学習通信070126
◎日本企業の発展と経済の発展とをしゅん別すべき……

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「新自由主義」とは何かC
「経済」編集長 友寄英隆さんにきく

市民社会 ルールとモラル
スミスのいう共感≠ニは

──「新自由主義」とルールやモラルの問題の関係について、どう考えますか。

友寄……社会的モラルの問題は「新自由主義」の思想潮流の大きな弱点であり、理論的な矛盾点でもあると思います。

 最近、奥田碩日本経団連会長が、ライブドア問題に関連して、次のように述べています。

 「市場主義を『国富論』で唱えたアダム・スミスも、それに先立ち『道徳情操綸』(『道徳感情論』)において、側隠(そくいん)の情の重要性を説いています。私なりに解釈すれば、市場での自由競争で勝敗が決するからこそ、そこに参加する個人の倫理観が問われるということをアダム・スミスは言いたかったのではないかと思います。『カネさえあれば何でもできる』などと言っていたのでは、尊敬されないばかりか、そのビジネスモデルも長続きしないでしょう」(一月十八日、内外情勢調査会での講演)

 奥田会長は、スミスを読んでいないなと思いました。スミスが市民社会の原点にすえた市民同士の「共感」の真意をよく理解していないからです。

◆「側隠の情」違う

──市民同士の「共感」とはなんですか。

友寄……スミスの市民社会論では、お互いが生産した労働生産物が等価交換(等しい価値での交換)されます。そこでは、等価交換でありなが社会的分業にもとづく労働ですから、生産性が飛躍的に高まります。

 スミスは次のように言っています。
 「人間のあいだでは、もっとも似たところのない資質こそたがいに有用なのであって、彼らのそれぞれの才能のさまざまな生産物は、取引し、交易し、交換するという一般的性向によって、いねば共同財産になり、そこからだれもが他人の才能の生産物のうち自分の必要とするどの部分でも、買うことができるのである」(『国富論』第一篇第一二章「分業を生む原理について」、岩波文庫、@四二n)

 市民社会は、社会的分業にもとづく等価交換にもとづいていたからこそ、市民同士はお互いに「共感」できます。そこに不正は入り込みません。不正が入ると、市民社会そのものが成りたたないからです。

 スミスのいう「共感』は、自由競争で勝者が敗者にいだく「側隠の情」(哀れみの心)などとは次元が違います。

──しかし、現実の資本主義社会では、競争社会になり、市民社会的な等価交換の法則はなくなるのではないのですか。

友寄……たしかに、資本主義社会になると、自分の生産した商品を等価交換するという単純な法則だけでなく、他人の労働を搾取するという法則が働くようになります。

 しかし、大事なことは、生産した商品を市場で売買するさいには、やはりその品物に含まれる価値(値段)で取引しなければならないということです。’ですから、資本主義社会でも、市場では、やはり等価交換の法則が基準になるのです。

 いいかえれば、市民社会とい社会的な枠組みが存続しているからこそ、資本主義社会は成り立っています。

──資本家と労働者の間でも、そうですか。

友寄……もちろんです。資本家と労働者の関係は、搾取関係が基本になりますが、その前提である労働力という商品の取引(賃金による雇用関係)は、本来は労働力の価値どおりの売買(生計費をまかなう賃金)が基準になるべきです。

 そのためにこそ、労働基準法というルールがあり、このルールは、市民社会としての当然のモラルに支えられていなければならないのです。

 「新自由主義」にもとづく労働法規の「規制緩和」は、公正なルールを無視して、資本の側に一方的に都合のよい恣意 (しい)的な雇用関係をルールにしようとします。「ルールなき資本主義」は「モラルなき資本主義」と表裏の関係にあります。

◆「野放し」に規制

──資本主義社会は、単なる「弱肉強食社会」であってはならないということですね。

友寄……「新自由主義」はルールとモラルの密接な関係を無視し、ルールは社会で決めるもの、モラルは「個人の倫理」が決めるものと真っ二つに分けてしまいます。

 「新自由主義」は、市場経済や資本主義経済のもとでは弱肉強食と貧富の格差が必然であり、市場経済本来の姿であるかのように論じます。

 しかし、資本主義の歴史を振り返るなら、もともとアダム・スミスのいう「市場原理」は、市民的な「共感」という社会的モラルを前提にしています。

 資本による搾取を野放しにするなら、市民社会そのものが成りたたなくなるために、資本主義のもとであっても国家による一定の規制(ルール)が労働者と国民のたたかいによって発展してきました。資本主義のもとでの「自由競争」も、社会的モラルにもとづくルールを前提にしなければなりません。(つづく)
(「赤旗」20060310)

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主張
景気「回復」 繰り返す「いずれ家計に」

 大企業が空前の利益を上げる一方で家計消費は冷え込み、貧困を強いる非人間的な雇用の増大が大きな社会問題になっています。

 世論調査でも「景気回復の実感がない」人が78%(「読売」)、貧富の格差が「広がっている」と思う人は83%(NHK)に達しています。日銀の調査では雇用・処遇に不安を感じる人は八割を超え、過去最悪の水準です。内閣府が十三日に発表した世論調査によると、生活不安を感じている人は調査開始から最悪の67・6%に上っています。

