学習通信070208
◎根の浅いものではけっしてない……

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仲間とともに

仲間とともにそして何時も仲間の半歩前を

 たたかいの人生をささえる生きがい、それは学習と連帯にあるというのは、私たちの体験にもとづく一つの結論でした。私たちは一人ぼっちではたたかえません。組織ぎらいなどというぜいたくなものとは無縁の存在です。

 私たちは、そもそもの時期からほんとうにすぐれた友人、仲間たちに恵まれてきました。何十年たって互いに白髪をいただくようになったいまでもツーといえばカーと通じあえる、そういう友をもっていることはほんとうに幸せなことだと思います。と同時に共通の理想に結ばれる新しい仲間をつくっていく、この仕事ほどやりがいのある仕事はないといえるでしょう。私たちもそういうふうにして前進してきました。

 そして、そのなかから、仲間をつくり仲間とともに、しかもその半歩ほど前を歩むことの大切さを学びつづけたのです。

 これから、その私どもの体験からする仲間づくりの秘けつのようなものについてお話してみたいと思います。

 私たちは仲間づくりをすすめるにあたって、まず仲間は人間であるというまったくあたりまえの事実をふみしめてかかる必要があるということです。なにを馬鹿な! そんなことくらいあたりまえさ、などと言わないでください。私の経験では、実はこのあたりまえすぎるくらいあたりまえのことがとかく忘れられるので困ると思うからです。

 問題の基本は、仲間たちは命令で行動するのではない、彼らは、自分自身の利害にもとづいて、しかもそのときに彼らが自分自身の利害を理解しうる程度に応じて行動するものだ、ということをちゃんとわきまえてかかることです。

 仲間はけっして木や石ではない、機械でもない、ほかならない人間だということ。思想をもち意識をもち、そしてそれなりの生活経験をもち、それなりの社会経験をもち、社会環境のなかで生きている人間であるということです。ですから、命令さえすればかならず自分の希望したとおりに動くものだというようなものではありません。押しつけたり、引きまわしたりというような正しくないやりかたがでてくるのは、このまったく当然すぎるほど当然の事実を忘れるところからくるものです。これはごくあたり前のことであります。しかしあたりまえのことなんですが、えてして私たちが忘れがちになる非常に重要な点ではないかと思います。

 だから、この木や石でなくて生きて動いている仲間どうしが一つにまとまってたたかおうという強固な意志統一をつくりだしていくことなしには、うまくいく道理がないわけです。そのためにはまず仲間自身が、自らこういう目的のために団結してたたかうことが必要なんだ、仲間たちと手をつないでいっしょにたたかわなければいけない、というように思いこませる(納得する)ような活動がまず必要になってきます。

 この仲間自身の理解と期待のための活動を軽視して、こう進むべきだ、こうやるべきだ、というところから出発して、おしつけてみても、引きまわしてみても、それはうまくいくはずがありません。指導とは納得なのです。

 第一、押しつけるにしても引きまわすにしても、もうそこには対等平等の立場がなくなっています。民主的な関係のないところに、ほんとうの仲間などできるはずがありません。真の連帯、それは自主的なもの、そして民主的なものでなければなりません。思想や意識をもたない木や石を組みたてたり、機械を組みたてたりするのとはわけがちがうということ、これを真底から理解してかかるかどうか、ここに仲間づくりの根本的なカギがあると私は信じています。
(有田光雄、有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版社 p247-249)

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唯物論とそれにもとづく活動

哲学的唯物論の基本的内容

 労働者階級の世界観は、弁証法的唯物論である。したがって、自覚した労働者は、それをみずからの活動の武器ともしなければならない。

 ここでは、哲学的唯物論の全般にわたってあらためてとりあげることはしない。とくに、活動家にとって、あきらかにしておくべきだと思われる原則だけをとりあげることにする。

