学習通信061204
◎新化学体! 魅惑的な……
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潮流
元素の名前のつけ方には、いくつかの形があります。人名や地名にちなむ、色やにおいに由来する、天体の名前による、などです
▼キュリウムは、「キュリー夫人」で親しまれるマリー・キュリーから。金は、金色から。ウランは、天王星(ウラノス)から。いちばん多いのが、地名です。ゲルマニウムは、ドイツのラテン名ゲルマニアからきています
▼ポロニウムも、地名がもとです。ポーランドのラテン名ポロニア。マリー・キュリーと夫ピエールが、発見しました。鉱石の放射能を測っていて、ウランやトリウムよりつよい放射能を出す元素がある、と気づきます。探しあてたのは一八九八年。ポーランドは、マリーの故国でした
▼ポロニウムは、ウラン鉱石の中で天然に存在している金属です。人間が体の中にとりこむと、危ない。第二次大戦中のアメリカで、原爆を開発するマンハッタン計画に従事していた作業員が、放射線障害をうける事故にあっています
▼イギリスに亡命していたロシア連邦保安庁の元中佐アレクサンドル・リトビネンコ氏が死亡し、体内からポロニウムが検出された、といいます。ホテルや立ち寄ったすしバーからも、みつかったそうです
▼マリー・キュリーがあえてポロニウムと名づけたのには、理由がありました。当時、故国は帝政ロシアに支配されていて、マリーは独立運動に深い関心を抱いていました。のちにロシアは、帝政からソ連、そしてソ連崩壊後へ。ロシア人の元中佐になにが起こったのでしょう。
(しんぶん赤旗 20061129)
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レントゲンによってX線が発見されたのち、アンリ・ポアンカレは、X線に似た光線が、光の刺激を受けた螢光体からも発することがないかどうかを調べてみようとした。アンリ・ベックレルもこれと同じ問題に興味をひかれて、ウランという《希少金属》の塩を調べた。
しかるに彼は予想した現象を発見するかわりに、まったく違った、不可解な、べつの現象を観察した。すなわちウラン塩は、あらかじめ光の刺激を与えなくとも、自発的に、未知の性質の光線を放射する。ウラン北合物を黒い紙で巻いた写真の乾板の上に置くと、それは紙を通して乾板に感光させるのである。のみならず、X線と同じく、これらの不思議なウラニウム線は、周囲の空気を伝導体にすることによって荷電した験電器を放電した。
アンリ・ベックレルは、これらの特徴は、日光にさらすことを前提としないこと、ウラン化合物がやみのなかに長時間おかれていても、依然としてその現象が存続することを確かめた。彼はのちにマリー・キュリーが放射能という名称を与えたところの現象を発見したのである。しかしこの放射の原因は依然としてなぞのままであった。
ベックレル線はキュリー夫妻の好奇心を最高度に刺激したのであった。ウラン化合物が、放射の様態のもとに不断に発散するこのエネルギーは、たとえ徴少なものであるにしても、いったいなにに由来するものであろうか。またこれらの放射の性質はいかなるものであろうか。これこそすばらしい研究題目ではないか。仔細の博士論文の題目ではないか。この主題は、なんびともまだ手をつけたことのない探究の分野に属しているだけに、いっそうマリーの野心をかきたてたのであった。
ベックレルの研究は最近のものであり、かつまた、彼女の知るかぎりでは、ヨーロッパのどの研究所でも、まだなんびともウラニウム線の研究を深めてはいなかった。出発点として、またあらゆる文献としてアンリ・ベックレルによって一八九六年に科学学士院に提出された報告が存在するだけであった。未知の領域に、まっしぐらに突入することはなんという心のおどることであろう。
