学習通信061226
◎「新しい統治」論……
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文庫版への著者はしがき
この書の最後の章で、ローズと私とは「流れは変わり始めた」と宣言した。しかしその際に、「(このようなかつての体制に対する=訳者)反動は結局のところ短命に終わり、しばらくの時間を置いて、改めていっそう巨大な政府へ向けての反動傾向が、再び発生することになるかもしれない」と警告した。では、この書の初版が出版されてから二十年後の、現在の状況はどうなっているか。
人びとの世論のレベルでは、状況は極めて明らかだ。「ベルリンの壁」の一九八九年における崩壊と東西ドイツの一九九〇年における再統一、そしてソ連邦の一九九一年における解体とは、経済を組織化するための二つの対照的なやり方に対する、約七〇年間に及んだ実験に劇的な決着をもたらした。すなわち、「上からの命令体制」対「下から上への体制」、「中央による計画と管理の体制」対「民間市場社会体制」、もっとありふれた表現に従えば「社会主義対資本主義」の実験の決着だ。
しかもこの実験の決着は、実はそれ以前のもっと小さな規模における数多くの同様な実験によって既に下されていた。つまり、香港と台湾対中国本土、西独対東独、韓国対北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)などにおける実験によってだ。しかし、これらの決着を世間一般の知恵の一部とするためには、「ベルリンの壁」の崩壊とソ連邦の解体という、劇的な事件の発生が必要だった。
そのおかげで、今では、中央計画体制はまさしく『隷従への道』に他ならないことが、当然のことと受け取られている。この『隷従への道』(西山千明訳、春秋社)は、一九四四年に出版されたF・A・ハイエク教授のすばらしい挑戦的な書のタイトルだった。こういう考え方は、ローズと私とが一九六二年に『資本主義と自由』を出版したときには、まだごく少数派の意見でしかなかったうえ、一九八〇年にこの『選択の自由』が出版されたときでさえ、少し増えてはいたものの、相変わらず少数派の考えにすぎなかった。しかし今では、世間一般の常識的世論となっている。
しかし、世論の基礎にある人びとの考えと現実の動きとは、まったく別物であることがしばしばである。しかも実際の政治の面ではさらに状況が複雑になる。西側の先進諸国では、第二次大戦後の数十年間に、政府の役割の急速な増大や、国民所得における政府支出の急激な増加が、戦前の「福祉国家体制」と「ケインズ経済学派」の見解によって、強力に促進された。この『選択の自由』の最後の章でわれわれが予告した世論の転換も、政府の増大を鈍化させはしたが、これを逆転させるまでには至らなかった。世論の変化が、常に旧来の慣性からの脱出が至難な実際の政府の動きに対して影響を与えるのには、長期の時間を必要とする。
例えば第二次大戦後における急速な各種の「社会化」は、戦前における集団主義に向けての世論の転換を反映した結果だった。同様にここ数年間における「しのびよる」ないし「よどんでいる」社会主義の発生は、先記した第二次大戦直後における世論の変化の、初期の影響を反映している。したがって将来における「非社会化」は、ソ連邦の崩壊によって強化された世論の変化の成熟した影響を反映して、やがて必ず発生することになるだろう。
それにしても、世論の変化は、以前に後進的だった世界に対しては、はるかにもっと劇的な影響を与えてきた。この点は残存している最大で明白に共産主義国家である中国において、ぴったりあてはまる。一九七〇年代の後期にケ小平によってなされた「市場改革」の導入は、その効果として農業における私有化をもたらし、この分野での産出を劇的に増加させた。さらにこの成果は他の諸分野でも、この「共産主義国家」に、ますます市場経済的諸要素を導入させることとなった。この中国での経済分野における自由の増大は、まだ限られてはいるものの、中国の様相をかなり急速に変化させてきている。この状況は「自由な経済」に対するわれわれの信頼を、ますます強固なものにしてくれる。
