学習通信070305
◎武器としてつかいこなす……

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(3)職場の矛盾をどうつかむか
   ――三つの観点でとらえる

 以上のべてきたように、今日、労働者の状態悪化はきわめて深刻なものですが、こうした職場の矛盾をとらえるさいにいくつか大切な観点があります。

財界の職場支配をみずから掘り崩す深刻な矛盾が

 第一は、これらの攻撃が、労働者・国民との矛盾を深めるとともに、財界・大企業の職場支配をみずから掘り崩す深刻な矛盾をつくりだしていることであります。メンタルヘルスによる損失は年間一兆円にのぼるとの試算もあります。労働事故・労働災害の多発も深刻です。技術の継承ができないことによる品質の劣化が重大問題になっています。トヨタや三菱など自動車のリコールの急増、JR西日本の尼崎での大事故、日本航空の事故の続発など、社会を揺るがす事態が繰り返されています。

 日本経団連では、毎年、『経営労働政策委員会報告』という報告書を出していますが、これをみますと、財界の危機感がリアルにのべられています。

 その二〇〇四年版では、「従来ほとんど起こらなかった工場での大規模な事故が頻発している。……一連の事故は、高度な技能や知的熟練をもつ現場の人材の減少、過度の成果志向による従業員への圧力が原因ではないか、との指摘もある」とのべています。いったい「人材の減少」をすすめ、「成果志向」をあおり立ててきたのはだれなのか、といいたくなるわけですが、こういうことを自らいわざるをえないのです。

 また二〇〇六年版では、「職場内のメンタルヘルス問題は、従業員本人のみならず、職場の作業能率・モラールの低下を招き、経営上の重要な問題となる可能性がある」「よい人間関係が存在しない荒涼たる職場に、高い生産性は望めないし、問題解決能力を期待することはむずかしい」などとのべています。これも、自分で「荒涼たる職場」をつくりながら、よくもそんなことが言えるなというものですが、彼らの危機感が伝わってくる記述であります。

 政府の調査でも、成果主義賃金の導入後、「うまくいっている」と評価している企業は、15・9%にすぎず、手直しをはじめる企業も生まれてきています。過酷な労働者支配が、自らの支配を掘り崩す――この矛盾を正面からとらえることが大切であります。

労働者・国民のたたかいによってこそ、現状打開がはかられる

 第二に、それにもかかわらず、政府・財界は、人間らしい労働の破壊による搾取の強化という道を、自らただそうとはしない。この面もみておく必要があります。それどころか日本経団連の指揮・号令のもとに、労働法制のいっそうの改悪の動きがおこっていることを直視しなければなりません。

 大会報告では、昨年九月に発表された厚生労働省の「今後の労働契約法制のあり方に関する研究会」の最終報告で、労働条件の一方的な切り下げを可能にする「労使委員会」の設置、解雇の金銭的解決制度の導入による労働者の解雇の自由化、ホワイトカラー労働者の残業代をただにする方向での労働時間規制の緩和など、現行労働法制の事実上の解体に導く重大な法改悪がくわだてられていることを告発し、労働組合の立場の違いをこえた団結で、このくわだてを打ち破ることをよびかけました。

 その後、この最終報告にもとづいて、厚生労働大臣の諮問機関である労働政策審議会で、論点整理の審議が開始され、来年の通常国会には法案として提出しようという動きがおこっていることは、きわめて重大であります。

 財界・大企業は、自らの職場支配がどんなにゆきづまっても、また、それが自らの職場支配を土台から掘り崩す矛盾をつくりだしていても、自らそれをただそうとはしません。ここには、マルクスが『資本論』のなかで、「資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」とのべた法則が働いているのであります。労働者・国民のたたかいによってこそ、職場の状態悪化の打開をはかることができる。このことを銘記して、奮闘しようではありませんか。
(「赤旗」2006425 「職場問題学習・交流講座への報告)

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「対立物の統一」の法則は、具体的な分析の武器

 私たちは、セミがふるいカラをぬぎすててあたらしく再生するように、自然と社会の全体にわたって、たえずあたらしい事物が勝利し、ふるい事物がほろびさっていくという発展の過程が進行しているのを見いだす。

 どうしてその発展がひきおこされるのか、発展の原動力はなんであるかを世界観のうえで解決しておくことは、活動とたたかいにとってきわめて重大なかかわりをもつ。なぜならば、発展の原動力をどう見るかによって、私たちの考えかたや活動のありかたが左右されるからである。

