学習通信070307
◎身ぶりと声で他人を動かし……

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 叔父さんは、机の上におきざりにされてあった紅茶茶碗をとると、もう冷たくなってしまった紅茶をぐっと飲みほし、それから、大きな伸びをして、頭をぼりぼりと掻きました。そして、たばこに火をつけて、しばらくゆっくりとふかしていましたが、間もなく、机の引出しをあけ、ノートブックをその中にしまうと、電灯を消して、のそのそと寝室へいってしまいました。

 ところで、このノートブックは、ちょっとのぞいて見る必要があります。なぜかというと、本田潤一君がどうしてコペル君と呼ばれるようになったか、そのわけが、このノートにかくされているのですから。

ものの見方について

 潤一君。

 今日、君が自動車の中で「人間て、ほんとに分子みたいなものだね。」と言ったとき、君は、自分では気づかなかったが、ずいぶん本気だった。君の顔は、僕にはほんとうに美しく見えた。しかし、僕が感動したのは、そればかりではない。ああいう事柄について、君が本気になって考えるようになったのか、と思ったら、僕はたいへん心を動かされたのだ。

 ほんとうに、君の感じたとおり、一人一人の人間はみんな、広いこの世の中の一分子なのだ。みんなが集まって世の中を作っているのだし、みんな世の中の波に動かされて生きているんだ。

 もちろん、世の中の波というものも、一つ一つの分子の運動が集まって動いてゆくのだし、人間はいろいろな物質の分子とはわけのちがうものなんだし、そういうことは、君がこれから大きくなってゆくに従って、もっともっとよく知ってゆかなければいけないけれど、君が広い世の中の一分子として自分を見たということは、決して小さな発見ではない。

 君は、コペルニクスの地動説を知ってるね。コペルニクスがそれを唱えるまで、昔の人は、みんな、太陽や星が地球のまわりをまわっていると、目で見たままに信じていた。これは、一つは、キリスト教の教会の教えで、地球が宇宙の中心だと信じていたせいもある。しかし、もう一歩突きいって考えると、人間というものが、いつでも、自分を中心として、ものを見たり考えたりするという性質をもっているためなんだ。

 ところが、コペルニクスは、それではどうしても説明のつかない天文学上の事実に出会って、いろいろ頭をなやました末、思い切って、地球の方が太陽のまわりをまわっていると考えて見た。そう考えて見ると、今まで説明のつかなかった、いろいろのことが、きれいな法則で説明されるようになった。

そして、ガリレイとかケプラーとか、彼のあとにつづいた学者の研究によって、この説の正しいことが証明され、もう今日では、あたりまえのことのように一般に信じられている。小学校でさえ、簡単な地動説の説明をしているようなわけだ。

 しかし、君も知っているように、この説が唱えはじめられた当時は、どうして、どうして、たいへんな騒ぎだった。教会の威張っている頃だったから、教会で教えていることをひっくりかえす、この学説は、危険思想と考えられて、この学説に味方する学者が牢屋に入れられたり、その書物が焼かれたり、さんざんな迫害を受けた。

世間の人たちは、もちろん、そんな説をうっかり信じてひどい目にあうのは馬鹿らしいと考えていたし、そうでなくとも、自分たちが安心して住んでいる大地が、広い宇宙を動きまわっているなどという考えは、薄気味が悪くて信じる気にならなかった。今日のように、小学生さえ知っているほど、一般にこの学説が信奉されるまでには、何百年という年月がかかったんだ。

 こういうことは、君も『人間はどれだけの事をして来たか』を読んで知っているにちがいない。が、とにかく、人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、これほどまで根深く、頑固なものなのだ。

 コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。

 子供のうちは、どんな人でも、地動説ではなく、天動説のような考え方をしている。子供の知識を観察して見たまえ。みんな、自分を中心としてまとめあげられている。電車通りは、うちの門から左の方へいったところ、ポストは右の方へいったところにあって、八百屋さんは、その角を曲ったところにある。静子さんのうちは、うちのお向いで、三ちゃんところはお隣りだ。

こういう風に、自分のうちを中心にして、いろいろなものがあるような考え方をしている。人を知ってゆくのも同じように、あの人はうちのお父さんの銀行の人、この人はお母さんの親類の人という風に、やはり自分が中心になって考えられている。

 それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になって来る。広い世間というものを先にして、その上で、いろいろなものごとや、人を理解してゆくんだ。場所も、もう何県何町といえば、自分のうちから見当をつけないでもわかるし、人も、何々銀行の頭取だとか、何々中学校の校長さんだとかいえば、それでお互いがわかるようになっている。

