学習通信061207
◎つねに可能性が……

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レーダー
「クローズアップ現代」
都内で進学校選択制リアルに
格差が拡大、公教育の崩壊も

 「町が沈む感じ」。住民の声は、切実さを帯びていました。都内で広がる学校選択制の波紋を報じたNHK「クローズアップ現代〜学校が消える?」(一一月22日放送)。学校選択制の行きつく果てをリアルに見せてくれました。

 天と地≠フ差です。冒頭の「沈む町」は地元の小学校がなくなった東京都板橋区のある地域。二年前、入学者数が二人に落ちこみ、昨年ついに閉校になりました。子どもの姿が消え、がらんとした通りや学校跡がその後を物語っています。住民アンケートには不審者が増えたとありました。

 一方、生徒が雪だるま式に集まっている学校も。東京都荒川区の場合、明暗を分けた要因は、学カテストの成績公表です。四年連続トップの中学に入学希望者が殺到し、生徒数は二百人以上増加。ずらりと並んだトロフィーが、ブランド力≠象徴しています。

 東京の自治体が、学校選択制を導入し始めたのは六年前。競争原理で画一的でない特色ある学校づくりをめざす、というのが大義名分でしたが、実態は悲惨なまでの公立学校つぶしでした。

 番組では小規模校の強みを生かす取り組みも紹介されました。しかし、その努力も「生徒が一定数を割りこんでも、統廃合の対象としない」保証があってこそ生きてきます。地元の学校をなくすな、と奮闘する住民の姿が涙ぐましい。

 ゲストの佐藤学東大教授は、学校選択制を導入したアメリカの例を引き、学校格差が地域格差を招き、貧富の差を拡大すると警鐘を鳴らします。

 「人気のある学校を抱えた地域が地価高騰し、不人気の学校を持つ地域がゴーストタウンのようになる危険性も十分、考慮しなければならない」

 この流れに拍車をかけるのが、教育基本法を改悪し、競争至上主義を持ち込もうとする安倍流「教育再生」です。人気の高い小・中学校に資金が多く集まるように促す「教育バウチャー(利用券)制度」はその最たるもの。「格差」という言葉ではすまされない「公教育の崩壊」です。(板)

(しんぶん赤旗 20061207)

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弱肉強食の教育へ

 教育基本法改正論は、新国家主義以外の側面も持っています。一九八〇年代の臨時教育審議会以後、いわゆる新自由主義的な考え方が教育改革の中に入ってきて、文科省の文教政策の中にも一定程度取り入れられてきていました。この動きは、一九九〇年代以降のグローバリゼーションの流れの中で強まり、新自由主義政策が教育界においても積極的に取り入れられるようになってきました。その結果、現在の教育改革論議、ひいては教育基本法改正論議を導いている人々の考え方は、新国家主義と新自由主義のアマルガム(融合体)になっているともいえます。

 新自由主義とはこの場合、教育の世界に自由競争主義、市場原理主義を持ち込むことです。経済界にはもともと、企業活動を活発にするために、さまざまな規制を撤廃して自由に競争させることで、強い企業が勝ち残り、弱い企業が淘汰され、自然に全体が強くなる、という考え方がありました。この発想は、裏を返せば弱肉強食です。自由競争といっても、競争させられる一人ひとりは、そもそもスタートラインで資本力が違うわけですから、強い者がますます強くなり、弱い者がますます淘汰されていくことになり、きわめて問題のある考え方なのです。経済の世界でも完全に正当とはいえないこのような考え方を、教育の中に持ち込もうとするのは、非常に危険なことではないでしょうか。

 私は、学校教育を含めた教育の世界は、一般社会とは別の論理あるいは別のリズムが確保されるべき空間だと思うのです。新自由主義を教育の世界にそのまま持ってきたらどうなるか。教育は次第にプライベート(私的・非公共的)な関心に支配されるものになり、子どもたちも、親たちも、さらに教員も学校も、とにかく自分だけが勝ち組になればよいという考え方に染め上げられていく。そして負け組になってはいけないと、たえず競争へ競争へと駆りたてられていく。弱肉強食の競争が教育の原理になっていくと、今の子どもたちを苦しめている精神的なストレスはますます激化し、教員の精神的な負担もますます重いものになっていくでしょう。

一%のエリートと九九%の非エリート

 教育の新自由主義を象徴しているのが三浦朱門氏(元文化庁長官)の発言です。三浦氏は教育課程審議会(文相の諮問機関)会長として、いわゆる「ゆとり教育」の理念を導入した学習指導要領をつくった責任者です。次に挙げるこの人の率直な発言に「ゆとり教育」の目指すものがよく表れています。

