学習通信070308
◎わたしたちは弱い者として生まれる……

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もう一年、胎内にいたら……

 もちろん、すべての動物がキリンやゾウのようなわけではありません。ここでは話を哺乳類だけにかぎりますが、ライオンやクマなんかの妊娠期間はもっとずっと短く、数ひきの、しかもかなりたよりない状態の赤ん坊を生みます。ネズミなんかだと妊娠期間はわずか二一日前後、そして一度に一ダースくらい生みます。で、生まれた子どもは体重わずか四、五グラム、目もあいていず、毛もはえていない赤はだか。

 ここで、室生犀星の『杏っ子」のなかに「ねずみの子のようにぐにゃ、ぐにゃした赤ん坊」という表現があることを思いだしました。これ、人間の赤ん坊の話です。たしかに目はあいてるし、二八〇日も母胎のなかで育てられてきたんです。それなのに「ねずみの子のようにぐにゃ、ぐにゃ」とは。いくらなんでも「ねずみの子のよう」とはひどい、という人があるかもしれません。

そういえば林芙美子さんの『放浪記』には「生まれたての、玄米パンよりもホヤホヤな赤ん坊たち」という表現がありました。──「玄米パン」といっても、もう知らない人がおおいでしょうね。「玄米パンのホヤホヤァ……」といって、車をひきながら売りあるくその呼び声は、私なんかの世代ごろまでのものにとってはなつかしい思い出なんですが。それはともかく、林さんはさすが女性、それにくらべて男性の感性は……なんていきりたたれると困るんですね、その「玄米パンよりもホヤホヤな」生まれたての赤ん坊が、じっさい「ねずみの子のようにぐにゃ、ぐにゃ」なんですから。キリンやゾウの赤ちゃんのたくましさにくらべたら、たしかにそういえるのではないでしょうか。

 もっとも、キリンやゾウは、同じ哺乳類ではあっても、人間とはだいぶ縁の遠い動物です。住んでるところがはなれてる、という意味ではなく、生物進化のすじみちのうえで、ということですが。その点ではネズミのほうが、ずっと人間に近い親戚です。住んでいるところも近いわけですけどね。でも、もっと近い親戚すじはサルですね。そのサルとくらべてみましょう。

 サルのお産については、畑さんの『われら動物みな兄弟』に、つぎのような印象的な描写があります。

 「サルは生み月間近になると、不思議そうな顔をするようになる。お腹の中で胎児が動いているので。

 寝ころぶ。腹の毛をかきわけて、じっと自分のお腹を見つめる。金網にかけのぼる。また、寝ころぶ。手足をばたばたさせる。起き上がると、遠くを見るように目を細めて首をかしげる。

 やがて、やってくるものをおぼろげに悟るのか、落ち着かなくなる。ぶらぶらと歩き始める。その動きが活発になると、陣痛が訪れる。……

 母ザルは、からだを折り曲げ、伸ばし、腰を浮かして陣痛に耐える。一言の弱音もはかない。手伝うものもいない。

 やがて、ぶつりと破水が起こり、赤ん坊が顔をのぞかせる。母ザルは、はらばいになっていきむ。いきみながら、手をうしろに伸ばして赤ん坊の首をつかまえる。そして、実に器用に赤ん坊をひっぱり出す。

 赤ん坊は、生まれた時から目が開いている。手の握力も非常に強い。ヘソノオを噛み切って母ザルが抱くと、とびつくように母ザルの胸毛をつかむ。……」

 ため息がでるほど感動的なシーンです。もっとも、人間の赤ん坊の場合も、人間がサルから進化してきた証拠に手の握力が非常に強いのですが、それはもうなんの役にもたたない過去の痕跡にすぎず、ゴロンと寝て泣くことしかできないのにたいして、サルの赤ん坊の場合には、それでもって親の胸にしがみつき、親といっしょに木から木へととびうつって生きるわけです。「もう一年くらい、お母さんのおなかにいたら……」という西山さんの感想、もっともだと思いませんか。

四頭身の秘密

 じつは、ポルトマンという生物学者が同じことをいってるのです。『人間はどこまで動物か』という題で岩波新書に訳されている本のなかで、「人間は満一ヵ年の生理的早産を常習化するにいたった特殊な高等哺乳類である」という意味のことを主張しています。

この表現をあまり額面どおりにうけとってしまうと、いろんな間題もでてきうるだろうし、それではポルトマンの間題提起の意義もかえってとらえそこねてしまうことにもなるかと思いますが──たとえば井尻正ニさんは、もしあと一年妊娠期間がのびたら、人間の赤ちやんは離乳期に達した状態で生まれることになり、哺乳類ではなくなってしまう、と指摘していらっしやいます(『こどもの発達とヒトの進化』築地書館)が──とにかく満一歳のころというのは、じつに特徴的な時期ですね。

