学習通信070322
◎歴史上はじめてつくられた……

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潮流

縁あって、解放運動無名戦土の会葬追悼会に参加しました。六十回目のことし、百四歳の森賢秀さん(奈良)から、十九歳の川崎猛史さん(福岡)まで、九百九十八人が合葬されました

▼北から南へ、一人ひとり名前が紹介されます。残念なことに、風の便りも聞かないうちに亡くなっていた、知人の名もありました。生前の失礼をわびました。しかし、思い当たる名の故人はほんのわずかしかいません

▼見知らぬ土地の見知らぬ人たちの、草の根に生きてのこした無数の足跡がしのばれます。二十歳前に志半ばで倒れた川崎さんは、「中学から『赤旗』配達に参加、民青同盟で活動」した、といいます

▼追悼会が催された十八日は彼岸の入り。しかし、追悼会は毎年十八日と決まっています。パリ・コミューンの記念日です。一八七一年、プロイセン軍からパリを守っていた市民・労働者を、ときのフランス政府が弾圧にのりだしました

▼三月十八日、市民・労働者が決起し、やがて短期間ながら権力をにぎります。史上初の労働者の権カパリ・コミューン。コミューンは、「市自治委員会」とも訳されます。マルクスは、リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」を思い起こす言葉でパリ・コミューンを語っています

▼「人民自身の社会生活を人民の手で人民のために回復した」(『フランスにおける内乱草稿』)。「真の自治」ともよびました。目標も方法も違いますが、その精神は、いっせい地方選をたたかういまにも生きています。
(「赤旗」20070319)

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──一八七一年三月一八日のパリ・コンミューン──それは、パリの労働者が、七二日間という短い期間ではありましたが、歴史がはじまっていらいはじめて国家権力をその手に握ったという、大事件です。なぜそういうことがおこったかを知るためには、一八七〇年にはじまった普仏戦争から説明する必要があります。

 ドイツのプロイセンの反動地主層を代表する宰相ビスマルクは、かねがね、フランスと戦って優秀な鉄鉱石と石炭がでるアルサス・ロレーヌの地域をうばいとり、そうすることによって、プロイセンの指導のもとにドイツの国家統一を実現しようと計画していましたが、たまたまスペインの王位継承問題がもちあがった機会をとらえて、彼はプロイセン王のナポレオン三世あての電報に手をくわえて、これを怒らせるようにしむけました。

 これは、エムス電報事件≠ニいうビスマルクの悪がしこさを象徴する事件ですが、これまた好戦的で、軽薄で、国内政治のいきづまりを対外戦争でなんとかきりぬけようと考えていたフランスのナポレオン三世は、この挑発政策にまんまとひっかかって、一八七〇年七月、プロイセンに対して宣戦を布告します。

 こうして普仏戦争がおこりましたが、いざ戦端をひらいてみると、戦局の帰趨はすぐさまあきらかになりました。用意万端ととのえていたプロシア軍国主義の軍隊によってフランス軍はたちまち打ちやぶられ、九月初めには自ら総司令官をかってでて前線にいた皇帝もろとも、フランスの一〇万の大部隊がプロイセン軍に降伏してしまいます。

 パリの労働者は、緒戦でフランス軍が敗れたときから、共和制の宣言と全市民の武装を要求して、デモを開始していましたが、この九月の大敗北の報せをきくと、すぐさまたちあがって腐敗しきった帝制をたおし、その圧力で共和派ブルジョアジーに臨時政府をつくらせ、共和国を宣言させました。このときまで大多数の労働者は、帝制をたおして共和制を実現すれば、ブルジョアジーをふくめて全国民が一致して祖国防衛のたたかいにたちあがるものと期待していたのです。

 しかし、労働者の期待ははずれました。共和国政府をその手ににぎったブルジョアジーは、領土割譲と多額の賠償を要求して侵入をつづけるプロイセンに対して、本気でたたかおうとしないばかりか、降伏政策、祖国を売りわたす計画を、一貫して追求しはじめたのです。パリ包囲の危険が刻一刻とせまっているのに、政府は、九月にパリのあらゆる階層の人々によって編成された国民軍にたいしては、ろくな兵器もわたしません。そのうえ、フランスに王政を復活させるという条件さえのんで、なんとか講和を実現させようと、外交的な画策をつづけているのです。