もちろん、中国の現状は依然として「自由社会」からはるかに遠いが、それでも中国の住民たちは、毛沢東の支配下にあった時代よりも、今やはるかに自由であり、富を持っている。その上、政治の分野を別にすれば、人びとは他のあらゆる次元においてますます自由になっていっている。いや、政治の分野でさえ、いっそう多くの農村において、特定のいくつかの官僚職は、選挙によって任命されるようになっている点で明白なように、政治的自由が増大していく最初の小さな兆候が現われている。もちろん中国が真の自由社会になるためには、はるかにもっと変化しなければならないことは言うまでもない。それにしても中国は明らかに正しい方向へと動いていっている。
また、以前のソ連邦の諸衛星国の全部ではないことは明白だが、その多くの国ぐにがソ連邦の崩壊によって変換してきている。過去数十年間においてそれらの国ぐには、中央政府による独裁主義体制下に置かれていた状態から、圧倒的に「市場経済体制」と「自由社会体制」へと転化してきた。また、ラテン・アメリカやアジアにおいて、そしてアフリカではまだ少数国であるにしても、多くの国ぐにが「市場経済」的経済と、小さな役割とに限定された政府へと、接近していく道を選んできている。これらのすべての国ぐににおいて、この『選択の自由』の命題に従って、「経済的自由の増大」と「市民的・政治的自由」とを同時に推進して、自由の繁栄をますます高める方向へと進んできている。つまり、競争的資本主義と自由とは、切り離すことが不可能なのだ。
これに対して日本は、これまで述べてきた一般的状況とは、どこか例外的だ。「ベルリンの壁」が崩壊した一九八九年は、同時に日本のバブル経済が破裂した年だった。一九七〇年代から八〇年代の日本を特徴づけていた高い経済成長と市場経済の拡大とは、バブル経済の破裂後に、低成長とスタグネーション(経済の停滞)とデフレ(ないし西山教授が言うスタグプレッション)にとって代わられ、それが今や十年以上にわたって続いている。その間において、日本の政府による介入は増大し、企業と銀行の倒産を助長し、膨大な政府支出というケインズ派的景気刺激策を、立て続けに実施してきた。だが、これらの介入と刺激策とはほんの少しの効果しかあげなかった。
であればこそ、この『選択の自由』は日本にとって、この書が最初に刊行された時よりも、現在の日本にとってこそ、はるかにもっと適切だと私は信じている。ローズと私の意見を言わせてもらえば、日本がいま必要としているのは、より少ない政府支出であって、これを増加させることではない。
そして減税と企業に対する政府の介入や管理の削減ないし廃止と、自由な市場に対する大きな依存と、物価の安定に専念する貨幣政策にもっと強力な役割を果たさせることが、日本の窮状を解決する。また、そのときにこそ、もともと創造的で生産力に富んでいる日本の人びとの能力と自発性とが自由な市場を通じて発揮される。
これらの発揮に依存するようにしさえすれば、現在のスタグネーション(ないしスタグプレッション)を、再び高度成長へと転換させ、日本の人びとの自由と繁栄とを高めていくことができるのは、疑いない。
二〇〇二年四月二日
ミルトン・フリードマン
ローズ・D・フリードマン
(M&R・フリードマン著「選択の自由」日経ビジネス文庫 p3-7)
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経済時評
フリードマンとピノチェト
先月十六日にアメリカのノーベル賞経済学者、ミルトン・フリードマンが九十四歳で死去しました。続いて今月十日にはチリの元大統領、アウグスト・ピノチェトが九十一歳で死去しました。フリードマンとピノチェトは、世界の「新自由主義」の展開にとって、きわめて重要な役割を果たしてきた人物です。
フリードマンの死去にさいして、ブッシュ大統領は、異例の追悼声明を発表し、「フリードマンは、人間の尊厳と自由の前進に貢献した革命的な思想家、偉大な経済学者であった」とほめたたえました。アメリカが世界に押しつけようとしてきた「新自由主義」経済理論の大御所だったからです。(追悼声明は米ホワイトハウスのホームペーージによる)
またピノチェトは、一九七〇年代に選挙で民主的に選ばれたアジェンデ政権を軍事クーデターで倒し、軍事独裁の恐怖政治のもとで、チリに「新自由主義」経済路線を導入したことで知られています。
フリードマンとピノチェト──この二人の人物は、日本の安倍内閣の「構造改革」路線の特徴について考えるうえでも、少なからぬヒントを与えてくれます。
学校選択制・
減税・志願兵制度
ブッシュの追悼声明では、アメリカ政府の「構造改革」にたいするフリードマンの貢献として、「学校選択制、減税、志願兵制度」の三つをあげています。