「ウマウマ」「ワンワン」といった一語文が成立する時期であり、また、アンヨがはじまる時期です。体重の増加も、このころを境として、テンポがそれまでよりもゆるやかになります。これは、霊長類のなかでは人間だけにみられることだそうです。逆にいえば、それまでの体重増加のテンポは、胎児なみの急テンポ、ということになります。

 いずれにしても人間の赤ん坊が、高等哺乳類のなかでは例外的に未熟な状態で生まれてくる、ということはたしかだと思います。二八〇日も胎内にいるのに、そしてネズミなんかとはちがって──イヌやネコなんかともちがって──一ダースとか半ダースとかではなく、一度にだいたい単数、したがってそれだけ念入りに胎内で育てられるのに、それなのにどうして未熟な状態で生まれるのでしょうか。

 荒井良さんめ『脳と健康』(雷鳥社)という本を読んでいたら、つぎのような文章にぶつかりました。ウシやウマのような動物の場合、「生まれてすぐ立つ、歩くという動作ができるだけの骨や筋肉がしっかりしているだけでなく、それらの器官を働かせるための、脳をはじめとする神経機構が胎内ですでにしっかりと整備されて生まれてきているということなのです。それが、人間の場合には、まだほとんどできあがらないままに生まれてきただけのことなのです」というのです。

 ここに間題を解くカギがひそんでいる、と思います。

 ことわっておきますが、人間の赤ちゃんの場合、「脳をはじめとする神経機構がまだほとんどできあがらないままに生まれてくる」というのは、小さい脳をもって生まれてくるということなんかではないんですね。反対に、人間の赤ちゃんは、例外的な大頭なんです。みなさんたちくらいになると、八頭身とか七頭身とかいうわけですが、生まれたばかりのころは、じつに四頭身ですね。こんなに均衡を失した大頭というのは、人間の赤ん坊以外には例がないんです。

 そして、この大頭のなかみはなにか、なにがそこにつまっているのかといえば、もちろん脳ミソがつまってるわけです。では、その脳ミソのどこが「できあがっていない」のでしょうか?

数はふえないが重さはふえる

 あらためて「大頭」のなかみをしらべてみましょう。そこにつまっているのは脳ミソだ、といいましたが、科学的ないい方をすれば、ぼう大な数の脳細胞、とくに神経細胞がつまっているわけです。およそ一四〇憶といいます。もちろんその一四〇憶という数は、それを数えることだけに誰かが一生をささげたとしても数えつくすことのできない天文学的な数字で、だからそれを数えつくした人がいるわけではなく、ほんの一部分だけをとって、そこにどれだけの神経細胞があるかを勘定して、それから推しておよそ一四〇憶、というんですが。

ところで、ここでたいせつなのは、この一四〇億という数は生まれたときからちゃんともうそろっていて、それ以上ふえない、ということです。他の体細胞のおおくは成長するにつれてふえるんですが、大脳の神経細胞はふえない。反対にすりへることはある。だいたい二〇歳をこえるころから、一日に数万ずつもすりへっていくそうです。というと、おそろしい感じがしてきますが、九〇歳になってやっと全体の一割がすりへる、という勘定ですから、たいしておそれる必要はありません。

逆に、へいぜいあまり頭をつかわないでいると、脳細胞のかなりの部分がさびつき、あるいは眠りこんでしまう、ということになるのにたいして、若いころからうんと頭をつかっていると、かなりの歳になっても、へたな若者よりはよほどよく、みずみずしく頭がはたらく──市川房枝さんなんてそうじゃなかったのでしょうか。人間の頭はつかえばつかうほどよくなるんですね。だから、若いうちからうんと頭をつかう訓練をすることがかんじんです。

 話をもとにもどしますが、そんなわけで、人間の頭の神経細胞の数は、生まれたときからすでに一四〇憶。すりへることはあってもふえることはない。でも、重さはふえるんですね。そのふえ方がまた、きわだっていて、チンパンジーやゴリラなんかの場合も成長するにつれて脳の重さがふえはしますが、せいぜい三〇〇グラムふえる程度なのに、人間の場合は、一〇〇〇グラム以上もふえるんですね。生まれたばかりの人間の赤ちゃんの脳の重さは四〇〇グラムに満ちませんが、おとなになれば一四〇〇グラムほどになるんですから。

