学習通信061220
◎円空の事績を見ていると……

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現代のことば
狂言の諷刺と笑い
茂山七五三(しめ)

 今でこそ、多くの狂言ファンの皆様のおかげで狂言会が各地で開かれていますが、私の若いころ、狂言だけの会はほとんどありませんでした。私の家の表看板である茂山狂言会と、戦後間もなく文化復興の目的で京都市が発足なさった市民狂言会。定期的な狂言会はそれだけでした。普通、狂言は能の会の中でしか上演されなかったのです。

能会のお客様といえば、昔は謡を稽古なさっているお弟子さんが大半でした。能が始まると、謡本に見入って謡のお勉強をなさる。前ジテが中入りすると、やおらお弁当を広げたり、見所のあちこちであいさつが始まったり……。それはにぎやかなものでした。

 さて、その能と狂言は、一緒に上演されながら実はかなりの異質な芸熊なのです。

 なるほど、能は脇能(祝言性の強い能)、修羅(しゅら)能(武士の戦物語)、鬘物(かづらもの)能(女性を主役とした演目)、現在物能(過去の出来事を描くもの)、切能(鬼など異形のものが出る能)と五つに分類され、狂言もそれに照応して脇狂言、大名狂言、小名狂言、出家座頭狂言、聟(むこ)女性狂言、鬼山伏狂言、集(あつめ)狂言に分類されます。しかし、能が古典に取材した歌舞劇であるのに対し、狂言は現実の人間生活の一情景を描出するせりふ劇だという点で、根本的に違っているのです。

 辞書をひくと、狂言は「能の合間に演じられる風刺性のある一種の喜劇」とあります。狂言が生まれたのは、南北朝から室町時代にかけての動乱の時期、いみじくも飯沢匡氏が「武器としての笑い」とおっしやったように、何の力も持たない一般の庶民が権力に抵抗する武器が「笑い」だったのでしょう。

 「二人大名」という狂言では、都に上る二人の大名に無理やり太刀を持たせられ、召使いのように横暴に扱われた男が腹をたて、太刀を抜いて大名を脅します。その力の逆転の構図が笑いを誘うのです。殊に大名や山伏、僧侶など、中世社会で権威をもった人たちが狂言の笑いの対象になっていますが、それは中世の抑圧された人たちのやる方ない憤懣(ふんまん)の発散ではなかったでしょうか。上演禁止になった狂言もあったそうですが、ずいぶんあくどい演技だったんでしょうね。

 しかし、江戸時代以降、狂言が能とともに式楽として芸術性を磨いてきた過程で、その風刺性は和らげられてきました。前述の「二人大名」も、現在では、ヤレ鶏じゃ、犬じゃ、起き上がり小法師じゃと嬲(なぶ)られているうちに、大名が次第に輿に乗って無邪気に戯れるという風に演じています。演じ方ひとつで、笑いの毒も薄まるのです。

 現代社会にもいろいろ歪みがあります。それに取材した新作狂言には、どんな笑いを醸し出すのでしょうか? (大蔵流狂言師)
(「京都新聞 夕刊」20061218)

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南無花田大明神

 私は劇評家は神様だと思っている。御燈明を上げて毎日拝みたいくらいのものだ。こんなことをいうと、おれのことかと思う劇評家は何人居るかな。すくなくとも私の拝みたくなる劇評家とは私を導いてくれ、私に光を与えてくれ、私の行くべき道を示してくれる人のことである。

 私は劇評家というと一つの挿話を思い出す。それはあのイプセンが『人形の家』を書いた時、批評家は「これは婦人解放の劇だ」といった。そして多くの人がこの批評家の言を信じ、いつの間にかイプセンが、そういう意図の下に、あの劇を書いたようになってしまった。その時イプセンは憤然として、「私は別にそんなつもりで書いたのではない。新聞の社会面にあったニュースを見て興味を持ち芝居にしてみただけだ」といったという。多分このイプセンの言葉は真実であろう。でも今からみると婦人解放の演劇といえないことはない。そういっても別に可笑しくない。とすると、やはりその批評家はイプセンの気のついていないことを嗅ぎ出していたのである。

