学習通信070201
◎道具でしかなかった……

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厚労相発言の要旨

 柳沢伯夫厚生労働相が二十七日に開かれた島根県松江市内の会合で、女性を「子どもを産む機械」などと述べた発言の要旨は次のとおりです。

 今の女性が、子どもを一生の間にたくさん産んでくれないということがね。

 人口統計学では、女性は十五歳から五十歳までが出産をしてくださる年齢だということなもんですから、十五歳から五十歳の人の数を勘定すると、もうだいたいわかるわけですね。ほかからは生まれようがないもの。急激に男が産む役になるということはできないわけですから、そう決まっている。

 特に、今度われわれが考えている二〇三〇年(ママ)ということになりますと、二〇三〇年に、例えば二十歳になる人を考えると、今いくつ? もう七、八歳になってなきゃいけないということだから、生まれちゃってるんですよ、もう。三〇年に二十歳でがんばって産むぞってやってくれる人は。

 そういうようなことで、後は産む機械っちゃ……なんだけども、装置が、もう数が決まっちゃったと。機械の数、機械っちゃなんだかもしれないけども、そういうのが決まっちゃったということになると、あとは一つの、ま、機械って言ってごめんなさいね。別にその、産む役目の人が、一人頭でがんばってもらうしかないんですよ、みなさん。
(「赤旗」20070130)

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問われる安倍政権のモラル
  厚労相「生む機械」発言
かばい続ける異常な姿勢

 「女性は子どもを産む機械」発言をおこなった柳沢厚生労働相は三十一日の参院本会議で、「女性の方々を深く傷つけた。深くおわび申し上げる」としましたが、辞任については否定しました。

 さらに、安倍首相は三十一、日、日本共産党の市田忠義書記局長が参院代表質問で罷免を強く求めたのにたいし、「発言は極めて不適切でわたしも深くおわびする」といいつつも、「全身全霊をもって職務のまっとうを」などと、罷免しない態度を示しました。

 この首相の発言は、自身の人権モラルが、柳沢氏と同じレベルにあることを告白したに等しいものです。柳沢氏が発言を「謝罪」し、首相は「厳重注意」することで「国民の理解」を得ようとしていますが、ことは安倍政権そのもののあり方とモラルを問うものであり、あいまいにすることは許されません。

 首相は「国民に誤解を与えた」と言い訳しますが、国民は「誤解」などしていません。「機械」発言は、女性の人権と尊厳、豊かな能力を頭から否定し、人間をモノや道具のようにみる言語道断のものです。

 にもかかわらず、安倍首相が「本来、高い見識をもった方だ」とかばいつづける姿勢は異常というしかありません。

 さらに、少子化対策、女性の社会進出や雇用条件の改善など、喫緊の課題を担当する責任者が女性蔑視(べっし)の考えの持ち主では、まともな対策を期待できるわけがなく、ここでも首相の責任は重大です。今国会では、生活保護を受けている母子家庭等の世帯に支給される母子加算の廃止など、国民いじめの来年度予算の審議が目前に控えていますが、柳沢氏が居座ったままでは、まともな議論ができないことは明白です。

 肝心なのは柳沢氏をかばいつづける安倍首相の人権感覚そのものであり、任命責任だけでなく、政治責任が厳しく問われているのです。

 昨年十二月に、佐田前行革担当相が「政治とカネ」の問題で辞任してからわずか一ヵ月後に新たな大臣の罷免問題が出ること自体、この政権がいがに国民の願いと乖離(かいり)しているかを物語っています。(小泉大介)
(「赤旗」20070201)

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「従軍慰安婦」とは何か?

学生B……それでは先生、私はまずこの「従軍慰安婦」という言葉にすごく疑問を感じるんです。
 これだと従軍記者とか従軍看護婦などのように、自ら志願したり自発的に参加したイメージを持ってしまいます。性奴隷≠ニ言うべきだと言う人がいますが、私もそのとおりだと思うんです。

学生C……でも、自分の意志で「慰安婦」になった女性もいるという説もあるけど?