 ブルジョアジーと政府は、労働者階級が武装することに恐怖を感じており、ブルジョアジーの利己的なせまい階級的利益をまもるためには、首都も祖国も共和制もすべて売り渡す気でいる──この事実にパリの労働者が気がついたのは、その後のフランス政府軍のなかば意識的な敗戦につぐ敗戦と、一三二日にわたる敵軍包囲下のパリ籠城の、苦しい経験をとおしてでした。一〇月にはいるとパリ労働者のあいだで反政府的スローガンをかがげたデモがはじまり、ついで一〇月末と翌年一月には、少数のパリ労働者が蜂起をおこしました。

そして政府が、人民蜂起の失敗に乗じて革命運動の弾圧にのりだし、さらにプロイセンに対する降伏と屈辱的な講和締結をおこなったうえで、三月一八日パリ国民軍の武装解除にとりかかると、民族を裏切り、祖国を売り渡した政府にたいするパリ労働者の怒りは、ついに爆発しました。労働者階級を先頭にしてパリ市民は英雄的な蜂起へとたちあがったのです。

 蜂起を指導したのは、国民軍の中につくられていた大衆的政治組織である、セーヌ県国民軍共和連盟の中央委員会でした。政府軍兵士は民衆にむかって発砲することを拒み、官庁の建物や兵営、市庁舎はたちまち占拠され、政府はヴェルサイユヘと逃れました。中央委員会は権力を掌握すると、ただちに普通選挙で選挙をおこない、新しい、人民の国家権力機関であるパリ・コンミューンを選出しました。

 八六名の議員で構成されたコンミューンは、立法機関であると同時に執行機関で、コンミューン会議が採択した布告、法令はその委員会の手でただちに実施にうつされました。つまり、蜂起した人民は、おどろくべき創意を発揮し旧国家の官僚機構や軍隊、警察を粉砕したのち、ブルジョア議会制度とも手を切ってコンミューンという全く新しい型の人民の統治機関をつくりだしたのです。

 それは歴史上はじめてつくられたブロレタリア独裁の政権で、その多くの布告は、社会主義的傾向をもっていました。資本家が逃亡した工場、ついで大きな兵器工場が、労働者の生産組合にひきわたされ、夜間労働が禁止され、最低賃金制が実施されました。勤労者の家賃や借金の支払は軽減され、無償の義務教育制がしかれました。

 権力をその手ににぎった労働者は、こうして創意をもってつぎつぎに問題を処理していきました。しかし、コンミューンの中にはさまざまな意見がありました。国際労働者協会のフランス支部もまだ強固でなく、この中にもさまざまの見解があり、統一を欠いていました。まして、革命を指導できる単一の労働者階級政党は、まだ生まれてはいませんでした。マルクスは、普仏戦争でフランスが敗れて帝政が打倒され、共和制がうちたてられたときに、フランスの労働者にむかって、早まった時期はずれの蜂起をいましめて、共和制のもとで獲得した民主主義的自由を利用してまず強固なプロレタリア党をつくりだすことをすすめていました。

しかし蜂起が事実となってあらわれると、彼は国際労働者協会をつうじてこれに熱烈なあいさつをおくり、できる限りの手段をつうじて、情報の提供、正しい措置の示唆、あやまったやり方にたいする警告などをおこない、この闘争の支援に全力をそそぎました。しかし、こうしたロンドンからの援助には、限りがありました。

 そのうえ、こうした状況のもとでは当然のことですが、コンミューンも多くの重大な誤りを犯しました。蜂起すると国民軍中央委員会はすぐさまコンミューン選挙にとりかかりましたが、これは重大な誤りの一つでした。選挙をあとにひきのばしても、まず真先に政府の逃亡先であるヴェルサイユヘ進撃して、ブルジョアジーの政権にとどめをさすべきでした。そうはしないで選挙をやっているあいだに、政府はプロイセン軍にたのみこんで、フランス軍の捕虜を釈放してもらい、反撃の準備をととのえたのでした。またコンミューンはフランス銀行の貨幣をただちに没収し、パリにとどまっている革命の敵を容赦なく取り締り、さらに、農民と同盟するためにもっと努力すべきでした。しかし、こうしたことの必要は理解されていませんでした。

