学習通信070220
◎労働者への攻撃と、自民党政治の果たしている役割……
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弁証法とそれにもとづく活動
活動にとって弁証法のもつかかわりは重要である
哲学上でとくに、活動にかかわりをもつのは、弁証法だ。
ところで弁証法とは、どのような理論だろうか。理論的にくみたてられた世界観である哲学には、どうしても解決せねばならない問題がふたつある。その第一は、世界はなにからなりたっているか、なにが根源的なものであるかという間題だ。この間題が、さきに見たように世界は物質的なものであるか、それとも反対に精神的なものであるのか、という問題である。
もうひとつの問題というのは、世界はどんなふうに存在しているのか──どのようなありかたをしているのか、という問題である。この問題については対立するふたつの見かたがある。そのひとつは、世界にはさまざまな事物があるがそれらはみな、たがいのつながりなしにバラバラに、いついつまでも変わることなく存在しつづけるものだという「形而上学」の見かたである。もうひとつの見かたは、それとまったくぎゃくの、世界のさまざまな事物は、それぞれが他のものとたがいにつながりあい作用しあっており、永遠に変わらない事物は世界にないと見る、弁証法の見かたである。
活動ということは、対象のありさまをきちんと正確にとらえ、唯物論的に現実から出発することを重要とするが、その対象のありさまをとらえるには、弁証法が不可欠だ。つまり、弁証法をもたずしては、唯物論もつらぬきとおすことはできないのである。
また、こうも考えられる。活動とは、つねに具体的な事件、事態、人びとを対象としたものであり、そこの具体的な職場、そこの具体的な地域で活動するものであるということだ。ということは、活動家は、具体的な問題を具体的に解決する能力を求められているのである。具体的な問題を解決するのに、できあがりの答案や処方箋はない。具体的な問題を解決するカギは、その間題のなかに見いだされねばならないのだ。だがまったく私たちにたよりになる武器がないのではない。それは弁証法による武装(学習によって身につける)のなかに求められるのである。もちろん、情熱や根性も必要だ。だが、それが弁証法とむすびついていなければ、カラ振り三振をさけられまい。
レーニンが述べているように「……いま必要なことは、マルクス主義者は、いつまでも昨日の理論にしがみついていないで、生きた生活、現実の正確な事実を考慮しなければならないという議論の余地のない真理を習得することである」(『戦術にかんする手紙』)のだ。こうして活勤家たちが、生き生きと活勤し闘争するためには、間題を自主的に発見し、問題の解決を自主的に判断する能力をもつことが求められるのである。ここに、活動家が、弁証法をふかく会得せねばならぬ理由がある。
弁証法のとらえる世界観
弁証法による世界の一般的なとらえかたは、つぎのエンゲルスの文章にしめされている。
「われわれが自然、人間の歴史、ないしはわれわれ自身の精神活動を考察するばあいに、まず第一にわれわれのまえにあらわれるのは、もろもろの連関と相互作用がかぎりなくからみあった姿である。このからみあいのなかでは、どんなものももとのままのものではなく、もとのままのところ、もとのままの状態にとどまってはいないで、すべてのものが運動し、変化し、生成し、消滅している」(『空想から科学へ』)。
連関についての科学的な分析のためにたいせつなこと
世界像をこのようにとらえる弁証法は、「全体的連関についての科学」(エンゲルス)と規定される。
世界のすべてのものが、媒介され、連関し、ひとつのものに結びつきあっているということは、私たちに連関をとらえるものの見かたを要求する。
さて、事物にそなわっている連関をただしくとらえるには、どのような点に注意をむけなければならなぃのだろうか。
無限の連関を全面的に追求する
まず第一に、連関は無限であるというとらえかたにたつべきだ。
ここで、ひとつの労働組合をとりあげて考えてみよう。その組合がもっている力をただしくとらえようとするとき、組合幹部の意識を見るだけではとうていあきらかになるものでない。労働組合の力をただしくとらえるには、おおよそつぎのような諸連関、諸側面を見ることが必要であろう。たとえば、過去の闘争経験と訓練の程度、日常闘争の集積、階級意識の強弱、闘争の目的についての認識、統一と団結の強さ、資本の組織の有無、家族の支持、幹部の誠実さと能力、闘争の準備具合、資金、共闘の可能性などの諸要素があげられるだろう。
ここにしめされるのは、労働組合をかたちづくっているさまざまな連関をとらえることがその労働組合の力を判断するうえで欠けてはならないということである。もちろん、ひとつのものごとにそなわっている連関のすべてが把握されつくされるわけではない。それらの連関の全部が把握されたときにはじめて判断するというのでは、永久不変に「調査と研究」のくりかえしにとどまることになるだろう。しかし、「対象をほんとうに知るためには、そのすべての側面、すべての連関と媒介≠把握し、研究しなければならない」のであり、「われわれは、けっしてそれを完全に達成することはないだろうが、全面性の要求は、われわれに誤りや感覚そう失に陥らないように用心させてくれる」(レーニン『ふたたび労働組合について』)のである。
