学習通信070301
◎おまえはこの生活にうち勝つ努力をしてみたか?……

■━━━━━

 コルチャーギンは両手で頭をかかえて、苦しそうに考えこんだ。かれの目の前を、幼年時代から最近にいたるまでの全生涯が走り過ぎた。かれは二四の生涯をりっぱに過ごしただろうか、それともぶざまに過ごしただろうか? 過ぎ去った年月を記憶に甦らせながら、公平な裁判官として自分の生涯を点検してみて、それほど悪いものでなかったと、深い満足のうちに確めることができた。

だが、強情さのために、若さのために、何よりもまず無知のために犯した過ちも少なくなかった。けれどももっとも大切なこと──それは、あの熱戦の日々を無為に過ごさなかったということ、権力を守るための断固たるたたかいにおいて、自分も部署を見出したということ、また革命の真紅の旗には、みずからの血の数滴も注がれているということであった。

 力の失せぬかぎり、かれは戦列を離れなかった。いまかれは打ちのめされて、戦線をささえることができない。そして、かれに残されている道はただひとつ──後方の病院に去ることだった。

かれは、ワルシャワをめざしてなだれのように進撃して行ったときのことをおぼえている。弾丸が一人の兵士を射ち倒した。兵士は、馬の足もとの、地面に落ちた。同志たちは負傷者に手早く包帯をかけ、看護兵に渡した。そして、敵を追ってさらに進んで行った。騎兵大隊は、一人の兵を失っても追撃をやめなかった。偉大な事業をめざすたたかいはこのようであったし、またこのようでなければならない。確かに例外はあった。かれは、足のない機関銃手たちが、機関銃搭載二輪車に乗っているのを見たことがある。これは敵にとって恐るべき人たちたちだった。かれらの機関銃は、死と壊滅を敵にもたらした。鉄のような忍耐力と狙い正しい目によって、かれらはそれぞれ連隊の誇りとなった。だが、こういう人は数少ない。

 打ち砕かれ、戦列にもどる希望が失われた今、かれは自分をどう扱わなければならないのか? これから先、何かもっと恐ろしいことを予想しなければならないのだと、バジャーノワから聞かされたのではないか。どうすればいいのか? この解決しがたい疑問へ恐ろしい黒い境目になって、かれの前に立ちはだかっていた。

 すでにもっとも大切なもの──たたかうカを失ったとき、なんのために生きるのか? 現在および希望なき明日の生活を何によって是認するのか? 何によってそれを満たすのか? 食って、寝て、呼吸するだけなのか? このまま同志たちのたたかいと前進との無力な証明者となり終わるのか? 戦列の重荷となるのか? かれを裏切った肉体を始末してしまったらどうだ? 心臓に一発──それで終わりだ! 悪くない人生を送ることができた。だから、機を失うことなく死ぬことができな計ればならない。臨終の苦悶をのぞまない戦士をだれが咎めるだろう?

 かれの手はポケットのなかで、ブローニングの滑らかな肌をさぐった。指は習慣的な動作で銃把をつかんだ。ゆっくりとピストルを取り出した。

 ──おまえが今日まで生きのびられようとは、いったいだれに考えられただろう?

 銃口はさげすむようにかれの目をのぞいた。パーベルは、ピストルを膝の上に置いて、腹立たしく悪態をついた。

 ──こんなことはみな、紙の上のヒロイズムじゃないか、おい! 自殺なんて、どんなばかだって、その気にさえなりゃ、いつでもできる。こいつがいちばん臆病で、安易な解決策だ。生きるのが苦しい、だからどかんと一発やって倒れるというわけだ。

ところで、おまえはこの生活にうち勝つ努力をしてみたか? 鉄の環から説け出すために、やれるだけのことをやってみたというのか? ノボグラード・ボルインスクの郊外で、日に一七回も突撃をがけ、あらゆる困難を排してとうとう占領したあのときのことをおまえは忘れてしまったのか? ピストルをしまうがいい。そしてだれにもこのことを口外するな、生活が耐えがたいものになったときにも、なお生きて行かれるようにするんだ。そうやって、生活を役に立つものにするんだぞ。