 よく知られているように、世界の諸現象を本質的に把握するうえで、物質と意識という概念より広い概念はないのである。「これは最大限に広い、もっとも広い概念であって、認識論はこれまで、事の本質上これよりさきに(いつでもおこりうる術語の変更を念頭におかなければ)出たことがなかった。最大限に広いこの二系列≠フどちらを第一次的なものと見なすか、ということの『たんなるくりかえし』でないような規定を要求できるのは、山師根性か、極端な愚鈍だけである」(レーニン『唯物論と経験批判論』)。

 哲学的唯物論は、この物質と意識との関係について、物質が第一次的であり、意識が第二次的であると見る。唯物論のこの原理は、われわれの活動に重要なかかわりをもつ。

 まず、物質と意識とは、その存在の順序からしても、また、意識は、意識する器官である脳、つまり高度に発展した物質に依存していることからしても、物質が第一次的で意識は第二次的である。さらに、人間の頭脳に固有な意識のはたらきがなんらかのしかたで頭脳のそとにある物質的な世界=客観的な実在を反映することにあり、意識の内容は物質を反映したものにほかならないということからも、物質は第一次的で意識は第二次的といえる。

哲学的唯物論の反映論についての原理

 この「反映」ということについてマルクスは、「観念的なものは、人間の頭脳でおきかえられ翻訳された物質的なものにほかならない」(『資本論』第一巻、第二版あとがき)と述べている。

 人間の頭脳のいとなむはたらきによって生みだされる意識は、一見どのような制約もうけず「自由自在」にかけずりまわることができるように思われる。だが、その意識の内容をとりだして具体的に検討をくわえるならば、それらすべての素材、源泉は頭脳のそとにもとめられることがあきらかとなる。それはそうむつかしい作業を必要とせずとも理解できる。

 こうした頭脳のいとなむはたらきから生まれる意識の内容と頭脳のそとにある物質的な世界との関係は、中国のむかしばなしにある孫悟空とお釈迦さまの手のひらとの関係に似ている。

「……『よけいなことは、いわないでいいよ。ぼくは、じゅつをしっているんだ』と、むねをはりて(孫悟空は)こたえました。
『そんならごくう。そのじゅつをつかって、わたしの手のひらのそとへとびだすことができるかね』
『そんなことなら、へいちゃらですよ』
ごくうは、おしゃかさまの手のひらにのって、ぽんと、ひとけりとびあがりました。そして雲にのって、びゅーんとはしりだしました。どれほどとんだでしょうか。やがてむこうに、五本のはしらが見えてきました。ごくうは、まんなかのはしらに『そんごくう、ここまできたぞ』と書きました。ごくうは、とくいになって、かえってきました。おしゃがさまは、
『ごくう。そんなにとくいになっても、おまえは、わたしの手のひらのなかを、ぐるぐる
 まわっていただけだよ。せかいのはてまでいったなどとは、おかしいよ』とわらいました」(世界のどうわ『そんごくう』)。

 このように、人間の頭のなかでつむぎだされる意識は、たとえそれがどのようにとっぴょうしのないもののようでも、頭脳のそとの現実になんのかかわりをももたないように見えても、じつは現実を離れてはおらず、現実をどのようにか写しだしているのである。それはまさに、実体としての山とフィルムに写された山の映像との関係のようなものだ。

 ところで、もし「意識は物質の反映である」ということを、たんにカメラやカガミがそとにあるものを「物理的」に反映するのと同じように、人間の意識における反映を単純にとらえるならばただしくない。

 人間の意識における反映は、また、たんに「生理的」な性質のものでもない。たしかに、人間の頭脳のはたらきには、その大脳半球における百四十億以上の神経細胞がさまざまなはたらきをつかさどっているという「生理的」な要素をもっている。したがって大脳皮質に異常を生じたとき正常な反映はもたらされないのである。

 だが、人間は他のけだものと区別されて、社会的な性格をもっているところにその本質がある。だから、人間の意識とは、すなわち社会的意識なのである。「意識はそもそもはじめからすでに一つの社会的生産物なのであり、およそ人間たちが存在するかぎり、社会的産物であることをやめない」(マルクス・エングルス『ドイツ・イデオロギー』のだ。