 しかし、大人になるとこういう考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎないんだ。人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、大人の間にもまだまだ根深く残っている。いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。

殊に、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、非常にむずかしいことで、こういうことについてすら、コペルニクス風の考え方の出来る人は、非常に偉い人といっていい。たいがいの人が、手前捗手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合のよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。

 しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。

もちろん、日常僕たちは太陽がのぼるとか、沈むとかいっている。そして、日常のことには、それで一向さしつかえない。しかし、宇宙の大きな真理を知るためには、その考え方を捨てなければならない。それと同じようなことが、世の中のことについてもあるのだ。

 だから、今日、君がしみじみと、自分を広い広い世の中の一分子だと感じたということは、ほんとうに大きなことだと、僕は思う。僕は、君の心の中に、今日の経験が深く痕を残してくれることを、ひそかに願っている。今日君が感じたこと、今日君が考えた考え方は、どうして、なかなか洗い意味をもっているのだ。それは、天動説から地動説に変わったようなものなのだから。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p22-26)

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 わたしたちがわたしたちとは別のものがあることを学ぶのは、運動によってにほかならない。

また、わたしたちが空間の観念を獲得するのは、わたしたち自身の運動によってにほかならない。

子どもが、すぐそばにあるものでも、百歩さきにあるものでも、差別なしに手をだして、それをつかもうとするのは、空間の観念をもたないからだ。

子どもがそういうことをするのは、支配欲のしるしのようにみえる。物にこっちへこいと命じたり、人にそれをもってくるように命じたりする、命令のようにみえる。

しかし、それは全然ちがう。それはただ、子どもがまず頭脳において見、ついで目で見る物体が、いま手の先に見え、そして子どもには、手の届くかぎりの空間しか考えられないからだ。

だから、ときどき子どもを動かしてやるようにするがいい。一つの場所から他の場所へ移動させ、場所の変化を感じさせ、距離について考えることを学ばせるがいい。

距離ということがわかるようになったら、そのときは方法を変えなければならない。そしてあなたがたの好きなようにだけ子どもを動かすがいい。子どもが望むように動かしてはいけない。子どもが感覚によってあざむかれないようになると、その努力の原因が変わってくるからだ。この変化は注目にあたいするもので、説明を必要とする。

 欲求をみたすために他人の助けが必要なばあい、その欲求から生じる不快の念はいろいろなしるしで表現される。

そこで、子どもは叫ぶ、泣いてばかりいる。

それも当然のことだ。

子どもの感覚はすべて感情的なものだから、それが快い感覚であるなら、子どもは黙って楽しんでいる。苦しいときは、子どもはその言語でそれを告げ、助けをもとめる。

ところで、目を覚ましているあいだは、子どもは無間心な状態でいることはほとんどない。子どもは眠っているか、それとも、なにかに刺激されている。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p75-76)

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はいはいの意味

 はいはいしはじめた赤ちゃん──手足をカいっぱい動かして、好きなところへ行けるようになり、とても楽しそうです。

 お座りはできるけれども、自由に動けないころや、腹ばいにすると腕をつっぱって身体は足の方へずってしまうというころは、 おもしろそうなおもちゃをみつけて手を伸ばしても届かず、キーキー声をあげている、ウンウンうなっているといった、ごきげんななめの状態が多くみられました。

 そんなときは、たいていお母さんがきてくれて、ほしがっているおもちゃを取ってくれるでしょう。

 おもちゃに手を伸ばす、キーキー≠「う、おもちゃを取ってもらえる──こうしたことをくりかえしているうちに、おもちゃに手を伸ばすことやキーキー≠「うことは、おもちゃを取ってくれとおとなに訴えるための行為になってきます。

 おもちゃをみつけると、本気で取ろうとする気もなく、形式的に手をさしのべ、「ンーンー」ときまった声のねだり声を出すようになるのです。

 お尻をすえて座ったまま、身ぶりと声で他人を動かして欲しい物を手に入れるという手段をつくりあげたわけですが、おとななら怠け者の使うこの方法も、赤ちゃんにとってはとても大事なおとなとのコミュニケーションにおける進歩です。

 新生児のころから使っていた泣き声は不快感を訴えて、おとなを呼びよせることができますが、要求の種類や内容を的確に伝えることはできません。空腹なのかおしめがぬれたのかということは、子どもの状態をよく知っている母親だから推測がつくわけです。

 それにくらべて、ほしい物に手をさしのべるという行為は、はっきりと要求の対象を示しています(後には、もっと明確な対象指示機能をもつ「指さし」が発達します)。
(清水民子著「子どもの発達と母親」新日本新書 p50-51)

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「コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。」