 立ちあがって道路へ向かって歩き出した。
(エヌ・ア・オストロスキー著「鋼鉄はいかに鍛えられたか 下」新日本出版社 p225-228)

■━━━━━

 作者オストロフスキーは、このような時代を、その全身で生きた。ただ全身で生きただけではなく、人びととともに、人びとのしあわせをもとめて生きた。

かれは死の一カ月まえにこう書いている──「人間が自分のためにではなく生きているときには、かれが社会的なもののなかにとけこんでいるときには、かれを殺すことは困難である──周囲のもの全部を、全国を、全生活を段さなければならぬことになるではないか」

 人びととともにあること──ここに、どのような困難にもたじろかず、オストロフスキーがつぎのような高貴な思想と決意をかたる鍵がある。「人間にとってもっとも美しいものは、自分が存在をやめるであろうときにも、自分が作ったすべてのものによって人びとにつかえることである」。「もしわたしのオルガニズムのせめて一つの細胞でも生きうるならば、反抗しうるならば、わたしは、生きるであろう、わたしは反抗するであろう」。

 オストロフスキーの生涯は、この「生きるであろう、反抗するであろう」という決意のあらわれにほかならない。想像を絶する肉体的・精神的苦痛の連続を、かれはこの決意につらぬかれて生きてきたことを、わたしたちはこの小説のなかに、数かぎりもなくみいだすことができる。

 しかしその最大の試練は、全身不髄、盲目となってあらわれる。死を思わせる幾夜かがつづいたが、肉体は破壊されてもことばがのこっている、かれは、自分のこれからの生涯を、自分の生活体験によってえた決意、あの「……生きるであろう、反抗するであろう」という決意を、ソビエト人教育のために、ことばによって語りつくすことにささげようときめた。つまり作家になることに自分の使命をみいだしたのであった。

 執筆は困難をきわめた。トランスパラント(行にあたる部分を切りぬいたボール紙で、これに白紙をさしこんで切りぬきにそって字を書く)をつかって書いたが、のちには夫人の助けをかりて口述筆記にかえ、特別な記憶力によって稿をすすめていった。この作業がどんなにつらいものであったか、わたしたちは、小説のなかで読みとることができる。

 しかし、オストロフスキーのこの苦痛はむくわれた。
(エヌ・ア・オストロスキー著「鋼鉄はいかに鍛えられたか 上」新日本出版社 p223-224)

■━━━━━

大幡……宮本委員長自身も非常にすぐれた文芸評論家でもありますが、文学と生き方がどういうふうに結びついているのか、この点をうかがいたいんですが。

「数奇な運命」をのりこえて

宮本……うーん、私はもともと、なにも、政治家になろうとか、いわんや共産党の指導者になろうと思ったことは一度もなかったんでね。党に入る場合も、さっきいったようにこれは理性の声だ、こういう理論を正しいと思う以上、そういうことが生き方として正しいんだと思っただけなんで……。

 スタートは、たまたま文芸評論を書いたわけですね。芥川龍之介が死んだとき、私は高校の三年だったかな、一九二七年ですね。ちょうど、松山から、汽船で呉に行く途中のその日の朝の新聞でみておどろいたのをよく覚えています。

 ちょうど社会科学を学ぶときに、文学運動に関心もったということは、プロレタリア文学運動からですね。あの当時の『文芸戦線』という雑誌が出たんですが、それに高校時代に原稿を頼まれました。頼んできたのは、いまの山田清三郎さんで、彼が『文芸戦線』の編集長で、そこに小さいもの書いたんです。だから文学に関心があっても、自分で評論家になろうとも思っていなかったのが、たまたま芥川に関心があって……。

 「或阿呆の一生」という彼の遺作には、胃の短かいロシア人≠ニいうがたちで、レーニンのことを書いています。現実をもっともよく知っている人間だけれども、もっとも理想に忠実だった英雄として書いているんですね。彼には、そういう菊池寛とか久米正雄とかとは違って時代的関心もあった。それが私が芥川論を書く一つの動機になって、結局芥川は時代に負けたんだ、生きぬけなかったという立場で「『敗北』の文学」を書いたんです。