多様な連関のなかから本質的な連関をぬきだす
第二に、連関をとらえるうえで必要なことは、多種多様な連関のなかから、本質的な連関と非本質的な連関をはっきりと区別してとらえることである。
たとえば、さきにあげたひとつの労働組合の力を見るさいの諸要素にしても、それらを一律に均等の役割をもつものとは見なせない。そこでの本質的な連関としてあるのは、敵と味方との力関係だ。そして労働組合の力をきめるのは、労働組合の構成員の階級意識の強弱、日常闘争の集積などであるといえよう。もしも「資金ぐあい」が本質的な連関をかたちづくる内容だとするなら、それはたしかに労働組合の力にとって欠けてはならない要素のひとつではあるが非本質的な連関に労働組合の力をもとめることになるのである。
さまざまな連関、側面のなかで、なにを本質的な連関と見るかは、けっして主観の思いつきや願望によるものではない。そう考えてはならない。それを発見するには、客観的な連関の諸性質を分析し総合することが必要とされる。たとえば、連関する諸要素を、性質のうえで一時的なものと長期的なもの、外的なものと内的なもの、偶然のものと必然のもの、間接的なものと直接的なもの……といったふうに分析し、その分析のうえに長期的な、内的な、必然的な連関を総合することによって、本質的な連関を発見していくべきである。
こうしたとき私たちは、ものごとのもつ多様な諸側面に目をむけるとともに、そのなかから決定的な側面、本質的な連関をぬきだし、それをしっかり把握して活動することができる。そのときにはじめて、「あれかこれか」とか「これだけである」といった硬直した形而上学的な見かたや活動におちいることなく、また、「ああでもあるしこうでもある」といった折衷的な、混乱した見かたや活動にはまりこむこともなく、「あれやこれや」をとらえつつも「これが重要である」という決定的な側面をはっきりとらえ、柔軟であるとともに原則的である生き生きとした弁証法的な見かたと活動をうちたてることができるのである。
活動上での条件をただしくとらえること
第三に、連関を見るときにたいせつなことは、連関のなかにおかれたあるひとつの事物にとっては、他の事物との連関が条件として作用するということをあきらかにすることだ。したがって、連関とは、活動のうえでは条件と考えてもよい。
すべてのものごとが連関しあっているということは、いいかえると、すべてのものが具体的な条件をまとって存在しているということでもある。そうして、条件がかわれば、そのものもまたべつのものに変わるということを意味する。レーニンが述べているように「マルクス主義的弁証法の基本的命題は、自然および社会ではすべての限界は条件的であり可動的」だということである(『ユニウスの小冊子について』)。あるひとつの目的をもった能動的な活動のうえでは、すくなくとも、そのものがどのように有利な条件と不利な条件とをそなえているかを分析し、さらに、現在の条件とあたらしく創りだされる条件とを分析することが、必要とされる。
条件を無視して、ものごとの客観的実態をただしくとらえないとすれば、しばしば「左」の偏向やかたむきにおちいることになる。「有利も不利もない。間題はやる気があるかないかだ」といったような態度がそれだ。だが、ぎゃくに、「条件万能」の見かた、つまり、条件の不十分さをかぞえたてるだけで、活動の能動性とむすびつけてものごとをとらえない見かた、もっぱら不利な条件だけをならべたてる見かたは、しばしば右の偏向や、かたむきにおちいるのである。自分たちの意志や努力は棚あげにして、条件だけをああだこうだというのがそのたぐいだ。
では、われわれは条件にたいしてどのような態度をとるべきなのか。それは、条件を分析し、その分析のうえに立って主体的な活動をおこなうことである。これは、条件無視でも条件万能でもない。これがものごとにたいする唯物論的でもあり弁証法的でもある態度だ。
条件の分析にあたって、どんなばあいにもはっきりととらえねばならないのは、そこにどのようにおおくの有利な条件があったとしても、同時にまたそこにはかならず、なんらかの不利な条件が存在しており、またその逆のばあいにしても、かならず二つの条件がそなわっているということだ。
私たちが有利な条件だけをとらえて活動をすすめるならば、かならず不利な条件の作用によって活動がうまくすすまぬという事態にぶつかるだろう。また、不利な条件だけを見て、有利な条件をとらえないとしたら、活動に確信をもてず、展望をもってことをすすめられないということになるだろう。