いまやマリーにとっては、彼女の実験を進めていくことのできる場所を見つけさえすればよかった。──だがそのことがまず第一に困難であった。そのためにピエールが物理学校の校長にたいしていろいろと奔走してくれたが、けっきょく、校舎の一階にあるガラス戸をめぐらした仕事場をマリーが自由に使ってもよいという、あまりかんばしい結果ではないが、そこまでこぎつけることができた。それはいままで倉庫や器械室に使われていた、湿気の多い、いろんなものを雑然と詰め込んだ納屋であった。ごく幼稚な技術的の設備はあったが、安楽設備にいたってはゼロであった。
マリーはしかし落胆はしなかった。じゅうぶんな電気設備や、基礎的な科学的研究に必要な器具はなに一つなかったが、彼女はこのむさ苦しい部屋の中で器械を運転させる手段を発見したのであった。
それはしかし容易なことではなかった。精密器械にとっては湿気と気温の変化は油断のならない敵であった。この小さな仕事場の気候は、敏感な電流計にたいして致命的であるのみならず、マリーの健康にたいしてけっして好ましいものではなかった。……しかし、そんなことどうだっていいじゃないか! ひどく寒いときには、彼女は、摂氏寒暖計の示す温度を手帳に書きとめることによって、わずかにうさを晴らした。一八九八年二月六日のところには、われわれはたくさんの公式や数字のあいだに《水銀柱の温度六・二五度》という記入を発見することができる。
六度とはまったく低すぎるではないか。マリーも自分の腹だたしさを強調するかのように、その次に小さな感嘆符を十本も引いている。
博士号の獲得を志した彼女がまず第一に心をもちいたことは、ウラニウム線の《イオン化力》──すなわち、空気を電気の伝導体たらしめ、荷電した験電器を放電するウラニウム線の力を計量することであった。彼女が使用した優秀な方法──この方法こそ彼女の実験の成功のかぎとなるものであるが──は、彼女がよく知っているふたりの物理学者ピエールとジャックのキュリー兄弟によって、ほかの現象を研究するために、かつて発明された方法であった。すなわちマリーに使用された装置は、《電離箱》とキュリー式電気計とピエゾ電気計とから成り立っていた。
数週間後にマリーの得た確実な事実は、この不思議な放射の密度は、検討の対象となっている標本の中に含まれているウラニウムの量に比例していること、ならびに、精密に計量されることの可能なこの放射は、ウラニウムの化学的化合物の状態にも、または《照らすこと》ないしは気温のような外的な事情にも影響されないということであった。
これはわれわれしろうとにとってはほとんどとるにたらない検証のように思えるが、学者にとっては、非常に魅力のある証明であった。物理学においては、説明の不可能な現象でも、簡単な研究の結果、すでに知られている法則に結びつけられることができ、そのために、研究者の興味をただちに失わしめるようなばあいが非常に多いのである。
たとえば、へたくそな探偵小説で、たしかに犯罪を犯したように思われるいわくありげな婦人が、じつは、かたぎの女性であって、秘密のない生活を送っていることを第三章にきて聞かされるとれれわれはすっかり気がぬけてしまって、先を読み続けることをそれっきりやめてしまうものである。
ところが今度のばあいはまったくそうではなかった。マリーがウラニウム線の本性を追求すれば追求するほど、それらが未知の元素を含んだ、異常なものに見えだしたのである。それらはいかなるものにも似ておらず、またいかなるものにも影響されていない。それらはきわめて微弱な力しかもっていないが、異常な《性格》を帯びている。
