学習通信070131
◎保育の仕事……

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潮流

私たちは、子どもを「子供」と書きません。子どもをおとなに従う「お供」とみなすのはおかしい、と考えるからです

▼子どもは、一人ひとり独立した人格をもっています。最近は文部科学省も、言葉づかいでは「子ども」派らしい。「新子どもプラン」といった具合に。子どもの人格を認める考え方は、十八世紀フランスの思想家、ルソーにまでさかのぼれそうです

▼ルソーは、つぎのように説いています。子どもは小さなおとなではなく、独自の感じ方や思考方法をもつ存在で、それを尊重するところに教育の原点がある。約二百年後、彼の子ども観は、「子どもの権利条約」にも生かされました

▼安倍首相がじきじきに設けた教育再生会議の報告は、すべて「子供」と書いています。子どもを息苦しくさせる学校づくり案です。学力向上といって授業時間を廷ばし、全国学カテストや学校選択制で競争をあおる

▼授業時間も短く競争を排したフィンランドがなぜ学力世界一なのか、調べた形跡もありません。いじめには、体罰も辞さない。威圧です。「美しい国、日本を目指して」など、首相の口ぐせをちりばめます。百年の計である教育のあり方を、わずか三ヵ月の密室の話し合いで、ほぼ注文どおりに安倍色でそめあげました

▼報告に対し、「子どもの心を知らないがんこおやじのヒステリー」と、さわやか福祉財団理事長の堀田力さん。筋を通すがんこおやじだけなら、子どもが学ぶ点もあるでしょうが、ヒステリーは混乱のもとです。
(「赤旗」20070126)

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●──つくられる人生、つくる人生

 第1話のおわり近くに引用した『婦人問題辞典』の一節をもう一度読みかえしてみましよう。

 「赤ん坊は文化的環境のなかに生まれおち、文化にうらづけられた生活活動にくみこまれることによって、人間として生きる力を獲得していかねばならない。人類がさまざまな経験によって蓄積し発展させてきた人間の諸力を、生活諸活動を通じて学びとり、人類の諸達成を自分のものにすること、これが発達である」というのでしたが──ちょっとわかりにくいな、とそのとき思った人もいたかと思いますが、いまはとてもよくわかるんじやないでしょうか。

 ここで、注釈を一つだけ。それは、人間が文化によってプログラムされるということは、人間が文化によってつくられるだけの受け身の存在だということを意味するものではない、ということ。人間は文化によってつくられるのですけれども、その文化をつくるのは人間にほかならないのですから。

 能動的文化をつくる力が、文化によって育てられる、といえば、この関係が一言でいいあらわせるでしょう。すでにふれてきたように、コトバは人間にとってのもっとも基本的な文化の一つですが、コトバを身につけてきた子どもは、じつに独創的なコトバを自分でつくりだしもするのですから。たとえば、積木でなにか囲いをしている子どもに「そこごみため、ごみため」といったら──「ウウン チガウ オサカナタメ オサカナ コノシタニモグッテンノ  コノシタニ」これは四歳の男の子との会話です。(日本放送出版協会『ことばの誕生』)あるいは、「これ、こども部屋、ここは寝室」といったら──「ココガ オトナベヤ シタガ ウント コドモベヤ」これは三歳六ヵ月の女の子との会話です。(日本放送出版協会『用例集・幼児の用語』)

 保育の仕事は「子どもの体と心をつくる仕事」ということができると思いますが、いっそう正確にいうならば、「子どもが自分で自分の体と心をつくる力を育てる仕事」ということもできるでしょう。
(高田求著「未来を切り開く保育観」ささらカルチャーブック p42-43)

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◎「子どもは小さなおとなではなく、独自の感じ方や思考方法をもつ存在で、それを尊重するところに教育の原点がある」と。