学習通信070125
◎マルクス、エンゲルスはこれを哲学と呼ぶことを拒否した……

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 これから、科学的社会主義の理論の中身に入りますが、まず、世界観の問題から話したいと思います。

 「世界観」というと、何かいかめしい印象があって、自分にはあまり縁がないという人もおいでかもしれませんが、実は、世界観をもたない人はいないのです。「世界観」というのは、「世界」にたいする「観かた」です。「哲学」というのも、ほぼ同じ意味ですが、「世界」の見方、つまり「世界観」という言葉の方が身近でわかりやすいのではないでしょうか。

 この世界で生きている以上、これが自分の「世界観」だとはっきり意識しない場合でも、この社会をどう見るのか、自然をどう見るのか、そういうことは、自分なりになんとなくでもつかんでいるものです。しかし、自分がもっているおのずからのものの見方、世界の見方をきちんと整理し、系統だて、理論的につかみなおすと、自分が生きている世界が、それこそ新しい姿で見えてきます。「世界観」の勉強にはそういう大事な意味があるわけで、自分がもっている世界観はなにかということを、あらためてつきとめるといった気がまえで、これからの話を聞いてもらえればと思います。

 ここには、中心をなす三つの問題があります。第一は、唯物論か観念論かという間題、第二は、弁証法か形而上学かという問題、第三は、人間の歴史と社会をどうとらえるか、という問題です。だいたい、この三つの問題で頭を整理すると、その人がもっている世界観が、おのずからはっきりしてきます。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p29-30)

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諸科学と哲学

 理性を基礎とし、認識における論理的首尾一貫性を追求しようとする点では、哲学は本来、科学と異なる立場に立つものではなかった。その誕生時においては、哲学と科学とは一体のものであった。

 しかし、それ以降、両者は異なる任務を自らに課することになった。すなわち、科学は諸科の学として、世界の個々の部分、側面についての実証的知識をつみ重ねることにむかい、他方、全体的な世界観の構築が哲学の独自の仕事とされるようになった。

 諸科学の仕事は断片的なところから、いわば職人的なしかたで始められざるをえなかった。そこで哲学は、それらの上に立つ棟梁的な学、それらの上に君臨する「万学の女王」としての地位を誇ることになった。女王の威令はあまねくいきわたり、諸科学の手つかずの領域はすべて女王の直轄地とされていた。

 しかし、諸科学はしだいにその実力をたくわえ、自立化の傾向を強めていった。かつての女王の直轄地からもつぎつぎと独立王国化していく部分があらわれた。

 それでもやはり、全体的な世界観の構築という仕事は、女王だけのたずさわりうる独自の神聖な仕事として残された。なぜなら、科学が依然として諸科の学であり、世界のあれこれの部分・側面の研究をその仕事のすべてとしているかぎり、その研究領域にかんするかぎりは女王がくちばしをいれるのを許さぬまでに成長したとはいえ、世界の全体的連関それ自身を問題にすることは、諸科の学には不可能だったからである。

 全体的な世界観の構築というこの哲学の仕事は、諸科学の実証的な方法とは異なるやりかたですすめられた。それは「まだ知られていない現実の連関を、観念的な空想的な連関でおきかえ、欠けている諸事実を考えだした像でおぎない、現実のすきまをただの想像でみたす」というやりかたであった。一言でいえば「現実の連関のかわりに、哲学者の頭のなかでつくった連関をすえる」というやりかたであった。そこで、哲学者の頭の数ほどおおくの哲学が生まれた。それぞれの哲学はそれぞれの哲学者の個人名を冠して呼ばれた。「プラトン哲学」「カント哲学」「西田哲学」というぐあいに。

 自然の全体的連関をとりあつかう仕事は「自然哲学」と呼ばれ、社会とその歴史の領域での仕事は「歴史哲学」等々と呼ばれた。

 しかし、こうした事情に終止符がうたれるときがきた。転換は、自然の領域と社会の領域とでほぼ同時にはじまった。自然についても社会についても、科学はついに、たんにそれらの個々の部分、側面を問題とするにとどまらず、自然や社会の全体的連関それ自身を問題とする段階に達したのである。

 自然の領域についていえば、シュライデンとシュワンによる細胞説の確立(一八三八年)、マイヤーによるエネルギー保存則の発見(一八四二年)とヘルムホルツによるその定式化(一八四七年)、ダーウィンによる進化論の確立(一八五九年)は、右に述べたような新しい時代の開始を告げる歴史的な出来事であった。こうして自然哲学はその歴史的な役割をおえた。それは「自然科学が発達するまではコンクリ工事の外枠のような役目をはたしていたが、コンクリ、が固まるころにははずして焚火にされた」というふうにいえるだろう。

社会の領域においては、同じころ、マルクスとエンゲルスによって社会科学の包括的な基礎づけがなされた。それは「歴史の領域で哲学を終わらせるもの」であった。

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 もっとも、自然の領域と社会の領域とで事情はまったく同一ではない。あるべき科学としての姿においては、自然科学も社会科学もまったく等価であるけれども、科学の現実形態とあるべき姿とのあいだにはつねにズレがある。このズレが現実からのフィールドバックによってチエックされることにより科学は前進していくのであるが、社会科学の場合には、自然科学の場合とくらべて、このフィードバックに時間がかかる。それだけに、一方では大胆さ、他方では謙虚さがよりいっそうつねに要求されることになる。
(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)
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 いまや「問題はどこでも〔自然の領域でも社会の領域でも〕連関を頭のなかで考えだすことではもうなくて、それを事実のなかに発見することである」。すなわち、私たちは「もはや他の諸科学の上に立つ哲学を必要としない。それぞれの個別科学にたいして、事物と事物にかんする知識との全体的な連関のなかでおのおのがしめる地位をはっきり理解するようにという要求が提出されるやいなや、全体的連関をとりあつかう特別の科学はいっさいよけいなものになる。」

