学習通信070223
◎妥協にもいろいろある……

■━━━━━

ドロをかぶる姿勢をもて

 労働組合の日常のたたかいは改良のたたかいです。だから、資本とのたたかいでは、一定の条件のもとでは妥協します。

 一つのたたかいで、組合幹部は解決の腹案ももたず、いつ頃までというメドももたずに、ただたたかえというだけでは、組合員はたたかいに背を向けるようになります。労働者の性格は一般的にいって淡白です。悪くいえば、熱しやすくさめやすい性格をもっています。このことから、労働者は節度のあるたたかいを要求しています。

また、戦術的にみても、たたかいに節度は必要です。一つひとつのたたかいに区切りをつけ、そのたたかいの成果と欠陥をふまえ、これをつぎのたたかいに生かすことです。労働者の要求を部分的ではあっても実現し、それを足場としてつぎのたたかいを準備することは、味方の戦列をかため強化する道であり、大切なことです。

 この場合、当然、資本との妥協が必要です。わたしたちは資本とのたたかいのなかで、妥協することをおそれる必要はありませんが、妥協する場合、一定の条件がみたされているかどうかを、組合幹部はいつも考えなければなりません。

その条件とは、@組合員の要求は一定の前進的解決をはかれること、Aこの妥協によって、ひきつづいて、つぎの新しいたたかいを準備することができること、B妥協によって、組合員に敗北的意識を与えないこと、C妥協によって、組織の団結に一定の前進がはかられるものであること、D幹部が妥協を決意するときには、組織にはまだ一定の余力が残されていること、などを条件としてあげることができるでしょう。

 幹部は闘争妥結の時期、内容を誤ってはなりませんが、そのために大切なことは、妥結する内容が組合員大衆にうけいれられるかどうかの見とおしをもつことです。もちろん、重要な問題は職場討議にかけるにしても、組合員大衆の承認をうる見とおしもなしに、職場討議にかけると、かえって労働者を動揺させ、混乱させることになります。また、資本との交渉にあたり、どこまで譲歩させたら組合員大衆の承認をもとめることができるかという見とおしをもっていないと、資本からの譲歩をかちとることができません。

 そして、幹部は資本と妥協するときは「泥をかぶる」ことをおそれてはなりません。妥結事項について、組合員からいろいろつき上げられると、「オレがやったのではない」、「オレはその時いなかった」といいわけをあれこれいう人がいます。これでは、組合員大衆の幹部不信がいつそうつよまります。

 組合員は、いまのきびしい情勢と力関係のもとで、要求を全面的に解決することのむずかしさをよく知っています。労働者は賢明です。だから組合員大衆から承認されない妥結事項は、すなおにやりなおす率直さが組合幹部にとって大切ですが、同時に、「泥をかぶる」ことを辞さない責任をもつ、つよい態度がないと、組合幹部は大衆からも信頼されないし、資本との闘争で譲歩をかちとることもできません。
(細井宗一著「労働組合幹部論」学習の友社 p50-52)

■━━━━━

 武装したギャングが、君の自動車を停止させたと思いたまえ。君は、彼らに金、居住証明書、ピストル、自動車をあたえる。そうすると君は、ギャングとの愉快なおつきあいから解放される。これが現に妥協であることは、疑う余地がない。〈Do ut des〉(「私は」君に金、武器、自動車を「あたえるが、それは君が」私にぶじに逃げる機会を「あたえるようにするためだ」)。

しかし、気ちがいででもないかぎり、このような妥協を「原則的に許されないもの」と言ったり、このような妥協を結んだ人物をギャングの協力者だと称したりするような人間を見つけることはむずかしい(たとえギャングが自動車に乗りこんだのち、新たな強盗行為のために自動車と武器を使用するおそれがあるにしても)。ドイツ帝国主義というギャングとわれわれとの妥協は、このような妥協に似ていた。

 だが、ロシアのメンシェヴィキとエス・エル、ドイツのシャイデマン派(カウツキー派もかなりの程度まで同じことである)、オーストリアのオットー・バウアーとフリードリヒ・アードラー(レンナー氏一派はいうにおよばず)、フランスのルノデルとロンゲの一派、イギリスのフェビアン派、「独立労働党員」、「労働党員」(「レ-バーライト」)が、一九一四ー一九一八年と一九一八ー一九二〇年に、自国の革命的プロレタリアートに対抗して、自国のブルジョアジーや、ときには「連合国」のブルジョアジーというギャングと妥協を結んだとき、そのときこそ、これらのすべての諸君は、ギャング行為の共犯者として行動したのである。

 結論ははっきりしている。

妥協を「原則的に」否定し、どんなものであろうと一般に妥協はいっさい許されないと主張するのは、児戯に類することであり、まじめにうけとることさえできない。

革命的ブロレタリアートの役に立ちたいと思う政治家は、許せない妥協、まさに日和見主義と裏切行為の現われであるような妥協の具体的な場合をとりだして、批判の力、容赦ない暴露と非妥協的な戦いとの鋒先をあげてこれらの具体的な妥協にむけることができなければならないし、海千山千の「実利的な」社会主義者や議会的権謀家が、「妥協一般」論で言いぬけたり、責任のがれをするのを許さないようにしなければならない。

イギリスの労働組合や、さらにフェビアン協会と「独立」労働党の「指導者」諸君は、自分が裏切行為をおかした責任、実際に最悪の日和見主義、背信、裏切行為を意味するような妥協をやった責任を、まさにこのようにして言いぬけようとしているのである。

 妥協にもいろいろある。それぞれの妥協について、あるいは妥協のそれぞれの変種について、その状況と具体的な条件を分析することができなければならない。

ギャングからうける被害を少なくし、ギャングを逮捕し銃殺する仕事をやりやすくするために、ギャングに金と武器をあたえた人と、盗品の分配にあずかるために、ギャングに金と武器をあたえる人とを区別することを学ばなければならない。

政治上では、これは、こどもにでもわかる単純な実例の場合のように、いつでも容易なわけではけっしてない。

だが、生活上のあらゆる場合のためにできあいの解決策をあたえたり、革命的プロレタリアートの政治には、どんな困難も、どんなこみいった状態も生じないであろうと約束したりするような処方箋を、労働者のために考えだそうとする者は、まったくの山師であろう。
(レーニン著「共産主義内の「左翼主義」小児病」レニン8巻選書H 大月書店 p270-271)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「幹部は資本と妥協するときは「泥をかぶる」ことをおそれては」ならないと。