 大学を出て党に入って、すぐ作家同盟(ナルプ)にも入ってからも文芸時評論を書いていた。さらに地下活動のなかで文化運動を担当するといういきがかりじょうそうなった。当時、党員はどんどん捕まって、さっきもいったように二年もたてば古い方だから中央委員にもなる。そのころの指導部は野呂栄太郎君が中心だったけれども、私も「赤旗」の指導とか、党の全面の指導に協力するようになる。そのうち野呂君も捕まり、だれもいないわけだから、いやおうなしに、自分が希望して、政治家になるとか、あるいは党の指導部に入ることをまったく予想していなかった。もう人がいなくなって……(笑い)。だんだん、追いやられるという意味なんです。

 このあいだある評論家と対談したら、あなたは文芸評論を書いていたら、小林秀雄といっしょに出たんだから、その方でもずいぶん仕事ができたんじゃないですか、といっていたんですけど、、まあ、自分で仕事が選べなくなったわけでね。

 戦後も非転向の人が少ないでしょう。それで党の指導部に入らざるをえない。そんな状況のなかで、自分が文芸評論を書きたいから、ひとつ辞めさせてくれとはいえないわけだなあ(笑い)。

 たまたまマッカーサーの弾圧を受けて、パージで公然と政治活動ができない、党が不幸にして分裂した。それから党内の状況もまだ正しい統一の方向が出てこない状況があって、ほとんど仕事もなかった。それで一九五一年に河出書房から宮本百合子の全集が出始めたから、書店の希望があって全集の解説を二年間ぐらい書いた。本来ならばとてもそういう余裕がない時期だったんだけれども、たまたま党が混乱し、弾圧をうけた時期だから書いて、それが『宮本百合子の世界』(新日本出版社)という本にまとまっているわけです。

 私が最近、文芸評論の第一巻のあとがき≠書いたのも、これはいろんな事情で遅れて、ちょっと目を悪くしたことがありましてね。これだけ厚いものを短時間に一挙に読んでメモをとったりなんかして、目を悪くして、それで非常に遅れたんだけど。あとがき≠書かなければ文芸評論の一巻が出ないままでは首尾一貫しないので、とくに党に一定の時間的な余裕をもらってやっと書いた。

 あの当時のプロレタリア文学運動というのは、先駆的役割を果たしたけれども、まだ国際的にコミンテルンその他の情勢判断の制約の影響もあるし、日本の運動の未熟さやわれわれ自身も未熟なところがあって、作品の見方その他の批評に非常に硬直したところがあったと思う。これはいまの立場から、いまの到達点から見れば分かるわけですね。

 だから私がすぐれているからというんでなくて、いまの運動自体がそこまで来ている。だから、その運動の立場から見ればこうだといえるんです。蔵原こ惟人君も非常に立派な文芸評論の大家なんだけれども、まだ当時、彼も二十代、小林多喜二も二十代だった。今回、そういう若い者が一生懸命やった運動を、歴史的に見ればどうだと、総括ができるような条件になったので、やっと一昨年(一九八〇年)十月に書き終えて、その点でホッとしています。複雑な時代のことだから果たして書けるかどうかということを心配していた人もいたらしいけど(笑い)。

 政治闘争というのは、科学的な立場からいえば階級闘争の中心ですね。党と党の争いというのは、レーニンもいっているように、広い意味での政治の方向というのは結局、社会発展の方向を集中的に示すわけだから、これは非常に責任があるものです。

そして同時に文学とか、芸術というものも人間を豊かにする人類の伝統ある社会活動なんで、結局、各自が才能に応じて自分の部署を選べばいいんですね。才能ある作家や評論家がなにもそれをやめて一律に党の専従になることが、政治の主導性ではない。

その点では、戦後たくさんの運動分野があって、みんな正しく才能に応じた配置につけるような状況になってきている。だから、学生の人のなかでも、若い人のなかでも、文学に才能ある人は今後とも日本の文学運動に参加すればいいんです。たまたま私はそういう点では数奇な運命にめぐりあって(笑い)。
(宮本顕治著「宮本顕治青春論」新日本新書 p79-83)まえがき