真理をめざす頭のなかで、この神秘を繰り返し繰り返し吟味して、マリーは、この不可解な放射作用には原子の特性のあることを予想し、やがてそれを確証することができるのである。彼女はみずからに一つの疑問を発してみた。すなわちこの現象はたんにウラニウムにたいしてのみ認められるものであるが、しかしウラニウムがこのような現象を引き起こす唯一の化学的元素であるとは、なにものも証明していないではないか。ほかの物体にも同一の力が含まれていないわけがどうしてあろう。これらの線が最初にウラニウムの中に発見されたのはおそらく偶然によるものであって、物理学者の頭のなかで両者を結びつけてしまったのである。それゆえこれからなすべきことは、ほかの場所において、これらの線をさがすことである。
こんなふうに考えると、彼女はさっそくそれを実験に移した。ウラニウムの研究を捨てて、マリーは既知のあらゆる化学的物体の吟味にとりかかった。結果はただちに現われた。ほかの物体トリウムの化合物もまた同じく、ウラニウム線と同様な、類似の強度をもった自発的な線を放射することがわかった。すなわち彼女は、この現象はけっしてウラニウムのみの占有物ではなく、それに特別の名称を与える必要があることをはっきりと知ったのである。キュリー夫人は放射能という名称を提案した。したがってこの特殊な《射光》をもっているウラニウムとかトリウムという物体は、放射性元素と呼ばれることになった。
放射能の問題にかぎりなく興味をそそられた彼女は、──つねに同一の方法をもって疲れることを知らずに、ありうるかぎりの多様な物質の研究を始めた。学者にとって第一の力ともいうべき好奇心、女性的な驚嘆すべき好奇心をマリーは最高度にもっていたのだ! 彼女は、観察を、塩とか酸化物のような単純な化合物にかぎらずに、物理学校に備えられた鉱物の収集品を材料として、各種の標本をいわば税関の検査のようなぐあいに、手当たりしだいに、おもしろ半分に、電流計の試験台にしたいとふと思いついた。ピエールはその思いつきに賛成し、彼女とともに、硬軟さまざまの、不規則な形態をした木目のある断片を選び、それを彼女は吟味することになった。
マリーの見解は、天才の発見がそうであるようにしごく簡単であった。いまキュリー夫人が身をおいている研究のいわば《一休みの段階》においては、数か月も、おそらく数か年も《停止状態》を続けるような研究者が何百人といることであろう。そういう人たちは、──マリーがなしたように──既知の化学体をいちいち吟味して、トリウムの放射作用を発見しても、この神秘な放射能はいかなるものから生じるかということをいたずらに自問自答し続けるにすぎないだろう。もちろん、マリーもまたみずからに向かって疑問を発し、奇異の念をいだくには相違ない。だが、彼女の驚きは多産な行為となって現われる。彼女は明りょうなばあいをきわめつくすと、こんどははかりえないもの、未知のもののほうに振り向いた。
彼女は鉱物を吟味するとどういうことがわかるかをあらかじめ知っていた。というよりも知っていると思っていた。すなわち、ウラニウムやトリウムを含んでいない標本は、全然《不活性》であることがやがて明らかにされたし、また、ウラニウムやトリウムを含んでいるものは放射能をもっていることが明らかにされることになる。
事実がこれらの予測があたっていることを確証した。そこでマリーは、不活性な鉱物を捨てて、それ以外のものに没頭し、それらのもののもつ放射能を測定したのである。この結果、意外にもこの放射能は、吟味の対象となっている処理物の中に含まれるウラニウムやトリウムの量に基づいてふつうに人が予知しうる放射能よりも、はるかに、いっそう強烈であることが明らかにされたのだ!
