学習通信070130
◎労働基準監督署も不要です……

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改革は何をもたらすのか
ろうどうかん連法改正を審議してきた公労使代表に聞く

 政府の規制改革会議から飛び出した日本版ホワイトカラー・エグゼンプション(労働時間規制の適用除外)導入への提言。公労使3者による審議は、最後の最後まで紛糾した。

使用者側
何でもお上頼り≠ェ間違い
過労死は自己管理の問題です
ザ・アール代表取締役社長
     奥谷禮子

 若い人の中には、もっと働きたくてウズウズしている人たちがいる。結果を出して評価を得たいから、どんどん仕事するわけですよ。ところが現法制下では上司が「早く帰りなさい」と。本来そこは代休などの制度を確保したうえで、個人の裁量に任せるべき。働きたい人間が働くのを阻むのはマイナスですよ。

 仕事が面白い、もっと能力を高めたいと思っているときに、人の能力は伸びます。自分自身の商品価値が上がれば、会社が買収されたとか倒産した場合でも、労働市場で売れるわけです。今まで8時間かけていた仕事を4時間でこなして、残り4時間は勉強に充てようとか、ボランティアをやろうとか、介護や育児に回すこともできる。24時問365日、自主的に時間を管理して、自分の裁量で働く。これは労働者にとって大変プラスなことですよ。

 自己管理しつつ自分で能力開発をしていけないような人たちは、ハッキリ言って、それなりの処遇でしかない。格差社会と言いますけれど、格差なんて当然出てきます。仕方がないでしょう、能力には差があるのだから。結果平等ではなく機会平等へと社会を変えてきたのは私たちですよ。下流社会だの何だの、言葉遊びですよ。そう言って甘やかすのはいかがなものか、ということです。

 さらなる長時間労働、過労死を招くという反発がありますが、だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言いませんからね。過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います。ボクシングの選手と一緒。ベストコンディションでどう戦うかは、全部自分で管理して挑むわけでしょう。自分でつらいなら、休みたいと自己主張すればいいのに、そんなことは言えない、とヘンな自己規制をしてしまって、周囲に促されないと休みも取れない。揚げ句、会社が悪い、上司が悪いと他人のせい。

 ハッキリ言って、何でもお上に決めてもらわないとできないという、今までの風土がおかしい。たとえば、祝日もいっさいなくすべきです。24時間365日を自主的に判断して、まとめて働いたらまとめて休むというように、個別に決めていく社会に変わっていくべきだと思いますよ。同様に労働基準監督署も不要です。個別企業の労使が契約で決めていけばいいこと。「残業が多すぎる、不当だ」と思えば、労働者が訴えれば民法で済むことじゃないですか。労使間でパッと解決できるような裁判所をつくればいいわけですよ。

 もちろん経営側も、代休は取らせるのが当然という風土に変えなければいけない。うちの会社はやっています。だから、何でこんなくだらないことをいちいち議論しなければいけないのかと思っているわけです。
(週刊・東洋経済 2007 1/13np44)

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活動家と哲学

自覚した活動家に哲学は必要がないか

 自覚した労働者、活動家に、哲学はなぜ必要なのだろうか。それはほかでもなく、活動とたたかいのためである。

 そこで、はじめにあきらかにしておきたいのは、自覚した労働者、活動家とは、どのような人びとをさすのかということである。自覚した労働者、活動家とは、階級的な目的をはっきりもち、はたらきかける対象をもち、能動的にはたらきかける役割をになっている人たちをさす、といえるだろう。したがって、活動家には、まず、基本的な問題、階級的な立湯の間題はいちおう解決されていると見ることができる。

(ついでに述べておくと、労働組合の幹部がかならずしも自覚した労働者、活動家とはいえないということだ。まんぜんとその日をうちすごしている組合幹部もすくなくはないのである。)