 もっとも、この一四〇〇グラムというのは成人男性の脳の場合で、女性はそれより平均して一五〇グラムほど軽いそうです。そこで、「男女平等なんていったって、脳の重さからしてちがうんだ」なんていう人が時どきいますが、これはまったく根拠のないことです。そんなことをいえば、ゾウやクジラは人間よりずっと重たい脳をもっているわけで、ゾウの脳は四〇〇〇グラム、マッコウクジラの脳は九二〇〇グラムもある。だから、ゾウやクジラが人間よりも知能が高いかというと、そんなことはないですね。ゾウやクジラは、全体の体重もまたひどく重いんで、その体重との比率でいえば、人間よりもずっと軽い脳しかもたない勘定になるわけです。そして、体重との比率でいえば、人間の場合、女性の頭のほうが男性の脳よりも、むしろ少々重たい勘定になります。

 そこで「そらごらんな、女性のほうが男性よりも高等なのよ」といえるかといえば、これまたいえないわけで、体重との比率でいえば、ネズミやテナガザルなんかの場合は、人間よりも相対的に重たい脳をもっているわけですから。というわけで、絶対的にしろ相対的にしろ、脳の重さが少しばかりどうこう、ということが、ただちに知能の高低を意味するわけでもなんでもない、ということをいいそえておきたいと思います。
 また横道にそれてしまいました。

脳コンピューターのネットワーク

 間題は、脳の神経細胞の数はふえないのに、脳の重さが一〇〇〇グラムもふえるのはなぜか、ということでしたね。そこへ話をもどしましょう。

 人間の脳は、コンピューターに似たところがあります。じつは、コンピューターのほうが人間の脳に似せてつくられたわけでしょうが。それはともかく、一四〇憶のトランジスター素子からなりたつ超性能のコンピューターみたいなもの、それが人間の脳だ、といってみることができるでしょう。

 ところでコンピューターの場合、素子と素子とは複雑な回路網でむすばれています。この回路網をとおしてコンピューターは、いろんな論理計算をやってのけるわけです。人間の脳の場合も同様で、一四〇憶の神経細胞のそれぞれは、数おおくの突起をもち、その一つはながくのびて、ながいものでは一メートルにもおよぶ神経繊維(軸索)となっていますが、それらがからみあって複雑なネットワーク(網目)を形成しています。一つの神経細胞は八○○○以上もの突起をのばすことができ、それらのからみあいから生じうる回路のくみあわせは、一四〇億の二五乗にもおよびうる、という話を読んだことがありますがとにかく気が遠くなるような話です。

一歳児が「ウマウマ」といってたべものをねだるのも、みなさんが「保育とはなんぞや」といって考えこむのも、すべてこのネットワークをつうじてのいとなみです。このネットワークが、生まれた当座はまだほとんどできていないんだそうですね。「脳をはじめとする神経機構がまだほとんどできあがっていない」というのは、そのことなんです。

 なにしろ一四〇憶という数の神経細胞なんですから、二八〇日という妊娠期間内では、その数をそろえるのにせいいっぱい、回路網の形成まではまだ手がまわらない、ということでしょう。そのネットワークの形成が、生まれてからのち次第にすすむ。それが、脳の重さが一〇〇〇グラムもふえる第一の原因なんだそうです。

 それともう一つ、生まれたばかりのころは、このネットワークの主体となる神経繊維がまだ裸電線の状態で、絶縁テープがまかれてないのですが、その絶縁テープは、生まれてからのち「髄鞘(ずいしょう)」と呼ばれるサヤのかたちをとって徐々に形成されていく。これができると、情報の伝わり方が一〇倍もはやくなるといいますが、これも、脳の重さがふえるもうひとつの原因なんだそうです。
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささらカルチャーブック p13-23)

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植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる。

かりに人間が大きく生まれたとしても、その体と力をもちいることを学ぶまでは、それは人間にとってなんの役にもたつまい。

かえってそれは有害なものとなる。ほかの人がかれを助けようとは思わなくなるからだ。

そして、ほうりだされたままのその人間は、自分になにが必要かを知るまえに、必要なものが欠乏して死んでしまうだろう。

人は子どもの状態をあわれむ。

人間がはじめ子どもでなかったなら、人類はとうの昔に滅びてしまったにちがいない、ということがわからないのだ。

 わたしたちは弱い者として生まれる。

わたしたちには力が必要だ。

わたしたちはなにももたずに生まれる。

わたしたちには助けが必要だ。

わたしたちは分別をもたずに生まれる。

わたしたちには判断力が必要だ。

生まれたときにわたしたちがもってなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p24)

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◎「このネットワークが、生まれた当座はまだほとんどできていない」と。