──これは実験の誤りにちがいない……と、彼女は考えた──なぜなら、予期しない現象に接したばあいには、疑いを起こすことが、学者の第一になすべき反応だからである。
マリーは冷静に、同一の処理物を使って再び計量を始めた。彼女は十度も二十度もそれを繰り返した。その結果彼女は、鉱物の中に見いだされるウラニウムやトリウムの量は、彼女が観察する放射作用の異常な強さを証明するのに全然ふじゅうぶんであるという明りょうな事実に承服せざるをえないのであった。
それでは、この過度の、異常な放射能はなにから生じるのであろうか。それには、それらの鉱物はウラニウムやトリウムよりもはるかに強烈な放射能をもつ物質を微量に含んでいるにちがいないという唯一の説明だけが可能であった。
しかし、それはどんな物質であろうか。マリーはこれまでの実験によって、あらゆる既知の化学的元素をすでに吟味したのではなかったか。
彼女はこの疑問にたいして、偉大な頭脳の所有者のもつ確信と、みごとな大胆さをもって答えた。彼女は、それらの鉱物にはたしかに放射能を有する物質が含まれていること、同時に、その物質は今日まで知られていない化学的元素──新化学体であるという大胆な仮説を表明したのである。
新化学体! 魅惑的な、誘惑的な仮説ではないか……だが、仮説であることにはかわりがない。現在までのところでは、強烈な放射能をもつ物質はマリーとピエールの想像のなかにしか存在していないのであるが、しかし、そのなかには確実に存在していた。ある日マリ一は、ブローニャに向かって、控え目ながら、熱意にあふれる声で次のように話している。
──ねえ、わかる? わたしにはまだ説明がつかないんだけど、この放射作用は、いままでだれも知らない化学元素からきているのよ。元素はきっとあるんだから、それを見つけさえすればいいんだわ。わたしたちには自信があるのよ。わたしたちの話を聞いた先生たちは、それは実験のまちがいだから、もっと慎重にやりなさいと忠告してくれるんだけれど、わたしはきっとまちがっていないと思うわ。
唯一無二の生涯における、唯一無二の瞬間であった。わたくしたちしろうとは、研究家とその発見について小説的な想像を描きやすいが、それは全然事実に反している。《発見の瞬間》はかならずしもつねに存在するとはかぎらないのだ。学者の仕事というものは、その困難な過程において、成功の確実さが不意に火花のようにひらめき、その火をもって彼の心を奪うには、あまりに微妙すぎるのだ。彼女も、器械の前に立っているときには、おそらく勝利の急激な陶酔を感じたことはあるまい。そのような陶酔は、壮大な希望に熱中している生命をかけた辛苦の数日の上にまたがっているのだ。
けれども、彼女の頭脳の厳密な推理力によって、未知の物質を追求していたマリーが、その秘密を肉親の姉に打ち明けた瞬間は、さだめし興奮に息のつまるような瞬間であったにちがいない。どのような感動的なことばもかわされはしなかったけれど、ふたりの姉妹は、胸がせまるような追憶の発作のなかに、希望と期待の年月を、相互の犠牲を、夢と信仰に満ちあふれていた彼女たちの困難な学生時代を、再び心のなかで生きたにちがいなかった。
わずか四年前にマリーは次のように書いていた。
人生はわたくしたちのどちらにとっても容易ではない。しかしそんなことがなんであろう。不屈の精神と、とりわけ自己にたいする信頼をもたなければならない。われわれがなにものかを天から与えられていること、かつ、このなにものかにぜひとも到達しなければならないことを信じなければならない。
この《なにものか》とは、科学をして前人未踏の道を歩ませることであった。
リップマン教授によって学士院に通告され、一八九八年四月十二日の例会において発表された報告によれば、《マリー・スクロドフスカ=キュリー》はレキセイウラン鉱の中に、強力な放射能をもった新化学体が存在することの可能性を予告している。
……二個のウラニウム鉱石、すなわちレキセイウラン鉱(酸化ウラン)とシャルコリット(りん酸銅とウラニウムりん酸)はウラニウムそのものよりもはるかに活動的である。この事実はきわめて注目すべきものであって、これらの鉱石が、ウラニウムよりはるかに活動的な元素を含有しうることを、信ぜしむる理由になろう……