 ところで、「哲学は、まだ階級的自覚をもっていない労働者に必要だが、自覚した労働者に哲学はあまり必要でない。むしろその他の理論がたいせつになる」といったような意見によくでくわす。いうまでもなく、哲学さえ学んでおけば森羅万象のいっさいがっさいを解決できると見るのは、ただしくない。だが、自覚した労働者の、自覚した段階の活動にとって、哲学の学習が必要でないとするならば、これもおなじくただしくないといえる。

 そこで、活動家と哲学とのかかわりを考えるために、活動家のなかにつぎのような症状がないかどうかをまず検討してみたい。

 活動家たちは、目的をもってあれこれと多忙に活動しているが、その目的をやりとげるにピッタリした活動のしかたをしているのかといえば、かならずしもそうであるとはいえまい。たとえば、目的もハッキリとし情熱ももっているが、やればやるほど職場の仲間たちから「離れる」ようになる現象は、ないだろうか。また、おおくの仲間だちとどこか「歯車」がかみあわないといった感じを、自分の活動についてもつことは、はたしてないだろうか。さらに、抽象的な議論ならばだれにもまけはしないのだが、具体的な職場の問題になると手も足もでないといったありさまはないだろうか。

 そうした状況がないにこしたことはない。また、症状がないのに針小棒大に問題をとりあげてみてもならない。だが、もしそうした症状があるとすれば、それに目をつむらないでほしいのである。目をそむけたところで、なんの解決にもならないのである。

 もしそうした症状があるとすれば、その原因をはっきりとつかみとり、必要な治療をくわえねばならないといえる。そうでないと、いやというほどカベにぶつかったとき、それまでのただしい目的まで疑ってかかりはじめ、そのうちにいっさいがっさいを「清算」しようと走ることも生まれかねないからだ。

 活動の目的が階級的・科学的にただしくとも、そこの具体的な状況から唯物論的に出発しているかどうか、あるいは活動方法が弁証法的かどうか──もしここに問題があるときは、さきに見たような症状が生まれることはさけられないのである。つまり、目的、立場、動機がただしくとも、それを具体化して実践にうつして対象にはたらきかけるときに、その活動家が哲学を身につけているかいないかが、ものをいうのである。ひとことでいうと、世界観としての哲学をしっかりこなしていないときには、かならず方法もしっかりしたものではなくなるのである。

 ガンも早期発見につとめれば、おそろしくはないそうである。どんな病気もかかったとき、早めに気づき治療すればよいわけである。活動のうえでの「病気」もまたそうだ。そして、その治療薬にあたるのが哲学であるといえよう。

 「自覚した労働者に哲学は必要ない」と考える人は、つぎの二つのタイプのうちのどちらかである。なんにもやっていない「活動家」──これなら病気もおきようがない──か、あるいは、みずからを完全な健康体と思いこんでいて、進行中のやまいに自覚症状をもちあわせていない活動家──これは自分と仲間達の関係を客観的に検討したことがない──かのどちらかである。

 自覚した労働者、活動家にとって必要なのは、常識的な哲学知識ではない。また、人生をときあかすための哲学学習でもない。必要なのは、弁証法的唯物論の哲学と活動とのかかわりをあきらかにすることであろう。

労働者階級の立場に立つということの意味

 まずはじめに、労働者階級とはなにか、階級的立揚とはなにかを整理しておくことにしよう。

 いうまでもなく、この資本主義社会では、いっさいがっさいが売り買いされる。万事金の世の中となっている。そこでは、生きていくために、自分のからだにそなわっているもの、つまり労働力を売って生きていかねばならない人問集団がいる。これが労働者階級だ。
 エンゲルスは、労働者階級について、こう述べている。

「……プロレタリアートは、自分の両手のほかはなにも持たず、きのうかせいだものはきょう食いつくし、ありとあらゆる偶然に従属し、どうしても欠くことのできない生活必需品は手にいれることができるという保証もちっともない──あらゆる恐慌、あらゆる雇い主の気まぐれで、失業することもあるのだ──プロレタリアは、人間が考えることのできるもっとも不快な、もっとも非人間的な状態におかれているのだ。奴隷には、すくなくとも自分の主人の私利私欲によって自分の生存は保障されているし、農奴は、とにかく一片の土地をもち、この土地で、すくなくともただ生きているだけの生活をする保障をもっている──ところがプロレタリアートは、たよりになるのは自分自身しかないのに、しかも、同時に、自分の力を頼みにすることのできるようなしかたで、自分の力を使うことができない状態におかれている」(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)。