このうち、学校選択制は、安倍首相が「教育再生」の目玉政策にあげている@学校選択制A学校評価制B教育バウチアー制(注)の中心的政策です。安倍首相は、「アメリカでは、私立学校の学費を公費で補助する政策をスクール・バウチャーと呼ぶ」(『美しい国へ』)と述べて、アメリカを手本にしていることを隠しません。そして安倍首相は、三点セットをやれば「保護者はお金のあるなしにかかわらず、わが子を公立にも私立にも行かせることができる」などと書いています。
しかし、アメリカの実態をみれば、そんなバラ色のものでないことは、一目瞭然(りょうぜん)です。学校選択制のもとでは、学校は競争主義に追い立てられ、競争に勝った私立は、バウチャー分の予算に上乗せして高い授業料を徴収することができます。親の所得の格差が教育の格差に反映され、格差の悪循環が世代を超えて拡大・固定化していくことは明らかです。
「新自由主義」の
経済と政治の関係
フリードマンとビノチェト、この二人の人物の関係は、「新自由主義」の経済と政治の関係を考える上でも示唆的です。
イギリスの経済誌『エコノミスト』は、フリードマンの追悼記事のなかで、フリードマンとピノチェトの深い関係について、次のように書いています。
「チリの独裁者(ピノチェト)は、過酷な弾圧政治と自由市場やマネタリズムの経済政策を結びつけた。(中略)一九七五年に、フリードマンは六日間チリを訪問し、ピノチェトに会った。その後、フリードマンはピノチェトに経済政策の処方せんを書き送った」(同誌○六年十一月二十三日、インターネット版)。
フリードマンとピノチェトが会った一九七五年といえば、チリでは、ピノチェトの軍事独裁政治が吹き荒れ、世界中から激しい非難の声があがっている時期でした。ピノチェトは、「新自由主義」の経済政策を導入しながら、軍事独裁に抵抗する人びとを徹底的に弾圧しました。公式調査でも、死者や行方不明者は約三千二百人、拷問を受けた人は少なくとも二万八千人にものぼるといわれています。
フリードマンとピノチェトの親密な交流は、「新自由主義」の市場原理主義が、政治的には強権的国家主義と表裏の関係にあることを示しています。それは、「新自由主義」のかかげる「自由」なるものが、ひとにぎりの上層階級が富を独占し、反対者を力で支配する「自由」にほかならないからです。
安倍「改革」でも 軍事強化が柱の一つ 安倍首相は、小泉「構造改革」を継承するといっていますが、安倍「構造改革」の特徴の一つは、大企業減税に示されるように、いっそう露骨に財界の求める経済政策を実行しようとしていることです。
同時に、もう一つ、忘れてならないことは、安倍「改革」では、「構造改革」の課題のなかに、米軍基地再編や「防衛計画」など、日米軍事同盟強化の目標まで組み入れていることです。安倍「構造改革」の指針である「骨太の方針2006」をみると、第四章で次のように明記しています。
「防衛については、我が国の平和と安全及び国際社会の平和と安定を確保するため、引き続き『平成十七年度以降に係る防衛計画の大綱』等に基づき効率的な体制の整備に取り組む」「『在日米軍の兵力構成見直し等に関する政府の取組について』を踏まえ、法制面及び経費面を含め、再編関連措置を的確かつ迅速に実施するための措置を講ずる…(後略)」。
この「骨太の方針2006」は、小泉内閣時代の今年七月に決めて、安倍内閣に託した方針です。安倍内閣は、今回の臨時国会で、国民の反対を無視して改悪教育基本法の成立を強行するとともに、自衛隊の海外活動を本来任務とする「防衛省」法を成立させました。
安倍「構造改革」とのたたかいを発展させるためには、「新自由主義」路線の危険な特徴を、政治と経済の両面から深くとらえることが求められています。
(注)「バウチャー制度」は、親が選択した学校にバウチャー(利用券)を提出し、学校は生徒数(バウチャー数)に見合う予算を受け取るという制度。
(友寄英隆論説委員会)
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学校選択、学力テスト、バウチャー
「新しい統治」論で国の意思徹底図る
教基法「改正」のねらいも そこに
古葉 史人
新首相・安倍音三氏は、いわゆる新自由主義教育改革の実現を、その政権構想の中で明示した。それによって、新自由主義教育改革が教育基本法「改正」の主要なねらいの一つであることが、だれの目にもようやく明らかとなった。
新自由主義的な
教育改革の正体