 弁証法は、発展のみなもとが、事物の内部にそなわっている「対立物の統一」(矛盾)にあるととらえる。それによって「いっさいの存在するものの『自己運動』を理解する鍵」(レーニン『哲学ノート』)が私たちにあたえられるのである。

 「対立物の統一」の法則は、対立する両側面のあいだには相互排斥、相互否定の「対立物の闘争」が無条件に、絶対的につらぬいていること、また、それによって発展がひきだされること。さらに、対立物の両側面のあいだには相互依存、相互浸透の「対立物の統一」が、条件的、相対的に存在することによって「対立物の闘争」に一定の影響をおよぼしていることをあきらかにしている。

 この「対立物の統一」の法則は、私たちの活動とたたかいにとって、はかりしれない具体的、実践的意義をもつ。なかでも、「具体的な問題を具体的に分析する」というものの見かたと活動に、この「対立物の統一」の法則が生き生きとこなされなければならないといえよう。なぜならば、「マルクス主義の本質的なもの、マルクス主義の生きた魂は、具体的状況を具体的に分析することである」(レーニン『共産主義』)のであり、それには、事物のすがたをとらえる弁証法のなかでも、「対立物の統一」の法則がもっとも基本的な方法をあたえるからである。

一つのものの内部に対立する二つの側面をとらえること

 さきにみたように、弁証法は、世界を無限の連関のなかにあると見る。私たちは、たえずその連関をあきらかにし、連関を全面的につかむ努力をはらわなければならない。そのような努力が欠けては、現実から遊離することになる。

 だが、その無限に多様な連関のなかから、そのものごとの内部に本質的な関係をつくりあげている二つの主要な、根本的な傾向、性質、力をつかみとることにすすまなければならないのである。つまり、そこで、なにとなにとがたがいに対立しあっている二つの側面であるのかをしっかりととらえることが必要である。

 そうしたとき、具体的な事物の根本をとらえたことになる。もしそうではなく、ぱくぜんと雑然と、あれこれの現象をならべたてたとしても、その事物にとってもっとも基本的なことをつかむことにいたらず、表面的か、折衷的な見かたにとどまることになるのである。

 このことについてレーニンは、つぎのように述べている。「疑いもなく、現実は無限に多様である! だが、この、無限の多様性のなかに、二つの主要な、根本的な流れがあることもまた疑いをいれない」(『第ニインターナシナルの崩壊』)。

 「一つのものを二つに分け、この一つのものの矛盾した二つの部分を認識すること……は、弁証法の核心……である」(『哲学ノート』)。

 こうして私たちは、一つの事物の内部にある、対立しあった二つの側面をとらえることに、まず心をくだかねばならないといえる。

対立物が相互にしめる位置をもること

 ところで、具体的な事物のなかに二つの側面が対立しあっていることをとらえるだけではたりないのである。対立関係の内容をあきらかにするには対立しあっている二つの側面がしめている一定の位置こそが問題なのである。つまり、その二つの側面は、どちらがいま支配的な地位をしめ、どちらが被支配的な力をしめているかをあきらかにしなければならない。

 たとえば、こんにちの日本において支配的な位置をしめているのは米日支配層の側面であり、日本人民は被支配的な側面だ。そうした関係のなかで、私たちはどうやって、そのたがいの占める位置を逆転させるかを具体的に検討しなければならないのである。

 また、二つのどちらが事物のふるい側面を代表し、どちらが発展する事物のあたらしい側面を代表しているのかを、具体的にあきらかにすることが必要だ。

 たとえば、そのような見地に立って、こんにちの労働組合運動の内部にある二つの潮流を検討するならば、労働組合運動の「あたらしい発展を期す」などという旗をかかげてはいても、反共主義と労資協調の方向をとる勢力は、その本質において現在の資本主義制度を維持していこうとする保守的で反動的なふるい傾向にぞくし、労働組合の階級的・民主的な強化をめざす方向こそが、発展するあたらしい傾向にぞくすることがあきらかとなるのである。対立する関係のなかで支配的な位置をしめている側面が、ものごとのふるい質を代表するときには、それがいかにいまは支配的な力をもっていても、発展のうえで主導的な役割をはたさない。発展のうえで主導的な役割をはたすのは、あたらしいものを代表する側面である。

 そこで私たちの考えや行動は、いまの状況下でどんな勢力がいちばん力が強くて支配的かということから出発するのではなく、なにがふるくてなにがあたらしいかという、対立物の二つの部分の性格、地位にもとづき、いまのところまだ力はなくとも発展するあたらしい側面をこそ出発点にすることがたいせつだ。