以上がラジウム発見への第一歩であった。
彼女の直観力によって、マリーは未知の物質がかならず存在するにちがいないことが自分自身にははっきりしたのである。彼女はその存在をもう決めてしまった。だが、これからそのものの仮面をはがねばならない。仮説を実験によって検証し、その物質を単離しなければならない。《その物質はここにある。わたしはそれを見た》ということを公表しえなければならない。
ピエール・キュリーは妻の実験の急速な進歩を熱心な興味をもって観察した。直接に仕事には関係しなかったが、彼はたえず注意と助言を与えてマリーを援助した。そうして得られた結果が思いがけない性質を帯びていることを知ったとき、彼は結晶体に関する自分の研究を一時放棄して、新しい物質をつかまえるためにマリーと協力することを決心したのであった。
こうして、さし迫った事業の広大さが、協力を暗示し要求したとき、ひとりの偉大なる物理学者がこの女物理学者のかたわらに現われた。それは彼女の人生の道づれとなる一物理学者であった。
すでに三年前に、愛情がこの希有な男性と女性を結びつけていたのだ。愛情といおうか、おそらくは神秘な予感であり、ともにチームをつくろうとする的確な本能であった。
戦いの力はいまや倍加された。ローモン街のじめじめとした狭い仕事場では、二つの頭脳と、四つの手が未知の化学体を探求するのである。これからさきはキュリー夫妻の仕事のなかで、各人の部分を区別することは不可能であろう。いうまでもなく論文の題目にウラニウム線の研究を選び、またほかの物質にも放射能のあることを発見したのはマリーであった。鉱物を順次に吟味した結果、強力な放射能をもつ新しい化学元素の存在を予告することができたのも彼女であり、またその結果の重大性がピエール・キュリーをして新元素を単離させる仕事に従事するために、彼自身の全然別個の研究を中断させたこともわれわれは知っている。だがいまや──一八九八年五月ないし六月──今後八年も続くような、そして思わぬ事件によって残酷に破壊されてしまう協同の努力が始まろうとするのである。
この八年間の仕事において、どの部分がマリーに属するのか、またどの部分がピエールに属するかをわれわれはせんさくすることができないし、またせんさくすべきでもないであろう。そのようなことはこの夫妻の望むところではあるまい。ピエール・キュリー一個の天才は、この協力事業以前の彼の独創的な業績によって知られるし、彼の妻の天才は、この発見を最初に直観したこと、この驚くべき研究に第一歩を踏み出したことによってわれわれに明らかである。彼女の天才はさらに、のちに夫を失ってからも、新しい科学の重荷を屈せずにない続け、探究に探究を重ねて、それを調和のとれた開花にまで導いたことによって、再び単独にわれわれの目に示されるであろう。それゆえわれわれは、一個の男性と女性との、このみごとな協同事業においては、相互のあずかった部分が平等であったことを示す明確な証拠をもつものである。
このような確実さがわれわれの好奇心と賛仰とを満足させてくれることを祈りたい。われわれはもはや愛情に満ちたこのふたりを区別しないことにしようではないか。数式におおわれた彼らの研究ノートの各ページにはふたりの手跡が交互に入りまじっているし、彼らが公にするほとんどあらゆる学術論文にはつねに両人が並んで署名して、彼らはまたくわれわれが発見した……。われわれが観察した》というふうに書いている。ときとして彼らの分担した役割を明確にする必要に迫られるばあいには、彼らは次のような感動すべき形式を採用している。
ウラニウムとトリウムを含有している若干の鉱石(レキセイウラン鉱、シャルコリット、ウラナイト)はベックレル線の放射という見地からすればきわめて活動的である。この前の研究において、われわれのひとりは、それらの活動性はウラニウムやトリウムの活動性よりもいっそう強大ですらあることを示し、また、この効果は、これらの鉱石の中に微量に含有されているきわめて活動的なあるほかの物質に基づくものであるとの意見を述べた……(ピエールおよびマリー・キュリー、一八九八年七月十八日付研究報告)