 ここに述べられている、資本主義社会のもとで生きていく労働者階級のありさまは、いまもいささかも変わりないといえよう。

 ここで参考のために、労働者階級の存在を、否定しおおいかくそうとする資本の「努力」がどのようにはらわれているかをしめしておこう。

 これは、鈴木自動車株式会社の人員募集の広告文である。「あなたも経営に参加してください。スズキでは、ひとりひとりが経営者……という考えです。いまファイトある人材を求めています。あなたの実力を思いきり発揮できる場≠ナす」(『朝日新聞』昭和四四年五月二〇日夕刊)。

 小坂徳三郎氏の『産業人宣言』のなかには、つぎのようなくだりがある。「毎日、工場やオフィスの門をくぐっている人々の頭のなかには、もはや、うちひしがれたプロレタリアだ、という意識はなく、もっと誇り高い日本のエリートとして働いていこうという意識が満ちている……」。

 こうした資本の「努力」からしても、活動家、自覚した労働者は、労働者階級の立場に立つことをたえず意識的につよめねばならないということを意味する。

 労働者階級の立場に立つということは、なにを内容とするのであろうか。それは、労働者階級全体の階級的利益をまもり実現することをみずからの立脚点とし、労働者階級の利益に敵対する勢力、傾向に断固としてたたかうことを決意し、認識し、行動することである。

 こうした階級的な立場に立つということは、この資本主義社会の支配体制と全面的に対立する立場に立つことであり、こんにちの社会秩序を変革していくことを目ざすものである。そうした立場に立ったとき、客観的真理をあきらかにすることができるのである。なぜならば、こんにちの資本主義の体制の現状維持をはかる立場からは、現実をねじ曲げることがさけられないのにたいし、変革の立場からは、現状にたいする徹底した解剖と批判をつらぬくことが実現されるからである。

 資本主義社会の支配階級であるブルジョアジーが、どのような観点の持ち主であるかについて、つぎの一文はまったくマトをいている。

 「かれらにとっては、金銭のためにしか存在しないもの以外は、なに一つ実在しないのであって、かれら自身もその例外ではない。なぜなら、かれらはただ金をもうけるだけに生きていて、かれらは、はやくもうける以外にはなんの喜びも知らず、金を失う以外にはなんの苦しみも知らないからである」「ブルジョアは……本質は保守的である。かれの利益は現存の事態と密接な関係がある」「かれらの観点からは、事実さえも認めることはできないのである。ましてや事実から生じる結果など認められるはずはない。ただ驚嘆に値することは、階級的偏見とたたきこまれた先人観とが、人間の一階級全休を、これほどひどく、狂気の沙汰といいたくなるくらいに盲目にすることができる、ということである」(前掲書)。

 このイギリスのブルジョアジーについていわれている特質は、日本のブルジョアジーについてもまったく同様にあてはまる。その一例が、さきの小坂徳三郎氏の一文にもあらわされているといえよう。資本主義社会において科学的見地、真理をあきらかにする見地は、ブルジョアジーにまっこうから対立する立場、つまり労働者階級の立揚に立つことからもたらされるのである。その立場は、ブルジョアジーとまったくちがった観念、表象、ちがった感情、道徳、ちがった文化、芸術をもつことを意味する。

 個々の労働者をとってみても、「万事を金もうけのためにしかおこなわず、自分の人生の目的を金袋の蓄積にあると心得ているブルジョアのように、貪欲ではない。そのために労働者はまた、ブルジョアよりもはるかに偏見がなく、事実をはっきりと見る目をもち、万事を私欲の眼鏡をとおしては見ない」(前掲書)のである。労働者のもつそうした長所が、労働者階級の立場に立つことによって集中的に、自覚的にもたらされるのである。