■━━━━━

まえがき

 レーニンの「カール・マルクス」という論文は、不思議な魅力をもった論文である。これは普通、マルクスの理論のまとまった初歩的な解説として読まれていて、私自身も、科学的社会主義の理論に親しみはじめたごく初期のころに、そういうものとして読んだものだった。敗戦直後の紙不足の時期で、うすいパンフレットとして出版された「カール・マルクス」を手に、マルクス理論とはこういう組立てで、こういう内容のものかというあらましをつかむことができた。

 ところが、この論文を、レーニンが書いた言葉を一つ一つ吟味して読もうとすると、なかなか大変である。「マルクスの学説」の最初に出てくる哲学的唯物論の部分にしても、経済学説の部分にしても、これを読みこなすには、マルクス、エンゲルスの古典や関連するレーニン自身の著作を相当勉強しなければならないし、それでもレーニンが何をいわんとしているのか、また何のためにこういう順序で論を展開しているのかを読みとるには、かなりの苦労がいる。とくにプロレタリアートの階級闘争の戦術の部分は、各所で、マルクス、エンゲルスの書簡を参照せよという指示が、原書のページ数でおこなわれていることもあって、私自身かなり長い間丹念な研究はしないですましてきた。

 その後、日本共産党の中央党学校で科学的社会主義の講義を何回か受け持ったことがあった。私はテキストにはいろいろな古典を使った。『反デューリング論』の大冊を二日間の講義で一応こなしたり、『空想から科学へ』、『家族、私有財産及び国家の起源』なども使ったが、ある時、「カール・マルクス」をテキストに科学的社会主義の学説全体の解明を試みたことがあった。八年前のことである。

講義するつもりで論文の全体を読んでみると、自分ひとりで読む時とは違って、わかりにくいところを軽く読み飛ばすわけにはゆかず、いたるところで頭をひねりながら、この論文の内容の深さをあらためて痛感したものだった。このとき、この論文は広く読まれている割りには内容を解明した書物がほとんどないことにも気付いた。それ以来、今回の講義の執筆までには、かなりの時間がたっているが、この経験を経て、論文「カ−ル・マルクス」のたちいった解説が必要だと内心考えるようになった。

 一九八五年春、マルクス、エンゲルスの往復書簡集にたいするレーニンの「摘要」を読む機会を得たことも、「カ−ル・マルクス」の解読を助けることになった。この「摘要」を読むと、レーニンが、哲学、経済学から階級闘争の戦術まで、マルクス、エンゲルスの思想や見解が生成・発展する生々しい過程にはじめて触れ、その神髄にせまってゆく感激が、一ページーページから伝わってくる思いがした。この「摘要」はまだ翻訳書が出ていないため、自己流の翻訳ノートをつくり必要に応じて目を通しているが、マルクス、エンゲルスとレーニンの理論的な継承・発展の関係を探るうえで必須の文献だと、私は位置づけている。ともかく、「カール・マルクス」を読む仕事も、この「摘要」で大いに助けられた。

 一九八六年九月、日ソ両党首脳会談の仕事でモスクワを訪問した時、書店で、この論文のレーニンの手稿のフアクシミリ版を見つけた。数年前の発行だったが、レーニンがある項目を一応書きあげたあとで、考えが発展したのだろう、あとからの大幅な書込みをしたり、この論文を推敲しながら仕上げてゆく過程が、ある程度わかる重要な資料だった。

 こんな経過があって、昨年の療養中に、講義形式で、「『カール・マルクス』を読む」の執筆を思いたったわけである。療養といっても、六月の退院以後、とくに七月末に心臓の血管拡張術(PTCA)の手当てを受けて以後は、三ヵ月後の再検査までの待機期間ともいうべき性格のものだったから、丹沢の山荘でその大部分を過ごし、毎日二時間ほど山裾歩きなどをおこなう一方、日頃心にありながら、時間の余裕のないまま手をつけられないできた理論的な仕事にとりくむ、という三ヵ月だった。

