学習通信070315
◎「恐共病」患者……

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 ぐるりと生活を見わたすと、今日でもやはり、女に向かってこの同じものわかりよさが何かにつけもち出されていると思う。

君はわからない女だ、という言葉の内容は、君はわからない男だというと同じ内容ではいわれていないのが実際だと思う。

わからない男だ、というとき、その言葉には相手が人生的なことかあるいは職業的なことか、何はともあれ原理的な点で正当な理解をもっていないという意味がこめられている。

わからない女だね、という表現は、いつの場合もけっしてそれほど原理的なことの判断についていわれるのではない。

むしろ日常のちょっとしたこと、男の側からいえば、そういうものだよ、というようなとき、それがすらりとうなずけない女の心を、わからない女と表現することの方が多い。

 しずかに考えてみると、ものわかりのいいということと、ものの理解が正しくて深いということはまったくべつである。

今日の若い世代のものは、誰しも人間としてより正しく深く自分の一生についても考えわかって生きてゆきたい欲望をもっているし、同時に、そのように考える精神のよりどころについてある自信なさにおかれてもいる。

そのために、ほんとうに考えて責任をもって生きたいという心持が、ある場合は、女はものわかりよくなくてはならない、というどこからかの声に動揺させられたりしがちだと思われる。

 だいたいに、ものわかりのよさの本質は、発見の精神ではなくて適応の精神でにあり創造への感情ではなくて、従属への感情である。

ものわかりよさは、高い人間の明知とはちがった性質のものである。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書 p21-22)

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選挙、ゆめ軽んじめさるるな

 市川房枝さんがある対談の中で、婦人の投票数は男子のより二百三十万票も多く投票率も高いのに、選挙全体の結果からみると保守党がいつも勝つのは、婦人が保守的で革新ぎらいと断ぜざるを得ない、というような趣旨を述べていたのは印象的であった。

 市川さんのように六十年以上も婦人参政権のために闘ってきた人の感懐だけに、いっそうその言葉には深みがあった。

 何かというと婦人は、女性蔑視といって男性の横暴を怒るが、それなら婦人が婦人らしい力強さを発揮できる選挙の場で、大いに目覚ましいところを見せてくれればよろしいのである。

 ところが、ノッペリ型の講談師や白手袋にブレザーのよく似合う若手文士に、キャーキャーといって票を投ずるのである。

 本当にそれらの人が女性の地位を高めてくれると思って投票してるのではないだろう。とうていそこまで考えていないから、いざ当選してからの彼らの行動はどうも失点が多い。どうせ代議士なんかは行政について素人で、大臣や役づきになったら下位の官僚に任せればいいのだが、官僚に意地悪されては手も足も出ないのである。

 女性に人気のあった代議士たちにはロクなのはいないといっても極端ではないだろう。つまり女性が日本の政治の足を後ろへ引っ張っているので、実にけしからぬのは女性であると私は固く固く信じている。

 もちろん、なかには、身を挺して市川さんのように政治運勤で、いくらかでもましな日本にしようとしている健気なな婦人もいないじゃないが、どうもそれがあまり効果的でないらしく、多くの婦人たちは実に重大なチャンスである投票を無散弾に終わらせているのだ。

 市川さんは、あの大戦争だってもし婦人に自覚があれば、もう少し悲劇を避けられたのにと嘆いているが、母親は「軍国の母」として浪曲のスターになり、戦死した子を「よくぞ、お国のために死んでくれた」といったのである。それがこのごろは「岸壁の母」と変わったようだが、これはどうやら出征したまま帰国しない子を待つ母の悲劇のようである。これこそ大反戦浪曲なのだろうが、浪曲というのも便利なもののようである。

 市川さんにいわせると、日本の女性は「軍国の母」のまま、つまり自主性がなくて誰かに踊らされるものと捉えているようである。踊らされた揚句が「岸壁の母」になるのなら、最初から「軍国の母」にならぬほうがお利口だと私は思うのだ。

 私はロッキード事件を喜劇化して「多すぎた札束」を書いたが、これはロッキード事件の主人公をモデルにして棚岡格兵衛という人物を設定し、その秘書兼愛人の「クイーン」と称されてる女性を中心に構成した。

 政治を扱った劇なのに女を主人公に持ってきたあたりは、大いに新味を出したつもりだが、俳優たちからは「飯沢先生って大のフェミニストですね」とからかわれた。しかし真実の政治の世界でこの「クイーン」と呼ばれる女性は絶大なる権力を持っているらしく、代議士など彼女に頭が上がらないそうだ。

 私はすべて想像でデッチ上げたが、舞台を見た代議士諸氏は「よくもあすこまで調べましたね。とてもリアルで驚きましたよ」と褒めてくれた。

 また「クイーン」の親友が代理として観劇していったが、これも「そっくりよ。電話のかけ方なんかあのとおり。飯沢先生いつのぞいたのかしら」といってたそうだ。しかし私がそんな密室をのぞけるわけもなく、またのぞき見の趣味もない。「まあこんなところだろう」と見当をつけて書いたのである。