 古い女王の統治にかわって歴史の舞台に登場するのは、民主共和制である。主権在民。そこでは、主権者としての諸科学がその共同の事業として科学的世界観をつくりあげ、不断に発展させていくことになる。

「それはもはや哲学〔古い意味での〕ではまったくなく、単一の〔einfachな、すなわちひとえに科学のみによる〕世界観──何か特別の科学中の科学においてではなく、現実の諸科学においてみずからを確証し実証すべきところの──である。」(エンゲルス『反デューリング論』)

 私たちが今日「哲学」と呼ぶものは、このような科学的世界観以外のものではない。マルクス、エンゲルスはこれを哲学と呼ぶことを拒否した。それは、古い哲学との質的なちがいを明確にするためであった。しかし、これが曲解されて、マルクスの学説は何ら世界観ではなく、さまざまな世界観上の立場と任意に接合可能な「たんなる社会学説」にすぎないとする見かたがはびこった。こうした風潮のなかでレーニンは、マルクスの理論と思想の世界観的性格を強調するために、あえて「マルクス主義哲学」について語ったのである。

私たちは今日、このレーニンの表現をうけついでいるが、もちろんそれは、どのような意味においても、古い哲学への回帰をもたらすものであってはならない。科学的世界観としての今日の哲学は、あくまでも諸科学の共同の事業であり、諸科学の成果によってたえずフィードバックされながら、つねに諸科学の前進にとってのフィードフォアフォードの機能をはたしてゆくべきものである。

 この共同の事業に参加する共和国の住民のなかには、思考の科学としての論理学も入る。かつての女王国のなかで最後まで女王の直轄地として残ったのは、思考そのものの諸法則にかんする領域であった。それだけは、自然ならびに社会についての諸科学に還元しつくされない相対的に独自な領域として生き残り、女王国の瓦解後も、唯一の生きた遺産として共和国にひきつがれた。

アリストテレス以来の形式論理学と、ヘーゲルによってはじめてその包括的な要綱が与えられたところの弁証法論理学がそれである。もちろんそれは、かつての女王の旗本としてのありかたそのままで生き残るのではなく、新しい共和国の住民としてきたえなおされなければならない。そのようにきたえなおされるとき、それは科学的世界観の構築という共和国住民の共同の事業のまとめ役としての任務をにないうるだろう。なぜなら、自然諸科学にしろ社会諸科学にしろ、論理的思考の手だすけなしには一歩も先へすすめないのだから。

ただし、それがかつての女王の旗本意識を克服しきれず、共和国住民としての立場を逸脱するようなことがでてくれば、たちどころにリコールされるだろう。生物学(分子生物学をふくめて)、原子物理学、文化人類学など、他に立候補者もいないわけではない。もっとも、これらの立侯補者のなかには、ずいぶんおかしな政見発表をしているものがある。「じつに哲学をもっともひどく罵倒するものが、まさに最悪の哲学の最悪に俗流化された遺物に支配される奴隷なのだ」という状態は、いまだにつづいているのだ。

思考の科学としての論理が共和国住民にふさわしいものに自分をきたえあげること、そしてその役割を誠実に遂行していくことが、つよく望まれる。
(高田求著「人間の未来への哲学」青木現代叢書 p14-19)

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 経験的な自然研究はすでに膨大な量におよぶ実証的認識材料をつみあげており、これを個々の各研究領域で系統的に、その内的連関にしたがって秩序づける必要は、そのためいやでも拒否しがたいものとなっている。

同じく拒否しえぬこととなっているのは、個々の認識の領域を相互に正しい連関にもちきたすことである。

ところがそうしようとすることで自然科学は理論の領域に歩みいることになるのであって、この領域では経験の方法は用をなさず、ここではただ理論的思考だけが手だすけとなりうる。

ところがこのような理論的思考は、素質という点からだけ、生まれつきの性質であるにすぎない。

この素質をのばし、育てあげてゆかねばならないが、これを育ててゆくためには、従来の哲学を研究する以外のどんな手段もいままでのところではないのである。

 どの時代の理論的思考も、したがってまたわれわれの時代のそれも、一つの歴史的所産であって、そうした歴史的所産はさまざまな時代にきわめてさまざまな形式をとり、またしたがってきわめてさまざまな内容をもつものである。

だから思考にかんする科学は、他のすべての科学と同様に、一つの歴史的な科学であり、人間の思考の歴史的発展にかんする科学だということになる。

そしてそのことは経験の領域に思考を実際に適用するうえにも重要なことである。

というのは、第一に、思考法則の理論というものは、俗物的な頭が論理学ということばを聞いて思いうかべるように、すでにすっかり確定しつくされた「永遠の真理」といったものなどではないからである。

形式論理学自体でさえ、アリストテレス以来激しい論争の場として今日におよんでいる。

そして弁証法にいたっては、今日までのところやっと二人の思想家、つまりアリストテレスとヘーゲルとによって、やや詳しく研究されたにすぎない。

ところがまさにこの弁証法が今日の自然科学にとっては最も重要な思考形式になっているのである。

すなわち弁証法だけが、自然の中で生じている発展の過程にたいして、大局的で全般的な連関にたいして、一つの研究領域から他のそれへの移行にたいして、その類例を提供し、またそれによってそれらを説明する方法を提供するものだからである。
(エンゲルス著「自然の弁証法」ME全集S 大月書店 p361-362)

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◎「「哲学」というのも、ほぼ同じ意味ですが、「世界」の見方、つまり「世界観」という言葉の方が身近でわかりやすい」と。