学習通信070213
◎見事に一致している……

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天気
春の花

 菜の花やタンポポなど、各地から春の便りが続々と届いています。こうして思い浮かべると、春の花には黄色が多いように感じませんか? ある統計によると春の花は黄・白から始まり、赤・紫と続くそうです。黄色には集中力を発揮させたり記憶力を高める効果、気分が明るくなる効果があります。この時期にはぴったりですね。受験生は春の散歩で気分転換してみては。
(「赤旗」20070210)

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コトバを育てるということ

●──コトバと感覚

 コトバの枠にとらえきれない、いうにいわれぬモヤモヤしたものがはたす役わりを重視する必要がある、という趣旨のことを第4話の最後でいったわけですが、今度は、そのモヤモヤ漠然としたものをキチンとしたコトバの枠組みにとらえることがたいせつだ、ということについてお話したいと思います。

 なにからどんなふうにお話しようか、としばらく迷っているうちに、「議長、発言!」と、私の内なる仲間の声があがってきました。私たちは「青菜」「青物」などというぐあいに、ミドリをもアオと呼ぶことがありますが、そのことに関連しての心理学者のことばです。

 ミドリ≠ニいう言葉を知らぬ人はミドリをアオ≠ニして認識し、実際のミドリとアオの区別も十分にできない。もちろん、無理に見わけさせれば、二つの色がちがうことは認めるが、どうちがうかはわからない。したがって、その色を目の前にしていないと、両者は混同されてしまう。つまり、もちあわせている言葉によって、感覚や認識も支配されるわけだ」(千葉康則『脳と現代』法政大学出版局)

 これについて、つぎのような注釈を以前に私は書いたことがあります。

 「私たちはミドリのことをもしばしばアオという。つまり菜っぱの色をも澄んだ秋空の色をも、ともにアオ≠ニ記された分類箱のなかに投げこむわけだ。しかし同時に私たちは、そのなかに投げこまれたものを、アオとしか呼べないアオと、ミドリとも呼ばれるアオとに区別することをも知っている。つまりアオ≠フ大箱のなかにはさらに小箱が二つあり、一方にはアオ¢シ方にはミドリ≠ニ記されていて、空の色や海の色は前者に、若葉や菜っぱなどの色は後者にと入れわける。こうした小箱のもちあわせがあればこそ、私たちは両者のちがいをハッキリと感じわけることもできるのだ」(『新人生論ノート』新日本出版杜)

 思いだしたのですが、つぎのような二歳児との会話の記録があります。

 風船の色、何色?
 アオダネ。
 そうね。
 ミドリダネ。
 よくできました。
  (『用例集・幼児の用語』)

 もうちやんと「整理の小箱」がそなわってきていることがわかりますね!

●──色のいろいろ

 「もちろん、そのミドリならミドリと記された小箱のなかにも、さらに小さな箱がいろいろとありうる」とそこで私は書きそえて、草色、若草色、柳葉色、苔色、萌葱(もえぎ)色、松葉色、若竹色、青竹色、鉄色、といったコトバをいろいろとあげました。濃青(こいあお)あるいは老緑(おいもどり)、というコトバもぜひあげるべきだったでしょう。それから、浅緑(あさみどり)。

 「こうした小箱≠フ用意が豊富であればあるだけ、それだけその人の感覚のはたらきはゆたかさ、鋭さ、深さをます」とも私は書き、さらに「注意すべきこと、一つ。それは、これらの小箱≠キなわち感覚を整理してとらえる枠組みとしてのコトバは、たんに個人的な体験の産物ではなく、民族の体験のなかから歴史的に結晶してきたものだということ。だから、ライト・グリーンとアサミドリとは同一ではありえず、ライト・ブルーとアサギイロとは同一ではない。グリーンとミドリとも同じではありえない」とも書きたしました。

 じつは、このアサミドリというコトバについては、忘れられない思い出が私にはあるのです。小さいころ、絵本でぶつかったのでした。アサミドリというコトバとあわせて、その絵本のあるページの絵が、幼い私の目に映じたその色とともに、いまもあざやかに浮かんできます。夜明け方の空だ、と私はそれをうけとり、そのためながいこと、アサミドリは「朝緑」というふうに思いこんでいましたが、その明け方の空の色を森の木々のシルエットがひきたたせていました。

