学習通信070124
◎天国行きは絶望的ということ……
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宗教と哲学
倫理学と伝統的に深い関係をもってきたものには、哲学のほかに宗教がある。そして宗教は、それなりに首尾一貫した世界観としての性格をもっている。だからこそ、倫理学の後見役をつとめることもできたのである。
ただし宗教は、その世界観における首尾一貫性の基礎を、理性や論理においていない。超理性的な啓示や、超論理的な体験にその基礎をおくのが特徴である。
これにたいして、哲学においては、あくまでも理性に基礎をおいて認識の論理的首尾一貫性が追求される。理論的(あるいは論理的)世界観だということ──そこに哲学の特徴、がある。
キリスト教哲学、仏教哲学などの場合でさえも、そうである。すなわちそれは、それらの宗教の教義を前提としながらも、理性によってそれを基礎づけようとする。そのかぎりにおいて、それは「哲学」と呼ばれるのである。
非合理主義を標榜する哲学の場合も、例外ではない。それは、理性、が信頼するに値しないものであることを、理性によって論証しようとする。そのかぎりにおいて、それは哲学としての体裁をととのえるのである。
このことは、非合理主義の哲学や、さきにあげたような意味での宗教哲学が深刻な矛盾を内包するものであることを示している。
中世ヨーロパの宗教哲学についていえば、この矛盾はつとに自覚されていた。そして「不合理なる故にわれ信ず」と叫んだ教父テルトゥリアヌスは、信仰の純粋性をまもるために哲学とのいっさいの提携をこばんだ。しかし、理性に門前払いをくわせることはできることではなかった。そこで。ヘトルス・ダミアニは「哲学は神学の嫁女だ」として、理性のいとなみを信仰の枠内にきびしくかぎろうとしたけれども、やがてこの「嫁女」は神学の助手としての地位にのしあがり、さらに神学そのものを解体させるにいたったのであった。
ルネサンスは、この神学の解体期であった。そしてそれは、新しい近代的モラルの生みの苦しみの時期でもあった。
(高田求著「人間の未来への哲学」青木現代叢書 p12-14)
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対話は、以下の場を逍遥しつつ行われた。シニョリーア広場、バルジェッロ宮、聖マルコ修道院、メディチ宮、聖ロレンツォ教会、ルチェライ宮、ボンテ・ヴェッキオ、ビッティ宮、そして現代では ミケランジェロ広場と呼ばれている、フィレンツェ市街を一望のもとに眺められる丘の上、……etc。
「質問したいことが山ほどあって、どれから先におたずねするのがよいのか迷ってしまいます。それで、眼をつぶって突破するという感じで、頭から離れないあることから質問させてください。
ルネサンスとは、一体全体何だったのですか」
「はじめから、本質的な質問をしてきましたね。ならばこちらも、歴史的・宗教的・政治的・経済的な要因の説明は後まわしにして、本質的な回答で応ずることにしましょう。
見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名づけられることになる、精神運動の本質でした」
「でも、見たい知りたいわかりたいという欲望は爆発しただけではなく、造形美術を中心にした各分野における「作品」に結晶しています」
「創造するという行為が、理解の「本道」であるからですよ。ダンテも言っています。考えているだけでは不充分で、それを口であろうとペンであろうと画筆であろうとノミであろうと、表現してはじめて「シェンツァ」になる、と。イタリア語の「シェンツァ」は英語に直すと「サイエンス」ですが、この場合は「科学」とか「学問」よりも、これらの言語の語源であるラテン語のシエンティアが意味した、「知識」ないし「理解」と考えるほうが適切でしょう。このダンテの言が正しいことは、あなたが今考えていることを、誰か他者に話すか、それとも文章に書いてみたらわかります。頭の中で考えていたことが、表現という経路を経ることによってより明快になるという事実が。話すとか書くことが他者への伝達の手段であるとするのは正しいが、それとても手段の一つにすぎません。自分自身の考えを明快にするにも、実に有効な「手段」でもあるのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチは未完成の創作家と言われるくらいに作品の多くを未完で遺した人ですが、彼の場合でも、未完成の理由は二つあると思う。
第一の理由は、彼とは同時代人である多くの芸術家たちが想像した理由でもあるのですが、頭の中で考え描くような完璧な美と深さを画筆で表現するには自分の技倆が不充分である、とレオナルド自身が自覚した場合。つまりは、表現不可能、と思うしかなかった場合です。
第二は、レオナルドほどの人にしてはじめて生ずる現象でしょうが、制作途中であるにかかわらず完成した姿が見えてしまったときです。見えてしまう、つまりわかってしまえば、見たい知りたいわかりたいという欲望は、消え去るしかない。レオナルドの場合は、画筆を置く、になってしまう。彼に比べれば才能の劣る画家たちのほうが作品を完成させている率が高いのが、この仮説を実証していると思いませんか。
ルネサンス時代とは、要するに、見たい知りたいわかりたい、と望んだ人間が、それ以前の時代に比べれば爆発的としてもよいくらいに輩出した時代なのですよ。見たい知りたいわかりたいと思って勉強したり制作したりしているうちに、ごく自然な成行きで数多の傑作が誕生した、と言ってもよいくらいです」
「ではなぜ、見たい知りたいわかりたいという欲望が、あの時代になって爆発したのですか」
「それまでの一千年間、押さえに押さえられていたからでしょう」
「誰が押さえていたのですか」
「キリスト教会が。イエス・キリストの教えのうちの最重要事は、信ずる者は幸いなれ、です。つまり天国は、信ずる者にのみ開かれているというわけで。
この反対は、疑うということです。あなたのようになぜ≠連発する態度からして、あなたにはすでにルネサンス精神≠ェあるということになる」
「となれば、天国行きは絶望的ということですね」
「ルネサンス以前の中世に生きたキリスト教徒であれば、望み薄ですね」
「しかしあなたは、キリスト教徒そのものであるということで聖人に列せられているアッシジのフランチェスコを、この巻の最初に置いた人名一覧図では、ルネサンス人≠フ最初にあげている。世に普及しているこの種の表では、ルネサンス人の最初は、ダンテか、でなければジョットーからはじまるのが常のように思いますが」
(塩野七生著「ルネサンスとはなんであったのか」新潮社 p10-13)
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◎「ルネサンスは、この神学の解体期……そしてそれは、新しい近代的モラルの生みの苦しみの時期」と。