 私もこのような経験は何度もしている。あのオルピイが「自分は芝居を書き上げてからテーマを発見する」といっているのは面白い。あの一筋縄でいかぬ人のことだから、この発言は「要注意」とはいえ、私はこの言に全面的に賛成する。テーマは批評家が発見してくれた方が筋が通っている。つまり巨視的な立場から作品を分析して、そのテーマなり意味を見つけ出して欲しいものだ。

 なぜなら、一ロでいえるような簡単なテーマを作者が提示してみたところでどうということはない。新作を書くと、よく新聞記者(日本ではこれらの人が批評家を兼ねている!)が「今回のテーマは何ですか」と聞く。新聞記事になる程度のテーマなら何も三時間の芝居を書く必要はない、我々作者は、自分の小宇宙を作り出し、それを動かして見せればいいのである。この作業の中に作者の思想も時代への抗議も人生観も文明批評も、美への好尚、言語への敏感さ、劇作家としてのあらゆる資質が余すところなく露呈される。劇評家は、それを一つ一つ吟味して自分の思想的立場や美への好尚などと照らし合わし採点してゆく中に、彼の文明批評が自ずと出て来る。つまり劇作家も劇評家も実体と鏡のような関係になるべきものなのであろう。

 作者に「テーマは何ですか」と質問するのは新聞記者には許されるかも知れないが、いやしくも劇評家には恥辱であろう。私は新聞記者には「筋は話すがテーマは諸君が見つけて欲しい」といつも答えることにしている。そのためか私は永い間、無思想の劇作家というレッテルを貼られた。私は戦時中『北京の幽霊』という日中の戦争に関する諷刺劇を書いた。私は「こんなに思想的であって大丈夫かな」とびくびくして書いたのであったが、『毎日新聞』の評には「無思想劇」と見出しで載ってしまった。きっとこの新聞記者の頭の中には軍部製の「大東亜共栄圏」の思想しかなかったので、そういうものを笑っている私の思想は無に等しかったにちがいない。私はこういう批評家は神様と思わないし燈明も上げる気はない。だが本当をいうと花田清輝という神様が出現するまで私の劇作は光が当たらなかったのである。

 印象的だったのは『塔』という作品である。これは、当時の言葉でいう新興宗教を取り扱ったもので、創価学会や踊る宗教などを漠然と想定してその内部を書いた。教祖はロボットに過ぎずもっと野心的な参謀が教祖を利用して宗派の勢力を盛り上げてゆく中に六十年安保の革命方式の批判とか、いろいろ諷刺を盛り込んで複雑な筋にした。その結果、殆どの劇評は娯楽劇ということであった。私は未だにどうしてあの作品が娯楽劇と銘打れたのか判らない。私は、それまで、こういう無理解には慣れっこになっていたので別に悲嘆しなかった。曇った鏡に像が映らないのは当然である。しかしたった一枚の澄んだ鏡があった。それが花田清輝大明神であったのだ。

 当時、大明神は連名で「新劇評判記」というのを某誌に連戦中であったが、『塔』について近ごろの秀作と極め付けをして詳しぐ論評してくれた。こんな格づけは、ともかくとして、作者としては作者の書き込んだ総てのものを明確に捉え時代と照応させた上で論じていてくれたのは有難かった。

 私は抽象観念に手足を生やしたような人物に対話という分割方式によって論文を分担させて退屈な朗読をさせる安易な劇作術は観客を愚弄するものと固く信じているものであるから、塔が爆発するスペクタクルなども入れてせいぜい観客にサービスしたのだ。もしかしたら、そのサービスが親切過ぎて娯楽劇という言葉が出たのかも知れない。しかし、そう銘打った批評家たちは新興宗教というこのマッスが今後の日本の命運に大きく影響を与えるだろうという私の予言は感じとって貰えなかったのである。