 「とてもあの女性の気持ちがよく書けてるわ。きっと見たら泣いて喜ぶわ」とその代理観客がいったとか伝え聞いたが、そういわれても私は驚かない。なぜなら一人の人間としてその女性を書いてるのであって、悪役という意識や嫌悪をもって紙芝居風に書いたわけではない。その世界ではそうなるよりほかないように書いてあるのだ。私は「こんな下らない世界が私たちの生活を現実に左右しているのですぞ」という警告をしているわけで、人間を憎んでいるのではない。

 それにしても、私はこの「クイーン」をよく書きすぎたのかも知れない。なぜならこの「クイーン」がいちばん理智的で、むしろ棚岡格兵衛のほうを情念的というか衝動的に描いたからである。世の男女の評価と逆にしたわけである。

 私は保守党の見えすいた票集めの犠牲者になった女優のタレントや旧歌手などに、またまた票が集まるのかと思うとうんざりするのである。

 全く出すほうも出すほうだが、出るほうに罪が重いと思う。すでにタレント上りの代議士の醜態は山のように報告されており、台本書きの書いた台本を見ながら司会などして、それで司会者と称しているような徒輩に国政があずかれるわけがないのである。それをほいほいと引き受けて立候補するなど論外だが、しかしもっともっと罪が深いのは、その無資格者にたいせつな自分たちの国政参与の権利を「あげて」しまうことである。

 このごろは「あげる」のが流行ってるようだが、それは貞操くらいにして、投票だけは女性の社会的地位の向上を真剣に考える革新政党に投じて貰いたいものである。

 この私の文章に目をとめて下さるような女性には、失礼なことをいってきたことになるが、せめてあなたの周囲の女性に対して、これくらいのことは説得してほしいのである。

 私の家に週に何回か来てくれる家政婦さんは、大の共産党ぎらいである。そのくせ私のことをむやみと褒めるのだ。ある日、その人が私の写真が「赤旗」に大きく出て共産党を支持してると知った時、だいぶあわてているようであった。

 つまり彼女の頭の中では、信じていた男性がそんな恐ろしい共産党を支持することがわからないらしかった。

 私はわざと共産党、共産党とその女性の前で大きな声でいい、「赤旗」の記者が来ると「共産党の人が来ましたか」というように故意に念を押した。「あのお客様、共産党のかたでございますか?」ときくので「そうですよ。どうして?」というと「ずいぶんと、お行儀がよくていらっしゃいますね」と感心する。

 「そうですかね、普通じゃないの」「私はまた共産党というから……」と、彼女は口の中でモジャモジャいっていた。

 たぶんそういうところから、彼女の共産党ぎらいはしだいに解消してゆくだろうと私は思っている。別に私は彼女と論争するつもりはない。むしろそういう印象を変えることがたいせつなのだと考えている。

 彼女を故のない共産党ぎらいにしたのは誰か知らないが、共産党を仲間はずれにすることをモットーにしている政党も日本にはあるようで、それが一つの魅力というか売物になっている観があるのは、こういう故なき共産党ぎらいというか「恐共病」患者を当て込んでの計算であろうか。

 私は共産党員でもないし、私のいえることは自民党ぎらいということである。自民党がきらいなために自民党から最も遠くにいる共産党びいきになったといってよい。

 婦人と政治を論じて共産党支持論になってしまったが、婦人には、とくに投票についてよく考えていただきたくこんな駄文を綴ったのである。
(飯沢匡著「女の女におゝ女よ!」文化出版社 p44-49)

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潮流

フランス人の男性と結婚した俳優の寺島しのぶさん。「何語で会話していますか?」と問われた彼女は、「シングリッシュです」と答えました

▼共通に使える言語は英語です。そこで、「二人とも英語が完全ではないので、心臓と心臓で話すシン(心)グリッシュ」といいます。たしかに思い当たります。日本人同士でも、言葉を多く費やさず心と心で通じ合う場合は少なくないからです

▼けれど、だからといって言葉をおろそかにしていいというわけではありません。互いに理解しあいたいと思う心がつのればつのるほどに、言葉をもとめます。寺島さんと夫の間では、やがて、英語、日本語、フランス語の会話が入り乱れるかもしれません

▼ところで、選挙にも通じる話ではないでしょうか。「選挙に勝って自民・公明の政治を変えたい」と意気込む私たち。「いまの政治をなんとかしなければ……。共産党にがんばってほしい」と願う有権者。両者がであうとき、「シングリッシュ」がなりたちます

▼民主党が「もう一つの自民党」のありさまですから、その機会はふえそうです。しかし、「北朝鮮をみると、共産党を信用していいのかどうか」「とりあえずは、自民党よりましな民主党に」といった声が、返ってくるときもあるでしょう。より理解しあうためには、たしかな言葉がいります

▼都道府県委員長会議で、志位委員長がよびかけました。党を語って、自力で躍進の「風」をおこそう≠ニ。「風」をおこす心を広げ、言葉をみがいて!。
(「赤旗」20070310)

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◎「ものわかりのよさの本質は、発見の精神ではなくて適応の精神でにあり創造への感情ではなくて、従属への感情……ものわかりよさは、高い人間の明知とはちがった性質のものである」と。