対立物の統一を分析すること

 対立物の二つの部分が、どのような条件のもとでどのように相互に依存しあいつながりあっているかを見なければ、矛盾のただしい解決の方法をもつことができない。

 たとえば、会社派の組合幹部が労働組合の指導部をにぎっているとする。そのさい私たちが、「かれらには会社の経営者にたいすると同じようにたたかうべきだ」として、組合員とその幹部とのあいだの矛盾を解決しようとするならば、一般的にいってただしくない。なぜならば、会社派の組合幹部にせよ、それと組合員との矛盾は、労働組合のなかでの対立としてあるという具体的なつながりを無視しているからだ。

 このように、対立物の統一の条件、事情を分析しないで矛盾を解決しようとしたら、おうおうにして「左」のかたむきにおちいりやすいといえる。

 一般的にいって「左」のあやまりとは、現実をとびこえ、一気にことがらを解決しようとしたり、そのものごとの具体的な事情を無視した態度、方法をとることなどをさす。とくにその特徴は、矛盾の具体的な分析にもとづかず、「闘争」を硬直したかたちですすめようとすることだ。それは、見たところは「戦闘的」で、カッコいいそぶりをとって人びとをまどわす。これは階級的には、小ブルジョア的な思想のあらわれの一つだが、哲学的には形而上学的なものの見かたにもとづいている。

対立物の闘争の発展によって矛盾を解決すること

 それがどのような矛盾でも、たとえば、敵対的なあるいは非敵対的な矛盾であっても、また、どのような一定の条件のもとでどのような「対立物の統一」の関係にある矛盾であっても、さらに、どれほどに大きな矛盾、あるいは小さな矛盾であっても、矛盾を解決するには、対立物の闘争によらなければならない。

 労働者と資本家とのあいだの矛盾の解決が、資本家への「協力」、会社への「貢献」によって可能であるかのように考えるのは、幻想であるばかりか、じつは矛盾の解決をいっそうおくらすことにつながるものである。

 矛盾を解決するには、その対立物の闘争にたよることこそがただひとつの「鍵」である。対立物の闘争を発展させること──つまり支配者、搾取者にたいしては階級的なたたかいをすすめること、働く者のなかでの意見の相違は、批判、討議をすすめること──は、矛盾の対立を激化し尖鋭にする過程をへて矛盾の解決にすすんでいくということである。そうした過程をたどらずに、「円満」にフワフワと矛盾にのぞんでさえいれば、いつのまにか矛盾が解決されるかのように考えることは、なんら矛盾の解決にもならない。

 対立物の闘争をみとめなかったり、あるいは対立物の闘争を弱めようとするときには、右のかたむきが生まれてくるといえる。

 右のかたむきは、一般的にいってものごとの発展に立ちおくれ、決定的なことがらをあいまいにし、客観的な事情や条件だけをとりたてて主体的・積極的にやるべきことからのがれようとするといったあらわれをもつ。その特徴は、「闘争」する見地をぬきに矛盾を解決しようとしたり、またそれができるかのように人びとをまどわせることだ。こんにち、労働組合運動のなかの右翼的潮流が旗印の一つにしている「労資協調」などがその典型である。右のかたむきもまた、「左」のかたむきと同じく、階級的には小ブルジョア思想のあらわれであり、哲学的には形而上学的な見かたである。条件によって「左」のかたむきは、右のかたむきへ移行し、またその逆への移行がおこる。

 以上に述べたことをまとめるならば、つぎのようになるだろう。
 一つのものの内部を二つの側面に分けてとらえることは、問題を具体的に分折する基本である。そうして、その対立する二つの側面がどのような位置をしめており、どのように対立する相手がわとかかわりあい、どのようにたたかいあっているかをあきらかにし、その矛盾の性質と矛盾をとりまく条件におうじた方法や形態をとった「対立物の闘争」によって、矛盾を具体的に解決していかねばならないのである。ここに弁証法を実際問題に生かすうえでの重要な内容があるのである。

 こうした「対立物の統一」を具体的に理解するための材料は、生活とたたかいのなかにゆたかにある。ここで具体的な材料として「しょうぎ」をあげてみよう。

「しょうぎ」に見られる「対立物の統一」

 碁も、連関の弁証法だ。しかし、「しょうぎ」のばあいは、はっきりとした「対立物の統一」の関係にあり、複雑な弁証法的うごきをとるといえよう。

 「しょうぎ」は、あきらかに統一物(棋盤)のなかでの対立する二つの側面に分かれている。それは、たがいに「闘争」しあっている。つまり、相手がわのコマを排斥し否定している関係にある。この「闘争」をぬきにしたとき、「しょうぎ」のうえにはどのような変化も発展もひきおこされない。だが、その対立しあっている両側面のあいだには、あきらかに対立物の相互依存、相互浸透の関係もあるだろう。たがいに相手のコマをみずからがそこに存在する条件としあっており、それらはたがいに影響しあっている。しかも、その棋盤のうえではるかすみのほうのコマがさがったとしてもたたかいかたにかかわってき、たたかいの方法、形態に一定の影響をおよぼさずにはおかないのである。