 「できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。(中略)それがゆとり°ウ育の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」(斎藤貴男『機会不平等』文春文庫)

 これは、子どもたちを一%のエリートと九九%の非エリートに早くから選別して、エリートには手厚く教育投資をし、それ以外の人は切り捨ててもよいという宣言です。エリーートでない人は、せいぜい。実直な精神へ つまりエリートを下支えし、国を下支えしていく、従順な精神を養ってもらえばよいというわけです。

 これが極端になってくると、江崎玲於奈教育改革国民会議(当時の森喜朗首相の私的諮問機関)座長の次のような発言になります。

 「ある種の能力が備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になりますよ」(斎藤貴男、同書)

 これは、三浦氏の「できん者はできんままで結構」というのと対応しつつ、ちょっと背筋が寒くなるような遺伝情報決定論社会というものを想定しているわけです。小学校に入るときに遺伝子検査を施し、一人のエリートと九十九人の「非才、無才」を分けてしまおうという。これは、競争原理を追求した結果、最後には競争がいらなくなるという、なんとも皮肉な話です。最後に残る競争は、優秀な遺伝子の夫を手に入れる、優秀な遺伝子の妻を手に入れる、といったことにもなりかねない。恐るべき社会の到来です。

「心の東京革命」の実態

 ここまで見たように、新自由主義と新国家主義が一緒になって、競争の徹底と管理の強化を推し進めているのが現在の「教育改革」であり、また教育基本法改正論の方向なのです。そして、これを突出した形で進めているのが、東京都の教育改革です。東京都では、石原慎太郎氏が都知事に就任してから「改革」の動きが加速し、新自由主義的な選別システムと新国家主義的な日の丸・君が代の強制という施策が、かなり強引に椎し進められています。

 新自由主義的な施策としては、学区制の廃止、中高一貫エリート校の創設、習熟度別学級編成などが挙げられますが、その背後にある思想は石原都知事の次のような言葉にも表れています。

 「競争をする心は強い心であり、嫉妬をする心は弱い心でしかない。いかに劣勢であろうとも、競争を行なうことは攻撃であり、嫉妬は無為の防御でしかない。/子供たちを強い人間に育てようと思うならば、非常に似通った二つの心のうちの前者をこそ、つちかい与えるべきなのです」(『ぃま魂の教育』光文社)

 石原氏によると、攻撃的で強い心である「競争をする心」を子どもたちに培い、与えることこそ教育だということになる。彼の言う「心の東京革命」の「心」とは、攻撃的で強い心だということになるでしょう。ここで「嫉妬」と言われているのは、平等を求める考え方は弱者が強者に対して持つ嫉妬に発するものだということでしょう。つまり、教育の機会均等を定めた教育基本法第三条のような平等の理念が攻撃対象になっているのです。

 新国家主義的な施策としては、何といっても日の丸・君が代の強制です。これについては、石原都知事が東京都の教育委員に選んだ鳥海巌氏(丸紅元会長)の言葉が何とも象徴的です。

 「(日の丸・君が代に反対する人間は)これは徹底的につぶさないと禍根が残る。特に半世紀巣くってきているガンだから、痕跡を残しておくわけにはいかない。必ずこれは増殖する」(二〇〇四年四月九日付毎日新聞)

 日の丸・君が代の強制に反対する教員が「ガン」細胞に喩えられ、まるでナチスによるユダヤ人絶滅作戦のように、痕跡を残さず根絶することが唱えられているのです。

犠牲の正当化

 このように、国のレベルにおいても、東京都のような地方自治体レベルにおいても、新自由主義と新国家主義がセットになって進んでいる実態があります。弱肉強食の競争をよしとする新自由主義、そして国家という強者の論理を個人に対して優先させる国家主義、どちらも強者の論理であるという点では共通しています。新自由主義による犠牲は、弱いものが淘汰されていくのは敗者の自己責任だ、自由競争による全体の発展のためにはやむをえない犠牲なのだという論理で正当化される。

新国家主義による犠牲は、「お国のため」の犠牲は「尊い犠牲」だと言って正当化される。競争による犠牲も、国家のための犠牲もいずれも正当化される。このように見ると、新自由主義と新国家主義の両者は「犠牲のポリティクス」という思想で貫かれているともいえるでしょう。こうした思想が現在の「教育改革」と教育基本法改正論を導いているのです。