キュリー夫妻はウラン鉱物に属する一鉱石、ピッチブレンド(レキセイウラン鉱)の中に含まれている《非常に活性ある物質》を探究した。生地の状態においては、ピッチブレンドは、その中に含まれた純粋な酸化ウランよりも四倍も放射能をもつことが明らかにされた。しかしこの鉱石の構造はかなり精密なところまで知られている……。それゆえ、新元素が今日まで学者たちの注意から、厳密にいえば化学分析からもれていることを考えれば、その新元素は、きわめて微量にしかその中に含まれていないとしなければならない。
夫妻の計算によれば──それは、真の物理学者の計算がそうであるように《悲観的》な計算であり、また彼らは二つの確からしさがあれば、いっそう意にかなわないほうをつねに採用したが──この鉱石は最大限度、百分の一の新しい物質を含有しているはずであった。彼らはそれがきわめて微量であることは知っていた……。がしかし、その未知の放射性元素が、ピッチブレンドの中には、百万分の一も含まれていないことを知ったならば、彼らの驚きはいかばかりであったろ。
彼らは根気よく、彼らの創意にかかる方法を用いて、放射能に関する探究を開始した。すなわち彼らは一般的な化学分析の方法によって、ピッチブレンドを構成しているあらゆる化学体を分離し、次いで、得られた生成物の各自の放射能を計量した。続いて彼らは、連続的な除去法により、《異常な》放射能が、鉱石に含まれた若干の部分の中にしだいに追い込まれていくのを知った。彼らの仕事がはかどっていくにつれ、探究の範囲がますますせばまっていった。それはまさに、警察官が一区画内の家屋をしらみつぶしに捜索して、悪漢の足どりを追跡し、それを捕縛する、あの技術を思わせた。
だが、このばあいにあっては、悪漢はひとりだけではなかった。放射能はとくにピッチブレンドの中に含まれた二個の化学的部分の中に集中されていた。キュリー夫妻にとっては、それは二個の別個の新化学体の存在を示すものであった。一八九八年七月には、彼らはその二個の実体のうち一つを発見したことを公表できるまでにこぎつけた。
──おまえさんが《それ》に名をつけてやりなさい。と、ピエールは若い妻に言った。
彼女は一瞬間じっと考えこんだ。ついで昔のスクロドフスカ嬢に返った彼女の心は、世界地図から削除されている彼女の祖国に向かって矢のように飛んだのである。彼女は、この科学的事件がロシアにもドイツにもオーストリアにも──圧制に苦しむ祖国の同胞にも──伝えられるであろうと、おぼろげながら考えた。そうして彼女はおずおずと次のように答えたのだった。
──《ポロニウム》という名をつけたらどうかしら。
一八九八年七月の《研究報告》には次のようにしるされている。
……われわれがピッチブレッドから単離した物質は、その特性を分析すればビスマスに近いが、まだなんびとによっても指摘されていない金属を含有していることを信じる。もしこの新金属の存在が確かめられたばあいには、われわれは、われわれのうちのひとりの出生国の名をとって、それをポロニウムと名づけたい。
このような名称を選んだという事実は、フランスに帰化し、一個の物理学者となってからも、マリーが青春時代の熱情を放棄しなかったことを示すものである。それだけではない。科学学士院に提出する覚え書き《ピッチブレンドの中に含まれた放射性物質について》が《研究報告》に発表される以前に、マリーはその原稿を、故国にあってかつて彼女が最初の実験を試みたことのある農工業博物館付属研究所を主宰しているジョゼフ・ボグスキーに送っている。その通知は、パリにおけるとほとんど同時にワルソーにおいても、『スヴィアトロ』という《月刊写真画報》に発表された。
(エーヴ・キュリー著「キュリー夫人伝」白水社 p136-143)
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◎「……われわれがピッチブレッドから単離した物質は、その特性を分析すればビスマスに近いが、まだなんびとによっても指摘されていない金属を含有している……もしこの新金属の存在が確かめられたばあいには、われわれは、われわれのうちのひとりの出生国の名をとって、それをポロニウムと名づけたい」と。