学生B……それは妄言を吐く人の説よ、すぐ惑わされるんだから。あなたは勉強不足よ。

教師A……まあまあ。そう決めつけないで。まさにその点が重要な論点だと思うし、これからの議論の中で考えていくとしましょう。とりあえずは一般的に使われている「従軍慰安婦」で、括弧つきで使うことにしては。

学生C……先生、僕の友人たちと話をしていると、なんで今頃になって「慰安婦」問題で騒ぎになるんだ、もうとっくに過去の話じゃないか、それに戦争だから仕方がなかったのでは、といった意見がけっこう多いんですが。

教師A……なぜ「今頃か」という点は後で触れることにして、この間題は「戦争だから仕方がなかった」では済まされない深刻で大きな問題性を秘めています。少し改まって言えば、「従軍慰安婦」問題とは、第一に、東京裁判では問題にされなかったものの、重大な戦争犯罪の疑いがある。「戦争だから」というその戦争、すなわち十五年戦争やアジア・太平洋戦争の性格を考える上でも無視できないものです。また日本の近現代史における女性差別、民族差別など人権問題にもかかわりを持ち、さらには現代日本社会のある種本質的なものを浮かび上がらせるような重い意味あいを持っています。あ、ちょっと講義調になったかな。ところで、Bさん、「従軍慰安婦」についてどの程度勉強しました?

学生B……ハイ、文献を数冊読みました。たとえば鈴木裕子『朝鮮人従軍慰安婦』(一九九一年)、吉見義明『従軍慰安婦』)一九九五年)、吉見義明・林博史編著『共同研究 日本軍慰安婦』(「一九九五年)などです。

教師A……なるほど。いずれも基本文献ですね。それで、学んだことは?

学生B……たくさんありますが、なんといっても旧日本軍や政府が直接関与したことが明白なことですね。それからいわゆる慰安婦や慰安所にもいろんなタイプがあったこと。たとえば、@軍直営で軍人・軍属専用、A形式上は民間業者でも軍が管理・統制し、軍人・軍属専用、B軍指定の慰安所で一般人も利用が可能、などの事実を知ったことです。

「従軍慰安婦」制度の目的

学生C……どうして日本軍が直接関与したの?

学生B……日本と中国との戦争が泥沼化する中、中国人女性に対する強姦事件が急増し、日本軍に対する中国民衆の反感や怒りの高まりを軍当局が恐れたからよ。つまり日本兵による強姦防止対策ということね。「慰安婦」制度は一九三一年の満州事変の翌年ぐらいから始まったようだし、大量設置は一九二七年の日中全面戦争以降なの。

教師A……そうだね。そのような強姦対策とともに、軍中央は、展望のない戦争で荒(すさ)んだ兵士の気持ちをなだめるための「慰安」、すなわち性欲解消策とも考えていたようだね。さらに性病対策でもあった。

学生C……性病対策?

教師A……そう、性病対策。これには、ロシア革命に対する干渉戦争、日本のシベリア出兵時の体験がモノをいっている。日本は一九一八年から二二年にかけて最大七万二千人の軍隊を派遣したが、そのときの日本軍兵士の性病罹患率は七人に一人という多さだったというんだ。これでは戦はできないというので、以後、軍首脳にとって、海外出兵時の性病対策は重大関心事だったんだね。

学生B……君、その性病対策と「慰安婦」の出身地とが関係しているのよ。「慰安婦」の総数はよくわからないけど、八万とも二十万人ともいわれているの。当初は遊郭出身の日本人女性もいたんだけど、大多数は朝鮮人女性らしいのね。どうしてかといえば、性病にかかっていない普通の若い健康な女性が軍の立場からは必要だったわけ。

教師A……さらに付け加えると「慰安婦」制度はスパイ、機密漏洩防止対策の意味もあった。女性を通じて軍事情報が漏れないように統制するためだ。要するに「慰安婦」制度とは、軍の軍による、軍のための管理買春制度といっていいだろうね。

学生C……「慰安婦」は朝鮮人女性だけですか?