 新自由主義という考え方は、戦前・戦中に強かった国家主義に比べれば新しいものに見えます。特にグローバル化と一緒に強まってきた議論なので、これは新しい考え方だから従来の国家主義に対する批判では有効でないという議論も一定の説得力を持っているかもしれません。しかし、新自由主義の考え方を歴史的な文脈でよく検討してみると、これは必ずしもまったく新しいものではない。

というのも、十九世紀末の資本主義が出てきたころに広がったのは、やはり弱肉強食の論理だったのです。日本でいえば、明治維新以後、明治政府のイデオロギーは、もちろん国家主義を核とするものでしたが、それを補完する形で、弱肉強食論というものが展開されてもいたのです。

 たとえば、明治時代に官僚学者として活躍した加藤弘之(一八三六〜一九一六、東京大学初代総理)は、当時における社会ダーウィニズムの主唱者です。強者が弱者を淘汰していくのが人間の歴史で、支配者の非支配者に対する関係は強者の権利だから正当なのだといって、当時存在したさまざまな支配抑圧関係が正当化される。たとえば男性中心社会は、強者である男が弱者である女を支配するもので当然なのだとされます。帝国主義も、強国が弱い国を植民地化するのは当然だとされます。事実、加藤は『社会進化論から見た日露の運命』という本を書いて、日露戦争の前に、「日露は戦う。そして、日本が社会進化論から見て進化しているので必ず日本が勝つ」と主張したのです。

 このように、江崎氏の遺伝子優劣論にまでつながる社会ダーウィニズムは、十九世紀にすでに全盛を極めていた面があります。そういった弱肉強食論と国家主義の結びつきは、福沢諭吉(一八三五〜一九〇一)のような近代日本初期の代表的な思想家のなかにも見出されます。このように考えると、現在の教育基本法改正論が二つの柱を持っているということ自体、明治時代の焼き直しのようにも見えてくるのです。
(高橋哲哉著「教育と国家」講談社現代新書 36-43)

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人間の可能性について

 一つだけ、ここで念をおしておきたいこと──それは、人間の赤ちやんが「自らのカだけでは発達はおろか、生命を維持することすらできない。能なし≠フ状態で生まれる」ということは、人間が「ダメ動物」だということを意味するものではなく、反対に、人間の巨大な可能性を示している、ということ。

 ある意味では、たしかに人間は「ダメ動物」かもしれません──もって生まれた生理的な力だけでは生理的に生きのびることもできない、という意味においては。しかし、その生理的に欠けたところを、人間は社会的・文化的に補うわけです。「補う」というと、なにかつけたしみたいにきこえますが、じつはその「つけたし」によってはじめて、人間の生理(たとえば一四〇憶の脳細胞)も人間的な機能をいとなむことができるのであって、つまりそこのところにこそ、人間の人間たるゆえんがある──あるいは生じてくる──のです。

 人間は、生理的には、生まれながらにしてみな平等、とは必ずしもいえません。生理的な素質のちがい、ということがあります。生理的なハンデイキャップをもって生まれてくる子もいます。もし動物であったら、その生理的な素質のちがいはそのまま動物としての能力のちがいを意味することになるでしょうし、生理的なハンデイキャップは、そのまま動物としてのハンデイキャップを意味することになるでしょう。

 しかし、人間の場合には、けっしてそうではないのです──生理的な能カのちがいがそのまま人間としての能力のちがいを意味するものなんかではなく、生理的なハンデイキャップがそのまま人間としてのハンデイキャップを意味するものなんかではないのです。

 人間の脳は、生理的には、数万年まえと今日とでほとんどちがいはないといいます。にもかかわらず数万年まえの人間と今日の人間とでは、人間としてどんなにちがっていることでしょう! そのちがいは、ひとえに文化のちがいによるものです。

 私は動物を好きですし、動物をすばらしいと思います。そして、「われら動物みな兄弟」ということをたいせつにしたい、とも思っています。同時に私は、自分がたんなる動物ではなく、人間であることをさらにたいせつにしたい、と思うものです。

自分の人生の枠がすでにきめられてしまっているのではないということは、ある意味ではしんどいことですが、それは同時に、つねに可能性が前にひらけているということで、それはじつにすばらしいことなのですから!
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささら書房 p26-27)

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◎「教育は次第にプライベート(私的・非公共的)な関心に支配されるものになり、子どもたちも、親たちも、さらに教員も学校も、とにかく自分だけが勝ち組になればよいという考え方に染め上げられていく」と。