階級的な人間は反映においても根本的に対立する

 ところで、階級に分裂している社会においては、人びとはかならずどの階級かの成員である。そのため、人びとの意識には、社会的、階級的な性格が刻まれる。こうして「さまざまな所有形態のうえに、社会的生活条件のうえに、さまざまの、独特な形態の感覚、幻想、思考様式、人生観の全上部構造がそびえたつ。階級全体は、それを自分の物質的基礎とそれに応じた社会関係からつくりだし、かたちづくる。それは、伝統と教育をつうじて一人一人の個人にながれこむが、個人はそれが自分の行動の本来の動機や出発点だと指摘するかもしれない」(マルクス『ブリューメル十八日』)のである。

 ここから私たちは、資本家階級と労働者階級とのあいだには、経済的、政治的な対立が存在するだけでなく、感覚、思考様式、人生観のうえでもするどい対立が生まれつらぬかれることを必然としてとらえねばならない。それこそが、階級社会における生きた人間にとって、自然であると見なされるのである。階級社会において階級的に対立する人間関係のあいだには、どのような一致した反映もありえないことを唯物論は、どんなあいまいさもはさまずにしめすのだ。

 エンゲルスはこのことについて、著作『イギリスにおける労働者階級の状態』のなかで、乞食はたいてい労働者だけによびかけるものだということをとりあげ、労働者にとってはどんな人間も人間であるが、ブルジョアにとっては労働者は人問以下のものと見なされること、だから労働者は、ブルジョアよりもつきあいやすく、親切であるし、また、労働者は有産者よりもお金を必要とするけれども、それでも有産者ほどお金に執着しないといったことを指摘している。

「それというのも、労働者にとっては、お金はただそれとひきかえに買うもののためにだけ価値があるにすぎないが、一方ブルジョアにとっては、お金はある特別の内在的価値、神様のような価値をもっている」からだ。このように金銭ひとつをとりあげてみても、それは階級的にことなった意味をもち、そこからことなった人間性が生まれてくるのである。

労働者のなかでの見解の相違についての反映論からのとらえかた

 さて、社会的存在としての人間の頭脳が、客観的なものごとを反映するというとき、同じ社会的存在である労働者のなかに多種多様な見解の対立、相違が生まれることについても、私たちは唯物論にもとづいてただしくとらえねばならない。

 それは、けっして不可解な現象ではない。

 まずなによりも、個々の労働者の育ってきた家庭環境(ひろくは階級的環境)の相違を見なければならない。たとえば、一般的にいって、農民的環境で育った労働者は、視野の狭さをもつ。都市勤労市民の家庭環境で育った労働者は、小ブルジョア的気分を特微とする。ブルジョア的家庭環境に育った労働者は、虚栄心をもち、他人の苦労に無関心であるなどといったつよい個人主義的な傾向を見ることができる。

 また、過去の社会的経験のちがいによって、直面する事物にたいしてのとらえかた、反映の角度がことなるのも、さけられないことだ。

 さらに、公教育のなかで受けた影響のちがいによって、意識にあたえられた先入見の程度の相違によってヽ具体的な問題についての見解の対立が生まれるのもさけがたい。

 そうしたことから私たちは、労働者の内部に意見の相違があるとき、それを「労働者だからただしい考えをうけいれるはずだ」ときめこんで、一気にそれをおしつけようとするとすれば、無理を生じやすく、カラまわりをまねくことになりやすいのである。そこにある意見の相違、対立は、たんにその場で生まれたような根の浅いものではけっしてないのである。私たちは、労働者のなかで見解の相違や対立が生じたとき、なにが「伝統と教育をつうじて一人一人の個人にながれ」こんでいるかをよく見きわめ、状況におうじ長期にわたった、解決のための粘りづよい努力をはらうことが必要といえよう。

