学習通信061205
◎労働者たちがこの新しい社会秩序を……
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エンゲルスも後年の未来社会論では人間的発達を重視
なお、若干補足的なテーマになりますが、この講義を準備するなかで、あらためて気がついたことがありました。エンゲルスの未来社会論にも、いま見たマルクスの展開に対応する発展があるという問題です。
エンゲルスの未来社会論というと、だれでもすぐ頭に浮かぶのは、『空想から科学へ』の叙述です。人間が、「人間をとりまく生活条件の全範囲」が「人間の支配と統御のもとにはいる」ようになり、「自分自身の社会化の主人」になり、そのことによって「自然にたいする意識的な、真の主人」になる──未来社会の新しい発展についての叙述が名文で続き、「それは、必然の日から自由の国への人間の飛躍である」という文章で結ばれます。ここでは、マルクスがあれだけ重視した、人間の能力の全面的発達の問題には、まったく触れられていませんでした。
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(注)エンゲルスの「二つの国」論の特徴
ここで、エンゲルスは、「必然性の国」、「自由の国」と、マルクスが使ったのと同じ用語を使っていますが、その中身はまったく違っています。自然や社会で作用している法則を、人間が認識し、これを自分の目的のために作用させることができるようになることを、エンゲルスは「自由」といっているのです。
二つの「国」の関係も、社会の発展とともに、その社会の性格が「必然性の国」から「自由の国」に飛躍してゆく、というものですが、マルクスの場合には、二つの「国」は、時間的にも同じ社会での、人間の活動の二つの部分を表しているわけで、この点でも、まったく性格が違っています。
ここでの「必然性」と「自由」という考え方は、『反デューリング論』(一八七六〜七八年)の第一篇第一一章「道徳と法。自由と必然性」のところで原理的に説明されています。「彼〔ヘーゲル〕にとっては、自由とは必然性の洞察である」。
「自由のなかみは、……自然必然性の認識にもとづいて、われわれ自身と外的自然とを支配する、ということである」。
『空想から科学へ』は、もともと、『反デューリング論』からいくつかの章を抜き出し、フランスの労働者のための科学的社会主義人門として編集したものですから、もともとの『反デューリング論』では、「自由」と「必然性」の原理的な説明をすませたあとで、その考え方を使った未来社会の説明がでてくるという順序になっていました。
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『空想から科学へ』およびその原本である『反デューリング論』の執筆の状況を考えてみますと、エンゲルスがそのさいもっとも力を入れたのは、マルクスの『資本論』の内容を労働者たちにわかりやすく解説し、その思想を広めることでした。しかし、その時、エンゲルスが読んでいたのは、『資本論』の第一部だけでした。さきの「自由の国」論を含む『資木論』第三部の草稿は、すでに書き上げられていましたが、エンゲルスはその内容を知りませんでした。
マルクスの死後、エンゲルスは、『資本論』の残された草稿の編集にとりかかり、一八八五年に第二部を出版、統いて第三部の編集にかかりました。この編集は難航して、結局、一八九四年末に刊行ということになるのですが、第三部の編集の途中にエンゲルスが書いた未来社会論があるのです。
それは何かというと、マルクスの「賃労働と資本」──ドイツ革命のさなかに『新ライン新聞』に連載した、まだ剰余価値学説に到達する以前の古い論文(一八四九年)ですが、一八九一年、エンゲルスが新版を単行本で出すことを計画し、その『賃労働と資本』(一八九一年版)のために書いた「序論」です。
この「序論」の最後の部分で、エンゲルスは、賃労働の制度そのものがとりのぞかれた「新しい社会秩序」のあらましを描きだします。その叙述が、『空想から科学へ』での未来社会論とは、ずいぶん様子が違っているのです。巨大な生産諸力の計画的な利用と発達、すべての社会構成員の平等の労働義務、だれもが生活の諸手段を均等にますます豊かに自由にできることなど、新しい社会の仕組みをのべるとともに、そこで展開される人間の生活を、次の三つの面から大きく特徴づけていました。
──「生活」(おそらく、衣食住をふくむ基本的な生活そのものを指しているのでしょう)。
──「生活の享受」(レジャーをふくめ、生活を楽しむこと)。
──「あらゆる肉体的および精神的能力の育成と発揮」。
ここでとくにきわだっているのは、未来社会での人間生活の三つの側面、三つの要素を押し出し、なかでも人間の能力の全面的な発達という問題が、大きな比重をもって位置づけられていることです。『空想から科学へ』での未来社会論とも対比しながら、『資本論』第三部でマルクスが展開した「自由の国」論との接点を深く感じたものでした。
(不破哲三著「党綱領の理論上の突破点について」日本共産党中央委員会出版局 p131-134)
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だが、これらのますますはやく、たがいにおしのけあう発明や発見、この前代未聞の程度で日に日に高まってゆく人間労働の生産性は、ついには、今日の資本主義社会がそのために没落せざるをえなくなる一つの衝突をつくりだす。
一方では、はかりしれない富と、買い手たちがさばくことのできない生産物の過剰とをつくりだす。
他方では、社会の大衆がプロレタリア化し、賃労働者に変わり、まさにそれゆえにかの過剰生産物をわがものにすることができなくなる。
少数のきわめて富んだ階級と、大多数のなにももたない賃労働者階級とに、社会が分裂した結果、この社会は、それ自身の過剰な生産物のうちに窒息しながら、他方、その成員の大多数が、ほとんどあるいはけっして、極端な欠乏にたいして保護されてはいないという状態になっている。
この状態は、日ごとにますます不合理なものとなり、そして──ますます無用なものとなる。それはとりのぞかれなければならないし、またとりのぞかれうる。
一つの新しい社会秩序、すなわち、そこでは今日の階級差別がきえうせており、またそこでは──おそらくあるみじかい、いくらか不足がちの、しかしおそらく道徳的にはきわめて有益な過渡期ののちに──社会のすべての成員がすでに手にしている巨大な生産諸力の計画的な利用と発達とによって、平等な労働義務のもとで、生活のための、生活の享受のための、あらゆる肉体的および精神的能力の育成と発揮のための諸手段が、均等に、かつますます豊富に、自由になるところの、一つの新しい社会秩序が可能である。
そして、労働者たちがこの新しい社会秩序をたたかいとろうとますます決意していること、このことについては、大洋の両岸で明五月一日および五月三日の日曜日が証明するであろう。
ロンドン、一八九一年四月三〇日
フリードリヒ・エンゲルス
(マルクス著「賃労働と資本 エンゲルスの序論 p26-27)
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◎「とくにきわだっているのは、未来社会での人間生活の三つの側面、三つの要素を押し出し、なかでも人間の能力の全面的な発達という問題が、大きな比重をもって位置づけられている」と。