 四月二日、パリに対する政府軍の攻撃がはじまりました。経験ある軍事指導者を欠き、圧倒的な数の政府軍を敵にまわしながら、パリの労働者はよく約五〇日もその攻撃にたえました。しかし農民支持を欠き内部統一もされず、革命党の指導をもたないコンミューンは勝利することはできません。五月二一日にはついに、政府軍にパリ市内への進入をゆるし、五月二八日血の海の中で最後のバリケードを占領されたのです。三万の労働者男女が殺されました。四万五〇〇〇人以上のものがとらえられ、そのうち一万五〇〇〇人以上が、死刑にされるか、もしくは監獄にぶちこまれ、南太平洋の島に流されました。

 パリ、コンミューンは七二日間の短い生涯を血の海の中でとじました。しかしこの英雄的なたたかいが各国の労働者階級にあたえた影響は、絶大なものでした。

 革命的社会主義への関心はつよまり、国際労働者協会の威信はつよまりました。
(中林賢二郎著「世界労働運動の歴史 上」労働旬報社 p89-94)

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 ドイツの労働者は、ヨーロッパの他の国々の労働者にくらべて二つの重要な利点をもっている。

第一には、彼らがヨーロッパで最も理論的な国民に属しており、そして、ドイツのいわゆる「教養ある人々」がまったく失ってしまった理論的感覚を保持していることである。

もし、ドイツ哲学、とくにへーゲル哲学というものがさきだって存在していなかったなら、ドイツの科学的社会主義──これまでに存在したただひとつの科学的社会主義──は、けっして生まれてこなかったであろう。

もし労働者のあいだに理論的感覚がなかったなら、この科学的社会主義は、けっしていまのように彼らの肉となり血となってはいなかったであろう。

そして、このことがどんなにはかり知れぬ利点であるかは、一方では、イギリスの労働運動が、個々の職業はいかにもみごとに組織されているにもかかわらず、あのように遅々としてすすまないおもな原因の一つが、いっさいの理論にたいする無関心にあることをみ、他方では、プルードン主義が、フランス人とベルギー人のあいだではそのもとの姿で、スペイン人とイタリア人のあいだではバクーニンによって一段と戯画化された形態でひきおこした無秩序や混乱をみれば、はっきりわかる。

 第二の利点は、ドイツ人が時期的にほとんど最後に労働運動に登場してきたことである。

ドイツの理論的社会主義は、サン・シモン、フーリエ、オーエンという三人の人物、どんなに空想的でユートピア的であろうと、やはりすべての時代をつうじて最も傑出した思想家に属し、今日その正しさが科学的に立証されつつある無数の事柄を天才的に予見したこの三人の人物の仕事に、自分が支えられていることを、けっして忘れないのと同様に、──ドイツの実践的労働運動もまた、自分がイギリスとフランスの運動に支えられて発展してきたこと、この両国の運動が高価な代価を支払って得た経験をそのまま利用して、当時にあっては大部分避けられなかったその誤りを今日では避けることができたということを、けっして忘れてはならない。

もしイギリスの労働組合とフランスの労働者の政治闘争との先例がなかったなら、ことにパリ・コミューンがあたえた巨大な刺激がなかったなら、われわれはいまどうなっていることだろうか?

 ドイツの労働者が、自分の地位の利点をまれにみる分別をもって利用してきたことを、認めなければならない。労働運動というものが成立して以来いまはじめて、闘争はその三つの方面──理論的方面、政治的方面、実際的・経済的方面(すなわち、資本家にたいする反抗)──にわたって、調和と連関を保ちつつ、計画的に遂行されている。

このいわば集中された攻撃にこそ、ドイツの運動の強さと不敗の力とがある。
(エンゲルス「「ドイツ農民戦争」1870年版への序文への追記」ME全集第18巻p516-517)

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◎マルクスは、パリ・コミューンを語っています。「人民自身の社会生活を人民の手で人民のために回復した」……「真の自治」と……目標も方法も違いますが、その精神は、いっせい地方選をたたかういまにも生きてい」ると。