自覚した労働者のなかでの見解のちがいについての見方

 また、労働者、なかでも自覚した労働者、活動家のなかでもしばしば生まれる意見の相違については、さきにあげたような原因を見ることも必要であるが、活動家のばあいにはとくに、反映のしかたのうえでの相違にその原因を見なければならない。人間の頭脳における外部のものごとの反映は「なんらかのしかた」での反映といわれるように、けっして一様の「しかた」においてなされるものではないのだ。このようなちがいが生じるのは、基本的に共通の階級的な立場に立っているとしても、さけがたいのである。

 コップひとつをとりあげてみても、上からとらえるのと横からとらえるのとでは、まるっきりちがった形にとらえられ、用途からするならば、飲むための道具、文鎮がわり、投げつける道具、花たてのかわりなどといったように、さまざまにとらえうるのである。こうして、一面的、表面的にものごとをとらえることから見解の相違がおこるのである。その解決は、「反映のしかた」を一致させることによってもたらされる。

反映論は同じ社会的存在にある労働者のなかでの意見や要求の一致を確信づける

 だが、唯物論の反映論が私たちにあきらかにするものは、労働者のなかでの意見の相違がさけられないものであるということだけではなく、それ以上に、労働者のなかでの意見の一致はかならずありうるということである。この点に心をくばり、確信をもって努力すること──これが唯物論にもとづく私たちの労働者にたいする働きかけの原則だ。

 なぜそういえるのがろうか。個々の労働者がたとえどのょうな先入見をあたえられていても、その労働者をとりまく社会的現実は同様であり、労働者のはたらいている職場の現実にはなんの区別もないのだ。だからそこのその現実は、全面的にただしくはすべての労働者に反映はされずとも、その段階とその労働者の意識の状況に制約されつつも、具体的な、直接的な問題であればあるほど、共通した反映を生みだすことはうたがいない。そこに、労働者の共通した要求が生まれるのである。

 労働組合は、思想信条、信仰のちがいをもつ労働者の結集した組織であるということから、その活動において意識的に心がけねばならないことは、現実を反映した一致点を発見し、それをふだんに拡大し固めることによって、団結をたゆみなくつよめていくことだろう。そのためには、心情的に「仲間を信頼する」のではなく、唯物論の見地に立って「仲間を信頼する」という観点を活動家は確立しなければならないのである。

 私たちのなかに、もしも、共通の見解、同一の感情をもつ労働者だけの組織や集まりにだけ顔をだし、労働組合などの複雑な構成員をもつ組織においての活動には違和感をもち、それから「遠ざかりたい」と考える人がいるとするならば、それはとりもなおさずその活動家の唯物論的な世界観のうえに弱さがあることを意味するといえはしないだろうか。

 さらにいえることは、唯物論の反映論にもとづいて私たちは、大衆組織の民主主義的運営についていっそう徹底した観点をもつ必要があるということだ。私たちのなかには、異なった意見、反対意見のだされることを「おそれる」かたむきがないとはいえまい。同一の意見とは、事物についての同一の反映をもつことを意味する。異なる意見、反対意見は、異なった反映をもつことを意味する。それら反対、少数の意見には、基本的にはただしい意見、多数の意見のなかに見おとされているなにかの部分、要素が、いくらかなりとも包含されているかもしれない。

いや、ぎゃくにそれらの反対、少数の見解のほうがただしいばあいもありうるかもしれないのである。こうして、正確な、全面的な事物についての反映を求めようとするならば私たちは、異なった意見が提起されることを意識的に積極的に求め、それを尊重し、それを分析するという態度が欠けてはなるまい。組合民主主義とは、けっして技術的間題ではないのである。それは、正確な、あるいは不正確な反映を討議、批判をつうじてあきらかにし、いっそう正確な反映にちかづき、みんなの認識をたかめ団結をいっそうひきあげるための、唯物論の反映論の具体化としてもとらえなければならないといえよう。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p23-33)

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◎「この木や石でなくて生きて動いている仲間どうしが一つにまとまってたたかおうという強固な意志統一をつくりだしていく……そのためにはまず仲間自身が、自らこういう目的のために団結してたたかうことが必要なんだ、仲間たちと手をつないでいっしょにたたかわなければいけない、と……納得する活動がまず必要」と。