今では公明党が出現し、これを批判した藤原弘達に圧力を加えたり共産党と握手するかに見せたり何やかと問題を起こしている。そんなことで今では『塔』の評価は花田批評家の極め付けが通ることになった。私は『塔』では、自分の真剣に考えたことが批評家の鏡に明確に映った快感を味わうことが出来たが『狂言集』では正に花田大明神の御託宣に柏手を打った次第である。

 私は幼年時代から狂言を観る機会があったので狂言に関心があった。二十歳のころしきりと狂言の再認識を説いてみたが左翼演劇の盛行しているにも拘わらず狂言の中の下剋上精神に着目するだけの余裕のある批評家は居なかったので私の声は空中に消えた。当時私などはテアトル・コメディというお坊ちゃん劇団の文芸部員ということで世間知らずの脳足りんということになっていた。先の『北京の幽霊』が無思想なんていった新聞記者もそういう先入観で私を見ていたものであったろう。下らない批評家に限って人間に粗末なレッテルを貼って分類した気になるものであるが、その逆もある。下らん才能に勿体ないレッテルを貼って珍重する場合もある。

 さて狂言であるが、二十代の夢がやっと戦後になって実り私は幸いにして狂言ブームを起こすことに成功し、私も西洋種の新作狂言を五つばかり書いた。私は、ただ狂言という笑いの芸術が徒に化石文化として一部の人の所有物になるのを嘆き、これを日の当たる場所に持ち出し皆と楽しもうというだけの考えであった。その時、若い人たちの目は西洋にばかり向いていたので、わざと西洋種を日本演劇の中で最も古典的な様式を持っている狂言形式にしてみたのだ。

 もっと有りていにいうと、長岡輝子さんが文学座のアトリエで、三島由紀夫の『近代能楽集』の『卒塔婆小町』をやる時、上演時間が一本では短いので何を添えたらいいかと相談して来たので「能が出るなら狂言がいいでしょう」と、その時、前々から温めていた『濯ぎ川』(ファルスの『ル・キュヴィエ』)を急遽書き、狂言師たちの協力を仰いで上演したのである。

 それがきっかけで狂言師からの註文が続いたので結局五つの新作を書いたが、これを一冊の本にまとめたのは随分と後のことだった。狂言を単発的にやっても依然として批評家は反応を示さなかった。彼らの教養の中に、そんなものはなかったのだから、関心もなかったのであろう。この『狂言集』という本に強烈に且つ敏感に反応して呉れた唯一の批評家が花田清輝であった。彼は「魔法使の弟子」というエッセイで私のこの本を高く評価してくれた。彼のいうインターナショナルな目でナショナルなものを創り出すという理論に私のこの仕事が追っていたらしいのだ。私はそんな新しい意図の下に書いたものでなく今述べたような幼児期からの狂言への好尚が長じて隙間をみつけて吹き出したというべきなのだろう。

だが花田大明神の御託宣は見事に実を結び以後、外国から来る名演出家が能は余りに深遠だと敬遠しても狂言には絶大な尊敬を払うことが続き狂言師の海外公演が続出した。野村一家の如きはアメリカの大学へ狂言を教授しに出かけるほどになった。正にインターナショナルな観点からナショナルなものを創り出した賜物というべきで私は御託宣のあらたかなのに驚いた。私は勢いを得て新作狂言団を組織してポーランド・ブロッラフのフェスティバルとヴニースのビエンナーレ・フェスティバルに、この劇団を提げて参加した。このようなブームは、その後、新劇界に定着し狂言の再評価は決定的となり、もう私の如き素人が妄動する必要はなくなったと思っている。

 こういうことがあったから私は花田大明神を意識して作品を書くことになった。大明神の方も私の作というと早々と会場に姿を現わして観てくれた。私は無類の照れ性だし、また向こうもそれに輪をかけて照れ性の人なので、殆ど口をきかなかった。私は権門の扉はたたかない主義なので花田家詣ではしなかった。私は彼が公開の文章で私の作品に触れて呉れるので十分だったから手紙も形式的な礼状ぐらいなものしか出さなかった。あちらから来るのも至って儀礼的なものであった。