だが、とくにここで指摘しておかねばならないのは、おうおうにして指導するがわは、活動のきびしさや不利な条件、困難な条件を小さくとりあつかうか、あるいは見ないよそおいをとって、有利な条件≠ニ願望だけを述べようとしがちになることだ。極端なばあいには、勝手気ままに「有利」な、好みの材料だけをかき集め、つなぎあわせて、それに原則と理論をかぶせて人びとを活動とたたかいにむけさせようとする一面性をもちやすいということだ。
もちろんこれは、弁証法的でない。全面的に有利と不利な条件を分析し、そこにある不利な、困難な条件をかくしてはならないのだ。そこの具体的な部署にいる人びとは、もっとも敏感に不利な、困難な条件を知っており、感じているのである。指導がただしい原則に立っているならば、大衆を信頼し、大衆の創造的な力をひきだし、その不利な、困難な条件の克服をよびかけるべきだ。
他方、指導されるがわは、困難や不利な条件をとくにおおきくとらえがちであるという一面性をもちやすいことにも注意をむけねばならない。それは、全体をとらえることよりも、そこの具体的な職場や地域での、狭い「現実」のなかの複雑さを直接的にかかえていることのあらわれでもある。
われわれにとって必要なのは、有利な条件と不利な条件をつまびらかにし、そのうえにいかに、有利な条件を拡大し発展させ、いかに不利な条件をせばめ克服していくかというふうに問題を立てることである。こうして活動の方向、ありかたを具体的にあきらかにすることができる。
さらに、条件にたいする分析で必要なのは、現在の条件を分析することから出発するとともに、主体的な、能動的な活動によってどのようにあたらしい条件を創造するかということを統一してとらえることだ。たしかに、現在の条件が、不利な、困難なものであっても、能動的なはたらきによってどのようなあたらしい条件が創りだされ、また創りださなければならないのかを見とおしてこそ、展望をもった活動がうまれるのである。
この二つの側面をバラバラに切り離すときさまざまなゆれが生まれる。つまり、いまの条件だけにとらわれているとき、保守的な、右の偏向やかたむきが生まれやすく、また、あたらしく創りだされる条件だけに目をむけるとすると、現状を無視した「左」の偏向やかたむきが生まれやすいのであるといえよう。
こうして連関についての弁証法的な見かたを活動にかかわらせるとき、問題はきわめてゆたかなかたちで提起されるのである。「現実のあらゆるとりあつかいかた、近づきかたの無数の色あい……をもつ、生き生きとした、多面的な(しかも側面の数はたえず増していく)認識としての弁証法」(レーニン『哲学ノート』)が、私たちにとって身近かなものとなるのである。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p34-44)
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職場問題学習・交流講座への報告
幹部会委員長 志位 和夫
三、職場の現状をどうとらえるか
――現状打開は日本社会の切実な要請
(3)職場の矛盾をどうつかむか
――三つの観点でとらえる
政治を変えることと、職場を変えることは、一体の問題
第三に、財界・大企業による労働者への攻撃と、自民党政治の果たしている役割との関係が、こんなに見えやすいことはないということを、強調したいと思います。
この間、自民党政府は、一方で企業分割、営業譲渡、事業持ち株会社など企業法制を改悪して、解雇・リストラを後押ししてきました。他方では、派遣労働の拡大など労働法制の連続改悪によって、ただでさえ貧困な働くルールをいっそう破壊してきました。
派遣労働を専門職から一般業務に原則自由化する大改悪がおこなわれたのは、一九九九年の法改悪でありましたが、このさいには、わが党以外のすべての諸党――自民・公明、民主などの賛成によって改悪が強行されました。
いまおこなわれている公務員攻撃も、自民・民主が競い合ってのものであります。政府・与党が、「五年間で国家公務員の5%、地方公務員の4・6%を削減する」法案を提出すれば、民主党は、「国家公務員の総人件費を三年で二割削減する、能力評価制度を構築し、不適格な職員には適切な処置を取れるようにする」という、政府・与党案をさらに上回る削減をすすめる「対案」を提出しました。
いまの生活と労働の苦しみの根源に、こうした自民党政治の政治悪があること、政治を変えることが、職場を変えることと一体の問題であることを、労働者に広く語ろうではありませんか。
日本の階級構成の八割をしめる労働者階級がおかれている深刻な現状を打開することは、日本国民の現在と未来にとって重大な意義をもつたたかいであります。日本共産党と、その職場支部の果たすべき役割はかけがえないものがあることを、強調したいと思います。
(2006年4月25日(火)「しんぶん赤旗」
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◎「活動家は、具体的な問題を具体的に解決する能力を求められている」「具体的な問題を解決するのに、できあがりの答案や処方箋はない」「具体的な問題を解決するカギは、その間題のなかに見いだされねばならない」と。