学習通信070320
◎世間の眼よりも何よりも……

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 これから、科学的社会主義の理論の中身に入りますが、まず、世界観の問題から話したいと思います。

 「世界観」というと、何かいかめしい印象があって、自分にはあまり縁がないという人もおいでかもしれませんが、実は、世界観をもたない人はいないのです。「世界観」というのは、「世界」にたいする「観かた」です。

「哲学」というのも、ほぼ同じ意味ですが、「世界」の見方、つまり「世界観」という言葉の方が身近でわかりやすいのではないでしょうか。

 この世界で生きている以上、これが自分の「世界観」だとはっきり意識しない場合でも、この社会をどう見るのか、自然をどう見るのか、そういうことは、自分なりになんとなくでもつかんでいるものです、しかし、自分がもっているおのずからのものの見方、世界の見方をきちんと整理し、系統だて、理論的につかみなおすと、自分が生きている世界が、それこそ新しい姿で見えてきます。

「世界観」の勉強にはそういう大事な意味があるわけで、自分がもっている世界観はなにかということを、あらためてつきとめるといった気がまえで、これからの話を聞いてもらえればと思います。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p29-30)

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 僕やお母さんは、君のなくなったお父さんといっしよに、君に向かって、立派な人問になってもらいたいと願っている。世の中についても、人間として生きてゆくことについても、君が立派な考えをもち、また実際、その考えどおり立派に生きていってくれることを、僕たちは何より希望している。だから、なおさら、僕がいま言ったことを、よくよく呑みこんでおいてもらいたいと思うんだ。

 僕もお母さんも、君に立派な人になってもらいたいと、心から思ってはいるけれど、ただ君に、学業が出来て行儀もよく、先生から見ても友だちから見ても、欠点のあげようのない中学生になってもらいたい、などと考えているわけじゃあない。また、将来君が大人になったとき、世間の誰からも悪くいわれない人になってくれとか、世間から見て難の打ちどころのない人になってくれとか、いっているわけでもない。そりゃあ、学校の成績はいい方がいいにきまっているし、行儀の悪いのはこまることだし、また、世間に出たら、人から指一本さされないだけの生活をしてもらいたいとも思うけれど、それだけが肝心なことじゃあない。そのまえに、もっともっと大事なことがある。

 君は、小学校以来、学校の修身で、もうたくさんのことを学んで来ているね。人間としてどういうことを守らねばならないか、ということについてなら、君だって、ずいぶん多くの知識をもっている。それは、無論、どれ一つとして、なげやりにしてはならないものだ。だから、修身で教えられたとおり、正直で、勤勉で、克己心があり、義務には忠実で、公徳は重んじ、人には親切だし、節倹は守るし……という人があったら、それは、たしかに申し分のない人だろう。こういう円満な人格者なら、人々から尊敬されるだろうし、また尊敬されるだけの値打のある人だ。しかし、──君に考えてもらわなければならない間題は、それから先にあるんだ。

 もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、──コペル君、いいか、──それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人問になれないんだ。子供のうちはそれでいい。しかし、もう君の年になると、それだけじゃあダメなんだ。

肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持を起こすことだ。いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出て来るいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。

北見君の口癖じゃあないが、「誰がなんていったって──」というくらいな、心の張りがなければならないんだ。

 そうでないと、僕やお母さんが君に立派な人になってもらいたいと望み、君もそうなりたいと考えながら、君はただ「立派そうに見える人」になるばかりで、ほんとうに「立派な人」にはなれないでしまうだろう。世間には、他人の眼に立派に見えるように、見えるようにと振舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分がひとの眼にどう映るかということを一番気にするようになって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守にしてしまうものだ。僕は、君にそんな人になってもらいたくないと思う。

 だから、コペル君、繰りかえしていうけれど、君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはいけない。それを忘れないようにして、その意味をよく考えてゆくようにしたまえ。

 今日書いたことは、君には、少しむずかしいかも知れない。しかし、簡単にいってしまえば、いろいろな経験を積みながら、いつでも自分の本心の声を聞こうと努めなさい、ということなんだ。

 そこで、君は、もう一度あの「油揚事件」を思い出して見たまえ。
 何が君をあんなに感動させたのか。
 なぜ、北見君の抗議が、あんなに君を感動させたのか。
 山口君をやっつけている北見君を、浦川君が一生懸命とめているのを見て、どうして君が、あんなに心を動かされたのか。

 なお、浦川君については、君は、浦川君が少し意気地がなさすぎるという意見だが、僕もそう思う。浦川君がしっかりしていれば、ああまで馬鹿にされないですむのだ。しかし、浦川君のような立場にいながら、少しもひるまずに山口君たちをおさえてゆけるなら、その人は英雄といっていい。

浦川君がそういう英雄でないからといって、浦川君を非難するのは、まちがっているね。浦川君のような人は、まわりの人が寛大な眼で見てあげなくてはいけないんだ。まして、浦川君自身が、自分をいじめた山口君をゆるしてやってくれと頼むほど、寛大な、やさしい心を示したんだからね。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるのか」岩波文庫 p54-58)

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◎「自分がもっているおのずからのものの見方、世界の見方をきちんと整理し、系統だて、理論的につかみなおすと、自分が生きている世界が、それこそ新しい姿で見えて」くると。