新自由主義は多様な領域において展開しているために、その定義は、視点の設定の仕方によって多義的なものとならざるを得ない。例えば、公共経済学の立場からは、国家が課している規制を緩和し、「市場」を導入することと定義される場合もある。
だが、新自由主義を統治の理論、すなわち、国家による国民の支配の論理として見た場合には、国家の持つ金銭の支配力を公共的サービスの末端にまで貫徹するための新しい統制の手法として定義することができる。
「多様な要求を充足する仕組み」として説明される「市場」の導入も、この定義からは、国家の意思を貫徹するための手法の一つとして説明されることになる。
「貨幣保有者」の
意思貫徹の手法
新しい統治の手法としての新自由主義を最も包括的に説明しているのは、米国において、教育や福祉だけでなく、政府間財政関係といった広範な分野における新自由主義改革を基礎付け、通説的な地位を占めている、「新しい統治」論(New Governance)である。
「新しい統治」論は、従前は政府が資金を提供し、かつ、みずからの手によってサービスを供給していたのに対して、@政府の役割を資金の提供(補助金など)に限定し、サービスの供給は政府以外の第三者に行わせる、A政府と第三者との間を、貨幣の支給者である政府が、自らの意思を、貨幣の受領者である第三者に貫徹させる「契約」として構成する─べきだと主張する。
「新しい統治」論は、政府の支配を第三者に効率的に貫徹するための手法を、組織経済学において発展してきた「主人─代理人理論」(Principal-Agent Theory)に求めている。
この理論は、貨幣保有者を「主人」と呼び、貨幣受給者を「代理人」と呼ぶ。主人が代理人を効率的に支配できない場合、その原因は、(1)主人と代理人と間の情報の非対称性、すなわち、代理人の方が労働の内容をより知っていることにあり、また、(2)代理人は、そもそも自己利害−楽をしてお金を得ようとすること−しか考えていないので、主人の目的を内面化していないことにあると指摘する。
これらの原因を除去するには、主人は、@代理人が実行すべきことを詳細な標準目標として設定すること、A標準目標の実施状況に関する説明責任を代理人に課すこと、B標準目標をよりよく実施させるために代理人間の競争を組織すること、そして、C結果達成に連動する効果的なインセンティヴ(報奨と罰)を代理人に提供すればよい、と提案する。
この理論によれば、学校選択制は、主人である国の意思を、代理人である学校と教師に貫徹するための競争の組織と説明される。教員による目標の自己申告制度とそれに基づく評価は、標準目標作りに必要な労働内容に関する情報収集であると同時に、教師による国の意思の内面化の手法となる。学校バウチャー制度は、集めることができた生徒数に応じて予算を配分するという手法なので、Cにあたる懲罰的規制を端的に意味する。
学習指導要領に基づく全国一斉学力テストは、主人によって設定された標準目標の代理人による達成度を関るものなので、主人による支配を代理人に貫徹するための手法金体の扇の要に位置付けられるのである。
政基法10条との
相互排他的関係
教育は、子どもと親を中心とする市民から日常的に提出される要求に直接応答しながら実行されるべきだとするのが、現行教育基本法一〇条である。その一〇条と新自由主義教育改革は相互排他的である。だからこそ、教基法「改正」法案において、現行法一○条の実質的削除が提案されているのである。
現行法を擁護するには、一〇条が規定する教育の直接責任によってこそ、よりよい教育を創造できるし、教師は自己利害にのみ関心があるのではなく、子どもの声に応えて教育を実行したいと願っているということを、事実に即して明らかにすること。そして、新自由主義教育改革によって導入される義務教育段階からの競争と、国家による金にものを言わせての教師・学校支配が教育を破壊することを、内外の実例に基づいて論証することが最低必要条件となる。
現行法と安倍政権の「教育再生」構想との対照性を、市民のすみずみに周知できて初めて、法案を廃案とすることができるだろう。残された時間は多くはない。〈こば ふみと・教育研究者〉
(「赤旗」20061107)
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◎「フリードマンとピノチェトの親密な交流は、「新自由主義」の市場原理主義が、政治的には強権的国家主義と表裏の関係にあることを示してい」ると。