教師A……いや、そうじゃない。アジア・太平洋戦争が勃発し、日本軍の占領地が拡大するにつれ、限りなく多民族化していった。公文書で確認できる範囲でいえば、日本人、朝鮮人、台湾人、中国人、フィリピン人、インドネシア人、ベトナム人、ビルマ人、オランダ人などだ。今後の調査・研究によってさらに出身民族が増える可能性がある。

学生C……ええー、かなり大規模にあったんですね。でも………戦争だから外国の軍隊にも「慰安婦」のようなものがあったんではないですか?

学生B……「戦争だから」どこも同じというのはよくあるごまかしの「論理」よ。吉見さんたちの本によると、米英など連合軍の場合も「慰安所」設置の試みが一部の現地司今宮にあったようだけど、「好ましくない」ということで本国から差し止められたようね。日本と違って女性の地位や人権意識が高いからよ。軍当局が直接賀春制度を推進するなんて、なんという軍隊なんでしょう、日本軍というのは!

教師A……そうだね。これは日本軍の特質とも関連していると思うんです。軍隊内での人権抑圧構造は戦後の映画や小説でたびたび題材になったほど有名だし、連合軍と違って兵士の休暇制度もきわめて不備だったからね。ただ日本の盟友ナチス・ドイツも同じようなことをしていた可能性が強い。ドイツでもこの分野の歴史的研究は遅れているが、日本の「従軍慰安婦」問題がドイツ人の研究に刺激を与えているようです。最近翻訳されたクリスタ・パウル著『ナチズムと強制売春』(一九九六年)によると、ドイツ国防軍最高司今部の指今で、異民族の女性によるドイツ軍向け「売春宿」の設置が一九四〇年以降広範囲に推進されたという。今後、こういった面での比較研究も必要だろうね。

学生B……それから先生、この「慰安婦」制度って、どうも民族差別の問題があるように思います。朝鮮人などアジア人に対する蔑視観が背景にあると思うんです。アジアの女性は人間としてでなく、日本兵の性欲解消のための単なる道具でしかなかったんじゃないでしょうか?
(石川康宏ゼミナール編「ハルモニからの宿題」冬弓舎 p113-118)

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1 「道具」から人間ヘ──近代日本へのあゆみ

 「男は作(農作業)をかせぎ、女はおはた(機織り)をかせぎ、夜なべをし、夫婦ともにはたらけ。みめかたちのよい女房でも夫のことをおろそかにし、大茶をのみ、物まいりや遊山のすきなものは離別せよ、もっともこどもが大勢いたり、とくべつに恩をうけた女房は別だが。みめかたちがわるくとも夫の所帯を大切にする女房ならば大事にしてやれ。」

 これは、江戸幕府が成立してまもない一六四九(慶安二)年に、幕府がだした「慶安のおふれ書」の一節です。慶安といえば三代将軍家光の時代、わずか一〇年ほどまえには有名な島原の乱がおこるなど、幕府の支配体制はまだかたまっていませんでした。幕府にとってなにより大切なのは、百姓がひたすら生産にはげみ、自分たちの最低の食いぶちをのこして、のこりはのこらず年貢としてさしだすというしくみをつくることでした。「慶安のおふれ書」は、そのために、農民の生活すべてを統制しようとしてだしたものです。

 まことに「百姓とごまの油はしぼればしぼるほどでる」といわれたとおり、百姓は「年貢をつくる道具」でしかありませんでした。そしてこのおふれ書の一節がものがたるように、農民の妻や娘たちもまた、その道具が、もっとたくさん年貢をつくりだすようはたらくのをたすけるための道具としてしかみられなかったのです。