 大多数の国民のくらしが苦しさを増し、不安定雇用と貧困が広がっている現実の反映にほかなりません。

ふたたび失政メニュー
 「企業の好調さが、いずれ家計、賃金にも波及する」と甘い見通しを振りまく安倍内閣と、国民の実感との間には深い溝があります。

 尾身財務相は「景気回復の軌道は今年夏の参議院選挙ごろまでには、よりいっそう強固になるだろう」と言っています(八日、米首都ワシントンで)。夏には回復が家計に波及しているはずだというのです。

 無責任な「予言」です。とりわけ尾身財務相には前歴があります。

 尾身氏は橋本内閣で経済企画庁長官(現在の経済財政相に相当)をしていた一九九八年の初め、いずれ消費も所得も上向き、「サクラの咲くころには景気は回復する」と「予言」しました。しかし、キクの花が咲くころになっても回復の芽さえ出ず、九八年度は前年度を大幅に上回るマイナス成長に陥っています。

 九七年に橋本内閣は消費税の2%増税や医療費値上げ、特別減税廃止で九兆円の国民負担増を強行しました。同年十一月に尾身長官が財界の要請を受けてまとめた経済対策は法人実効税率の引き下げ、雇用の規制緩和(労働者派遣法の改悪)、銀行への税金投入を柱にしていました。

 ひるがえって、いまの政府の政策メニューには定率減税の廃止、法人実効税率の引き下げと消費税増税、福祉カット、雇用の規制緩和(労働者派遣法の改悪、「残業代ゼロ制度」の導入)が並んでいます。実施の順序や銀行対策を除けば橋本内閣の失政メニューとほとんど同じです。

 家計と賃金からの収奪を進めながら、家計と賃金に波及すると説明するのはあまりに厚顔です。

 財界言いなりの安倍内閣は失政を繰り返そうとしています。しかも、企業収益が低迷していた当時と違い、いま大企業は過去最高益を連続で更新中です。働く人への企業収益の配分割合を示す労働分配率は六割を切る寸前で、アメリカを下回るところまで急降下しています。その結果、大企業の金庫にはお金があふれています。

 ますます厳しくなる庶民の家計には増税を押し付けて、大もうけ・金余りの大企業に減税するというのは究極の「逆立ち税制」です。

安倍「引き潮」戦略
 日銀の調査は「成長力」についても聞いています。今後の日本経済は「より高い成長が見込める」と考える人はわずか3・4%で、96%の人が「現状並み」か「より低い成長しか見込めない」と答えました。

 政権みずから「上げ潮」政策と名づける安倍「成長」戦略が、日本経済の「引き潮」になりかねないことを多くの国民が見抜いています。

 庶民から吸い上げて大企業にばらまき、雇用のルールを破壊する「構造改革」はますます貧困を拡大します。こんなやり方は、家計が六割を占める日本経済の安定的な発展とはけっして両立しません。
(「赤旗」2007116)

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大磯 小磯

 人口減少に突入した現在、日本の経済社会を考え直すことが重要だ。三点、従来型発想の転換を促しておこう。

 第一に、金利の水準を上げる努力である。

 先週の金融政策決定会合で白銀は追加利上げを見送った。わずか〇・二五%の金利を〇・五%に引き上げることすら困難なのが経済の現状というわけだ。もちろん、まともな金利を支払える企業が正常な企業である。この意味で、政策金利を上げられる状況が早期に到来することを切望したい。
 そもそも、物価の上昇率が常識の範囲内なら、金利の水準が高いほど経済活力も高い。円為替レートが実質的に二十年来の安値にあるのは、まともな金利を払えない国に資金を投下しても無駄だと、世界が評価しているからだ。

 第二に、日本企業の発展と経済の発展とをしゅん別すべきである。
 経済と企業とが同じ運命をたどることはない。特定の日本企業が海外で飛躍することは十二分にあるし、素材や自動車などはすでに飛躍している。世界経済が爆発的に成長しているから、国境を越えうる企業には無限の可能性が展開する。しかし、その可能性を引き合いに、日本経済を楽観視するのには無理がある。国内需要だけに依存してきた産業は老齢化と人口減少から多大な影響を受けよう。

 政府は、この衰退の危機に直面している産業、いわば影の世界を直視すべきである。世界に飛躍する光の世界だけを強調し、日本の前途をことさら明るく見せるのは、政策の粉飾でしかない。

 かといって、金利をはじめとする政策の基準を影の世界に合わせるのでは、飛躍できる企業の足を引っ張りかねない。必要なのは、欧米各国と比肩できる制度や経済環境の確立である。これがあってはじめて、企業の国際競争力が高まる。一方で、衰退の危機にある産業には別途、国内基準を設けるべきだろう。

 ここに、第三の発想の転換がある。現実を直視し、政策を立案する姿勢である。

 「美しい国、日本」というキャッチフレーズに上滑り感を抱いている国民は相当数にのぼるだろう。その理由は、「美しい国」が遠大な目標すぎるからだ。現場を見ず、農村や山間を十分に歩かず、政策を論じるからだ。光にも影にも配慮した政策をいかに練るのか。政府の努力と知恵が試されている。(突亥)
(「日経」20070123)

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◎「資本による搾取を野放しにするなら、市民社会そのものが成りたたなくなるために、資本主義のもとであっても国家による一定の規制(ルール)が労働者と国民のたたかいによって発展」と。