 しかし世の中は、よくしたもので、新聞記者で私と花田家との間を往復してメッセンジャーの役を果たしてくれる人が出現し、最小限に必要な情報は、お互いに交換していたのである。これが劇作家と批評家の交際というものであろう。まあ「君子の交わりは淡きこと水の如し」という境地に在ったといってよかろう。

 私たちが洒飲みでなかったことも幸いであった。酒を汲み交わして意気相投じたりしたら、きっと私は忽ち尻尾をつかまれて、不快になり、忽ち喧嘩別れしたことであろう。

 彼が私という人間に着目したのは、彼の書いた批評文によるとアンドレ・カイヤットの『目には目を』とかいう映画の合評会での私の発言がユニイクであったからとある。失礼ながら私は当日の合評会に彼が居たことを知らなかった。私が覚えていた人物は岡本太郎一人であった。例によって岡本が唯我独尊的言辞を弄していた印象しかないのである。何しろ沢山の人がそこに出席していたし、別に紹介もしてくれなかったので、そんな印象しか残らなかったのである。私が殆ど意識もせず、ぼそぼそといった感想に敏感に何かを認めてくれたというのは、やはり花田という人の批評家精神が、そんな時にも強烈に働いていたからであろう。

 私と花田氏との精神的交流は五、六年続いたことであろう。それが氏の急死で突然終わったのである。多くの人が氏の死を愛惜している。やはり大明神と祭り上げていたのは私一人ではなかったのだ。しかし彼は「祭り捨てる」という言葉を使って祭り込む先のことについてちゃんと言及しているのである。私が大明神などといって崇めることを見越していうのであろうか。

 死後一つ私に関する批評が思い掛けぬところから出て来た。私は『東京新聞』を買っていないので「大波小波」欄というのを知らなかったが、匿名でそこに花田氏が書いていたのだ。私が共産党を支持していることについての警告であった。

 氏は人も知るかつての共産党員でいわゆる国際派として除名された一人である。その人の経験から見た私への警告なのだ。しかし私は別に入党しているわけでもなく、一投票者として、それも浮動票の一票として今のところ共産党に投票しているに過ぎない。私が同党に失望したら別の党に投票することだろう。花田氏ほど私は実際の政治に携わるつもりはない。

 私の最新作『円空遁走曲』を評して純真な円空を演ずる役者に俗臭芬々たる芸術院会員の歌人との二投を演じさせることについて「私はそれほどアナキーでない」と私の取り扱いがいささか乱暴すぎるという不満をやんわりとだが表明していた。俗物を兼ねさすのは薬がききすぎているということなのだろう。私はここいらに、あの賢明な花田氏が嘗て入党していた経歴の持ち主であったことを納得するのである。

 私は円空を、背のびして立身出世を望み、しかも声名を得られなかった男として捉えているので、その延長として生まれ変わっては俗物ながら芸術院会員にしたのであった。円空の事績を見ていると下級宗教者はそれなりに信者から声名を得ようといろいろ腐心している点をみつけるのであった。それをひたすら純真に民衆の犠牲となって布教に身を捧げていた人と見ることは私には出来ないのだ。

 これについてはゆっくりと花田氏に手紙でも書いて論ずるつもりでいたのであったが逝ってしまい惜しいことをした。

 私は老後六十歳を過ぎたころに、このような理解者が現われるとは予想していなかっただけに花田氏の死は大きな打撃なのである。私が、やみくもに書きなぐった作品に一つの体系を与え、歴史的な役割をみつけて呉れる──そういう批評家が居なくなってしまったからである。だからせめて御燈明でも上げて商売繁昌、家内安全を念じ上げる他ないのである。南無花田大明神!
(飯沢匡著「武器としての笑い」岩波新書 p208-217)

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◎「狂言が生まれたのは、南北朝から室町時代にかけての動乱の時期、いみじくも飯沢匡氏が「武器としての笑い」とおっしやったように、何の力も持たない一般の庶民が権力に抵抗する武器が「笑い」だった」と。