 封建社会のもとで支配階級として農民や町人を搾取していた武士のあいだでも、封建的な身分制度が確立するにしたがって、女性はますます道具としてあつかわれるようになってきました。戦国時代には、各地の大名はじぶんの勢力をひろげるための政略結婚に娘や妹をつかいました。織田信長は妹お市の方を、はじめ浅井長政と結婚させておいて長政をほろぼし、長政とお市のあいだに生まれた男の子をころしたうえ、こんどは柴田勝家と結婚させました。また豊臣秀吉は、徳川家康をひきつけるため、すでに結婚していた妹朝日姫を離婚させて家康にとつがせました。

 そのうえ、封建社会では、お家断絶をさけるため、あとつぎが生まれなければ妾をおいて子を生ませるということが、日常のこととしておこなわれていました。農民の女性たちが「年貢をつくる道具」とすれば、武士の女性たちは「腹は借り物」のたとえどおり、家名を守るための「子を生む道具」でしかなかったのです。

 しかしおなじように道具としてあつかわれたとはいえ、武士と農民の女性のあいだには大きなちがいがありました。武士の女性は自分でものをつくることを知らず、父や夫のいいなりになるよりほかに生きるすべを知りませんでしたが、農民の女性たちは、きびしい年貢のとりたてにおわれ、夫とともに必死になってはたらくなかで、社会全体の生産力を発展させ、封建社会の基礎である自給自足経済をうちやぶる役割をはたすようになってゆきました。

 女の仕事の一つである機織りも、はじめは家族の衣類をまにあわせる程度だったのが、しだいに商人に売るために織るようになり、幕末にはマニュファクチュア(エ場制手工業)にやとわれるようにもなりました。幕府や藩は農民を土地にしばりつけようとたびたびとりしまりましたが、おさえることはできませんでした。一八四二(天保十三)年に桐生では、「近ごろ農作業にはたらく奉公人が少なくなり機織下女などというものがたくさんの給金をとるのは本末をとりちがえたものだ」とおふれをださなければならなかったほどです。封建社会の基礎をほりくずし、封建支配をゆりうごかす力の一つは、こうしたはたらく女性のあいだから生まれてきたものです。

 生産に根をおろしたものの立場からは、男女平等の思想が生まれました。一八世紀のはじめに江戸で生まれ、医者としてのちに秋田と八戸でくらした安藤昌益は、東北地方の貧しい農民の生活を見聞して、『自然真営道』という著作をあらわしました。そこで昌益は、いまの世のなかは、聖人、君子が、みずから耕さず他人の労働をむさぼりとるために、上下、身分の差をつくりだした「法世」であると批判し、ほんとうのあるべき社会のすがたは、貧富、上下の差別も、天子も武士もなく、したがっていっさいの搾取がなく、すべての男女が平等の立場で生産にはげむ「自然世」であると主張しました。

 昌益は、この思想をおおやけにひろめることができないまま世を去りましたが、かれが予感していたような未来をつくりだす力は、人民大衆のなかにめばえ、そだっていきました。

 農民は、いつまでも道具ではありませんでした。一八世紀のなかばごろから、さかんに農民が年貢の減免などを要求する一揆がおこり、つづいて都市でも下層市民が中心になった打ちこわしがおこるようになりました。幕末の一八三〇年代には、長州蕃(山口県)の一〇万人にのぼる大一揆をはじめ、甲州(山梨県)の「郡内騒動」、さらに江戸や大阪でも米商人への打ちこわしなどがつぎつぎにおこり、幕府の支配を根本からゆるがしました。

 こうした人民のたたかいの発展が、幕府をたおし、明治維新の変革を実現する原動力となっていったのです。この激動のなかで、女性もまた牛馬なみの「生きた道具」から、人間としてよみがえる一歩をふみだします。一揆や打ちこわしに登場する女性たちは、封建社会の女性といえばすぐ思いうかべるような、忍従とあきらめにおしひしがれたすがたではありませんでした。一八四〇(天保十一)年に近江(滋賀県)でおこった大一揆では、とらえられた指導者たちが江戸におくられるのを見送った妻子たちは、どうか家のことは心配せずに志をとげてくださいとはげましました。