 このように「しょうぎ」のばあいをとってみても、対立する二つの側面が、どのように「統一」し、どのように「闘争」しているかを具体的にとらえずしては、その勝負に凱歌をあげることはとうていおぼつかないのである。しかし、「しょうぎ」は、まだ単純だ。なぜなら、その全局は直接に目でとらえられるからである。

 活動家の対象とするもののすべては、目でたしかめられ、手でさわることのできうるものばかりではない。そこでは、じゅうぶんに頭をつかい思考をはたらかせねばならず、そうしてはじめて客観的に存在する矛盾がとらえられるといえる。したがって、活動とは、「しょうぎ」のように単純にすすむわけでもない。だが、それにしても、矛盾の具体的なとらえかたについては、「しょうぎ」はひとつの見本をしめしてくれている。

 ある職場でこんなことがあった。新入社員は、「監視」つきで寮にいれられ、会社製サークルに強制的にいれられている。いっぽう、階級的な自覚をもつ青年たちは自主的にサークルを組織し活動していた。かれらは、会社製サークルと自分たちのサークルとの関係を矛盾しあうものととらえた。これはするどい見地だ。そしてそこから、「会社製サークル絶対反対!」というスローガンが、新入社員たちによびかけられた。しかし、そのただしい観点にたった活動も、新入社員たちからは「拒否」されたのである。

 活動家たちは、あらためて検討をやりなおしたそうである。そしてその結果かかげたスローガンとは「サークルはいかにあるべきか?」であったという。そして、具体的にサークルのありかたをしめしたのだった。この活動は、新入社員の若い仲間たちの耳をかたむけさせ、強制的に加入させられ、職制が運営していた会社製サークルのありかたに疑問をもち批判をだし、このスローガンは砂にしみこむ水のように浸透していったという。

 ここには、自覚した活動家たちの矛盾のとらえかたのうえでの前進がしめされる。それがスローガンのかかげかた、活動のしかたに変化をもたらしたのだといえよう。つまり、はじめは、資本と労働という矛盾の一般的なとらえかたであったが、つぎにはさらにすすんで会社製サークルとそれにいれられている新入社員との矛盾を具体的にとらえたのである。こうしたように、矛盾のとらえかたは、具体的な連関のなかで具体的にとらえなければ、生きた活動の力とはなりにくいのである。

弁証法はつかいこなさなければならない

 しかし、私たちのなかに、「弁証法」を口にし、「対立物の統一」の法則を理論的に説明できる人は、すくなくはない。しかし、活動や闘争が弁証法的であるのか、「対立物の統一」の法則をこなしているのかといえば、けっしてそうとはいえまい。いや、形而上学的に硬直しているばあいさえめずらしくないのである。

 「将棋の定石を読んだだけではだれも名人になれはしない。だが、五、六冊のマルクスやレーニンをよんで、森羅万象、すべて割りきれたと考えるアワテモノはおおい。かれらには願望と現実の区別がない。望遠鏡でのぞいた山の頂を、近いと見てひとまたぎにしようとする。よちよち歩きの子供によく見られる傾向である。真剣な生活のたたかいである労働組合内に、もしこうした指導者がいたとすれば、組合はたちまち敗北と混乱のなかにつき落とされる……」という手きびしい文章がある。

これはマルクスやレーニンのものではない。日本の労働組合運動のなかに生まれたある活動家の文章である。そのことによって前述の引用の値うちがさがるわけはないだろう。なぜならば、それは心にくいまでに私たちのおちいりやすい欠陥を指摘しているからだ。

 弁証法を知っているということと、弁証法をつかいこなせているということとは、まったく別間題だ。つかいこなそうとはせずに、解釈にふけることを専門と心えている人もいる。それには「敬意」をはらっておけばよい。しかし活動家にとっては弁証法の講義でことはすまされない。大衆の生活、権利にたいする具体的な責任をおう自覚した労働者は、なんとしても、弁証法を現実に生かさねばならないのである。そこに、真剣な弁証法の学習がすすめられ、弁証法を武器としてつかいこなしていける保障があるのである。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p44-56)

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◎「過酷な労働者支配が、自らの支配を掘り崩す――この矛盾を正面からとらえること」と。