八月から九月半ばにかけて、「「資本主義の全般的危機』論の系譜と決算」の執筆、それから「『自然の弁証法』──エンゲルスの足跡をたどる」の執筆、そして十月後半から、この「レーニン「カール・マルクス」を読む」にとりかかった。連載を予定していた『月刊学習』の編集部とは、十二月号からという話にしていたが、第一回分を編集部にわたす十一月はじめまでには、九回分の全体をほぼ書きあげて、あとは毎月若干の補筆・整理をしながらわたすようにしたから、これも療養中の作品に数えてよいだろう。その過程では、数年前のイタリア訪問の時に手にいれた『獄中ノート』のあちこちに、辞書と首引きで目を通しながら、二十年ほど中断していたグラムシの研究に再びとりくむことなどもした。

 そういう意味で、今年刊行した三つの著作──『「資本主義の全般的危機論」の系譜と決算』、『「自然の弁証法』−エンゲルスの足跡をたどる』、『レーニン「カール・マルクス」を読む』は、この療養期間の所産として、私にとって特別の意味を持つ作品となった。

個人的な事情をのべさせてもらえば、今年は、私たち夫婦の結婚三十五年に当たる年である。思い返してみると、この三十五年の歴史のなかで、昨年六月から十一月までの療養期間は、二人にとって、いわば二十四時間の生活をともにしつづけた責重な五ヵ月間となった。こうした療養生活自体が私には最初のことであったし、妻との共同生活の新しい経験という意味でも、この三十五年の経過のなかではじめてのできごとであり、私たちの生活の歴史に一つの記録を刻む意味をもっていた。その時期の所産である三つの著作を、一つの節目ともいうべきこの年に刊行できたということには、過去と現在を集約した感慨とでもいうか、私にとってひときわ深い思いがある。

 最後に、もう一度レーニン「カール・マルクス」に帰るが、私は、今回の講義執筆を通じて、この論文が、科学的社会主義の学説のもっとも的確な概説であること、またそれが、この学説のきわめて深い、レーニンならではの研究の成果であることを、あらためて痛感させられた。同時に強調しなければならないことは、科学的社会主義の理論と実践は、それ自体が時代とともに、また人間知識の発展とともに生きて発展することを本質的な特質としたものであって、レーニンのこの論文自体も、その時点での概括という歴史的性格をもっていること、そういう読み方をしてこそ、レーニンの精神を、科学的社会主義の現代的な把握と研究に真に忠実に生かすことができるということである。

レーニン自身、マルクス主義の総括的な整理には、論文「カ−ル・マルクス」以外にも、さまざまな試みをおこなっている。この本には、レーニンがその一年ほど前に書いたもう一つの論文「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」の解説をもあわせて収録したが、読者が注意深く読まれるなら、あれこれの間題についての違った角度からの論及や、多少ニュアンスの異なる定式などがあることに気付かれるだろう。

また別の機会に(一九〇八年または一九〇九年)、おそらくロシアの若い同志たちのためにであろう、マルクス主義の講義をおこなった講義プランが、残されているが、そこでは、マルクス主義を、(a)剰余価値の理論、(b)経済的発展、(c)階級闘争、(d)哲学的唯物論の順序で講義することになっており、ロシアの先行する諸思想との関連や、ロシアの経済発展の解明がとくに重視されていることがわかる。そして「マルクスの理論=全一的な世界観」という規定が、すでにここに現れていることは興味深い(全集E二六七ページ)。

 レーニンの二つの論文についてのこの研究を、レーニンの探究の到達点を深く正確に把握することで、「全一的な世界観」としての科学的社会主義のより全面的な理解に役立てるとともに、現代の世界と日本で活動するものとして、理論と実践の神髄を発展的につかむうえでも、一定の足がかりとしていただければ、幸いである。
 一九八八年八月
    不破哲三
(不破哲三著「レーニン「カール・マルクス」を読む」新日本出版社 p1-5)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
「人間にとってもっとも美しいものは、自分が存在をやめるであろうときにも、自分が作ったすべてのものによって人びとにつかえることである」。
「もしわたしのオルガニズムのせめて一つの細胞でも生きうるならば、反抗しうるならば、わたしは、生きるであろう、わたしは反抗するであろう」。