 また、日本が資本主義列強の圧力によって開港させられたのは一八五九(安政六)年ですが、その前年、金沢、高岡など北陸地方一帯でおこった米の値上がりに反対する打ちこわしでは、中心になったのは、「女房共、後家、子供」らであったといいます。開港後、米がいっそう値上がりしたとき、佐渡相川町の主婦たちは、手に手に茶わんをもって役人のところへおしかけ、米の払下げを要求しました。

 一八六六(慶応二)年には、大阪を中心とする近畿地方、つづいて幕府のおひざもとである江戸と関東地方一帯を中心にはげしい一揆・打ちこわしがおこりました。

 この慶応の大一揆・打ちこわしとよばれる人民の闘争こそ、幕府に大打撃をあたえ、倒幕をいっそうはやめた決定的な力となったのですが、この闘争のはじまりとなった西宮の打ちこわしもまた、米の安売りを要求する貧しい主婦たちの行動からはじまったのでした。

 幕末に活躍した女性といえば、倒幕派をかくまった筑前の野村望東尼(のむらもとに)や、信州の豪農出身で、京都まででむいて倒幕派に資金をおくった松尾多勢子(まつおたせこ)などの名があげられますが、彼女たちの個性的な生涯のもつ意義はそれとして、近代日本の女性のあゆみをふりかえるとき、わたしたちはなによりも近代への道をきりひらいてきたものは、このような人民大衆のたたかいにほかならなかったことを、そして、こうしたたたかいのなかで、まだ意識にはのぼっていないにしても生活からにじみでる要求をかかげることによって、解放をのぞむ農民や都市下層民の女性が育っていったことを知るのです。こうした大激動のなかで幕府はついにたおれ、新しい権力として明治政府が成立しました。

 この明治政府は、うごかすことのできない歴史の流れにそって、日本を近代的な国家につくりかえてゆく役割と同時に、倒幕のなかでたかまった人民の革命的エネルギーをおさえつけ、真に民主主義的な革命を日本に実現して、近代をつくりだそうとする力を封じこめてしまう役割をもってあらわれました。明治維新期の日本には、いたるところで見かけの新しさ=近代的な政策と、内容の古さ=封建的・専制的側面とが走馬燈のようにいれかわりながらあらわれますが、それは、明治政府のこうした性格の表現であり、全体としてみれば、その近代的な諸政策も政府のいいなりになる人民をつくりだす目的のためにとられたといってよいものでした。

 明治維新をむかえた女性の生活もまた、こうした矛盾のうずのなかにまきこまれました。明治維新によって女性の社会的状態が一変したとみることもできませんが、だからといって封建時代となにもかわらなかったとみることもできません。明治政府は、とくにその初期にあっては、たしかに女性を封建的束縛から解放するようないくつかの政策を実行しました。けれども女性は明治政府のそうした政策によって解放されたのではありませんでした。近代国家をめざす政府の政策の本質は、すこしも女性を解放するものではなかったにもかかわらず、いやおうなしにとらざるをえなかった政策を遂に女性自身がみずから解放をかちとってゆく武器として身につけていったのです。その意味で近代日本の出発は、婦人解放の実現ではなく、まさに解放をめざすたたかいの出発点にほかなりませんでした。

 近代日本の女性の歴史が、女性が真の解放をみずからの手できりひらいてゆく、長いたたかいの歴史としてとりあげられなければならない理由は、ここにあるといえるでしょう。
(米田佐代子著「近代日本女性史 上」新日本新書 p15-20)

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◎「農民の女性たちは、きびしい年貢のとりたてにおわれ、夫とともに必死になってはたらくなかで、社会全体の生産力を発展させ、封建社会の基礎である自給自足経済をうちやぶる役割をはたすように……封建社会の基礎をほりくずし、封建支配をゆりうごかす力の一つは、こうしたはたらく女性のあいだから生まれてきた……生産に根をおろしたものの立場からは、男女平等の思想が生まれ」たと。