていたが、ついに女王の夢が破れたときは狂言自殺をくわだてる、という状態になってしまった。小さい時のしっとなら直しやすいが、こう成人したあとでは身の破滅にまでいってしまうのである。

 ある時、私のところに二人の幼い兄弟をつれて子育ての相談にきた人がいた。下の子どもがあまりにも乱暴で、ある園を退園させられた、というのである。

 私はしばらく母親と話をしながら、二人の兄弟があそぶ姿を観察してみた。

 すると上の子がチョクチョク弟の手をつねったりしていじめるのである。すると弟はすぐ大声で泣いて母親をよぶ。母親はわけもきかず、その子をいとおしがり、上の子をおこるのである。そこで私は母親にたずねた。

 「お母さん、お兄さんの方はあまり可愛いがられていないようですね」と。
 するとお母さんは、
 「先生! わかりますか! 実は、あの子が小さいとき、私はからだをこわし、一時あの子を里子に出したんです。そのためかどうしてもあの子が可愛いくないんです。下の子はもう可愛いくて可愛いくて、お兄ちゃんの方はむしろにくらしくて、自分でもこの感情をどうすることもできないんです」
と正直にいってくれた。そこで私は、
「お兄さんはあなたのその感情のためにふしあわせで、可愛いがられている弟さんをちょっちょっといじめているんですね。また弟さんの方は自分がうったえればすぐあなたが味方をしてくれるのを知っていてわざと大きく泣いてあなたをよんでいるんだけど、このままではお兄さんもひねくれるけど、弟さんの方もわがままになって、あとであなたが苦労するようになるかもしれませんよ」

 と話すと、母親は涙をハラハラとこぼし、一生懸命自分の感情を克服して、お兄さんの方もかわいく思うように努力してみます、といってくれた。そしてその後しばらくお母さんは子どもと一緒に私たちの園に通って、手伝ってくれることになった。

 その結果、お母さんは大勢の子どもたちの世話をすることから狭い気持はふきとんで、どんな子どもでも平等に愛してゆけるようになり、今では二人とも立派に成人し、お母さんのご自慢の、やさしくて働きものの青年になっている。

 こんな事例をみると、幼いとき、しっとの感情がおきるのはあたりまえの子どもたちも、大人が公平にどの子どもにも愛情をかけてやれば、自分だけで両親や祖父母、先生たちの愛を独占できないこと、みんなで愛をわかち合わなければいけないことを経験し、そういう子どもは長じて平穏な社会生活ができるが、そうでないものは大きくなってから不幸である、ということがわかる。

 したがって、幼いとき家庭の中だけで育ち、しかも兄弟の数が少ない、せいぜい二人くらいの数である昨今の子どもは、学校という社会に出た時に大きなつまずきが生じ、不幸につながりかねない。

 そのためなるべく幼いときから集団生活を味あわせ、大人も差別することなくみんなを可愛いがる必要があることは当然のことだが、子どもたちにも愛をわけることを経験させることが大切だと思うのである。
(斉藤公子著「子育て」労働旬報社 p219-226)

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赤ちゃんを抱くことの意味

 「抱く」ことは人間の母親の最も普遍的・基本的な育児行為のひとつです。逆に、「抱かれる」姿勢は赤ちゃんの基本姿勢のひとつであるということになります。

 しかし、一方に私たちに伝えられた育児規範のなかには「抱きぐせ」の戒めもあります。「抱きぐせ」をおそれて、赤ちゃんはベッドに寝かせっぱなしというお母さんもいます。すると最近は、それも問題があるといわれるようになりました。

 いったい、「抱く」ことと赤ちゃんの成長にはどんな関係があるのでしょうか。

 まず、赤ちゃんを母親が抱くのはどんなばあいでしょうか。第一には授乳のためです。第二には、赤ちゃんの位置を変える──移動のためです。それから、赤ちゃんが泣いているとき、きげんのわるいとき、とりあえず抱きあげるということがあります。さらには、とくになんの目的があるというわけではないけれど、抱いてぶらぶら、ということもあります。

 お乳を飲ませるとき、どこかへ連れていくときに抱くのは、いわば生理的、物理的必要からそうせざるをえないわけですが、泣いている赤ちゃんをとりあえず抱きあげると、赤ちゃんが泣きやむというばあいについては、「抱く」ことが赤ちゃんにたいしてもっている独特の意味を考えなければならないようです。

抱かれると泣きやむ

 そこで、考えられるのがお乳を飲むことの満足と抱かれる姿勢との結びつきです。

 哺乳のとき、赤ちゃんはまず抱っこしてもらえます。抱っこは哺乳のための準備姿勢です。また、お乳をのみ終えた後、しばらくは抱っこの姿勢が続きます(育児書では、ゲップを出すために、すぐに寝かせてはいけないと書いてあります。それだけでなく、哺乳後の赤ちゃんは、いろいろな表情をみせてくれるので、顔を見ているのが楽しいのです)。

 だから、赤ちゃんにとって、空腹の不快感をなくしてくれる授乳に先立って与えられる刺激が抱っこであり、おなかがいっぱいになって、気持ちのよい状態のときにも抱っこの姿勢、こうして抱っこの姿勢自体が快いものになり、不機嫌なときもまず抱いてもらえば機嫌がなおるのだというふうに考えられます。

 ところが、そうではなく、赤ちゃんが抱かれると泣きやむのは、人間という種に特有の生得的な傾向なのだという考え方もあります。

 教育心理学研究者・水上啓子氏は、生後四三時間から七五時間までの、まだ抱かれて授乳された経験をもたない新生児一六人に「実験」を試み、泣いている赤ちゃんを抱くことによって、「泣きの停止」がみられることを確かめました(一人四回ずつ計六四回抱き、うち五〇回は赤ちゃんが泣きやみ、七八パーセントの「泣きの停止」生起率)(「「抱き」と言う養育行動に関する一試論」「教育心理学研究」第二九巻、第三号、一九八一年九月)。

 すなわち、抱きあげると泣きやむのは、授乳とは無関係に起こりうることだということになります。

 水上氏の実験では、さらに次のようなことが示されています。抱きあげられた赤ちゃんは、泣きやみ、その上に眼を開き、「視覚的覚醒」の状態になったということです。「視覚的覚醒」とは「眼球が輝いており、あたかも凝視しているかのように見える状態」で、物をよく見ることのできる状態ということになります(一六人六四試行申四六回七二パーセント)。

生活空間を広げる役割を

 抱かれるという姿勢の変化(平衡感覚器官への働きかけ)は赤ちゃんの外界認知をよりよく可能にするような条件をつくりだす、とくに抱いてくれる「ヒト」への認知を効果的にする役割が大きいのではないかという仮説が右の実験からひきだされています。

 いずれにしても、運動機能の発達が感覚の発達にくらべておそい人間の赤ちゃんは、さまざまな感覚刺激に触れる機会をえ、生活空間を広げるためには、おとなが抱いて移動することによってまわりの環境を変化させてやる必要があります。

また、抱いているときの赤ちゃんとの距離の近さによって、赤ちゃんの目の動き、顔やからだの向き、さまざまな状況への反応などを、しっかりとらえることができます。それは母親が赤ちゃんへの適切な働きかけをするためにはとても必要なことです。
(清水民子著「子どもの発達と母親」新日本新書 p40-43)

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 なぜこのように幼い子どもが悩むのか?
 なんのために?
「愛」を求めてである。