 労働者階級の立場に立つということは、どのような意味においても「偏見」につうじるものではない。量的に見てもいえるように、労働者階級は、日本の就業人口の五七パーセントを占めている。小ブルジョアジー(農民、漁民、都市動労市民など)の三五パーセントをあわせるとおおよそ九〇パーセント以上が、勤労人民である。労働者階級の立場に立つということは、この九〇パーセントをこえる人びとの利益を代表することだ。これをさしていっぽうに偏するというのは、日本において、○・○ニパーセントの独占資本家たちの集団と九〇パーセント以上を占める勤労人民とを同列におこうとする主張にほかならない。それはとりもなおさず独占資本家の利益をまもることに一直線につながっているといえよう。

ものの見方と立場とは不可分なものである

 では、「ものの見かた」と階級的な立場とは、どのような関係にあるのだろうか。

 「ものの見かた」とは、かんたんにいえば、自分と自分をとりまく周囲の事物・現象との関係をどうとらえるかという問題にほかならない。周囲のものごとを見るとき、自分の立っている立場をはっきりさせねば、それらのとらえかたがふたしかになり、また、立揚がことなればまったくちがった見かたとなるだろう。たとえば、あるビルの全休をとらえようとするとき、かならず一定の距離をおいた地点に立ってそのビルをとらえねばならな、どこに自分を立たせるかによって、ビルの全景が正確にとらえられるかどうかが、左右されることになるのである。

 自覚した労働者が、社会全体をただしくとらえようとするとき、また、自分たちの労働組合をどのように強化するかをとらえようとするとき、自分の立つべきところを明確にしなくては、それらがただしくとらえられぬ結果となるのは当然である。

 つまり、立場をはっきりさせずには、「ものの見かた」もはっきりせず、また、ただしい「ものの見かた」をもたなければ、客観的なものごとは正確にとらえられないという関係にあり、階級的な立揚が「ものの見かた」を決定するという位置にあるわけだ。

 だれかがどのような立場に立っているかを知ろうとして、「あなたはどういう階級的立場に立っているのでしょうか」とたずねても、その人の回答で立場がわかるものではない。階級的立場がはっきりとおもてにあらわされるのは、その人の「ものの見かた」のうえである。つまり、その人は、具体的なものごとを、どのように見ているのかという観点にこそ、その人の階級的立場があらわれてくる。たとえば、ある資本家が「自分は労働者の立場に立っている」となんど言おうと、それによってかれの立場を判断することはできないのである。具体的な問題にたいするかれの見かたをとりあげて検討するならば、労働者の賃あげには反対し、「合理化」、首切りは必要だと見ているかれは、そこに、資本家の階級的立場をむきだしのかたちでしめしているのである。

 さらに、階級的立揚は、方法にあらわされる。私たちは、方法というものを、なにか「手」のことと考えるかも知れないが、哲学のうえでいう方法とは、主観と客観とのつなげかた、むすびつけかたをさす。したがって、方法とは、ものごとにたいする認識のしかた、実践や活動のしかたの問題といえる。実践しはたらきかけるとき、その人がどのように問題を見て(観点)、どのように解決しようとしているのかが、かくしようのないすがたであらわれ、そこにも階級的立場があらわされるのである。

 このように、階級的立場というのは、ばくぜんとした抽象的なものではない。また、労働者階級の立場に立つことをいちど決意したからといって、立場の問題は解決ずみであるとか、労働者の生活がながいから立場に問題ないなどとは、けっしていえないのである。ものの見かたと階級的な立場とは、不可分のひとつながりのものである以上、それを、自分のなかに統一してそなえること──これを自覚した労働者、活動家は実現しなければならないのである。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p11-22)

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◎「階級的立揚は、方法に……方法というもの……哲学のうえでいう方法とは、主観と客観とのつなげかた、むすびつけかた……方法とは、ものごとにたいする認識のしかた、実践や活動のしかたの問題……実践しはたらきかけるとき、その人がどのように問題を見て(観点)、どのように解決しようとしているのかが、かくしようのないすがたであらわれ、そこにも階級的立場があらわされる」と。