 じつは、それはたしか、明治天皇の御製を絵本にしたてたものの一ページでした。そこにのせられていた天皇の歌も、よくおぼえています。「あさみどりすみわたりたる大空のひろきをおのが心ともがな」というのでした。「心と もがな」の意味がわからず、「こころ ともがな」とギナタよみしていたのですが。

 明治天皇とつなげられてしまったことはどうも居心地わるいんですけれども、それにしてもその絵本によって、アサミドリというコトバと色とが私の幼い脳のヒダにきざみこまれたということ自体は、たいへん幸せなことだったと思います。「花ざかり過ぎてあさみどりなる空に……」と源氏物語に出てくるのを知ったときは、うれしかったですね。これで、私の内なる仲間としてのアサミドリが明治天皇のヒモつきじやなくなった、と思って。新芽の色の形容としては、万葉集や催馬楽(さいばら)にも出てくる、ということも知りました。

「朝緑染めかけたりと見るまでに春の楊(やなぎ)は萌えにけるかも」(万葉集)「浅緑 濃い縹(はなだ) 染めかけたりとも見るまでに 玉光る 下光る 新京朱雀(しんきょうすざか)のしだり柳……」(催馬楽)──いい歌ですね、どちらも。同じ表現がどちらにも出ているのは、後者が前者をふまえたのかも知れず、あるいはどちらもが民衆のあいだに当時ひろくうたわれていた歌の文句をふまえているのかもしれません。

 私が幼いころ接したあの絵本は、万葉以来の文化的伝統につうじる感覚への目を私にひらいてくれた、ということになります。

●──色の社会科学

 つい、色の話がながくなってしまいましたが、色の感覚も文化なんですね。けっしてたんに生理的なものじゃない。「こと人間や家畜に関しては、生理学すら社会科学のカテゴリーに属しているのである」という、第3話でご紹介した井尻さんのことばを思いおこしてください。家畜に関してさえそうだとすれば、まして人間においてをや、といわなければならないでしょう。

 色が「社会科学のカテゴリーに属している」ということについての、私の内なる仲間の証言をご紹介しておきましょう。「武井邦彦デザイン研究所」の武井邦彦さんの書かれた『色彩の再発見』(時事通信社)の一節です。

「現代の若者たちは国防色(暗い灰黄系統の色)もオリーブ・ドラブ olive drab の名称のもとに、何の抵抗もなく衣服に用いている。軍国主義の象徴であった国防色と、平和の象徴であるオリーブ色と、さらにはまたアメリカ陸軍冬期制服(略称ODはその色名に由来する)のオリーブ・ドラブとが、重層したイメージになるという現象は、何という皮肉であろうか」

 「国防色」といってもピンとこない人がいらっしゃるでしょうから、念のために辞書をひいておきますと、「枯れ草の色に似た黄茶色。カーキ色。もと、陸軍の軍服の色」とあります。(『新明解国語辞典』三省堂)「何という皮肉」という意味、よく考えてみてください。

 さらにまた──
「美しい日本の自然、木々の緑は、年々減るいっぽうである。それはあたかも、工業経済の発展と反比例するかのごとくである。しかし、いくら人びとが緑の足りないことに気づき始めたからといって、コンクリートのビルの壁面を緑色塗料で塗ってみてもはじまらないだろう。……人びとの緑への渇望か、それとも失われた自然への反省かは知らないが、最近は、グリーン≠ネる言葉が、融通無碍(ゆうづうむげ)な価値のシンボルとなってきたようだ。

かつて、国鉄車両の等級は二等車、三等車というような呼称であったと記憶するが、現在は、普通車にたいする上級車をグリーン℃ヤと呼んで区別している。そしてまた、企業広告のキャッチ・フレイズに出てくるグリーン≠フ如何(いか)に頻度の高いことか。日本が、自然の緑≠フ無くなってきたことに気づいた時期と、言葉のグリーン≠ェ頻出(ひんしゅつ)するようになってきた時期とは、見事に一致している。私たちは、この言葉の遊びの本質を、よく考えてみる必要があるだろう」

よく考えてみてくださいね、おたがい自身のために、そして子どもたちのために!
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささらカルチャーブック p99-106)

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◎「つまり、もちあわせている言葉によって、感覚や認識も支配される」と。