学習通信070328
◎おじいちゃんは……あこがれのヒーロー

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現論
真似ることは学ぶこと
役重 真喜子

 ここ岩手の早地蜂山麓(さんろく)に散らばる集落のいくつかには、古(いにしえ)より伝わる山伏神楽が今も大切に継承されている。その一つ、花巻市東和町の石鳩岡神楽の舞初めが、今年も地元の集会所で行われた。

 老若男女が敷きゴザの上で振る舞い酒を楽しみつつ、躍動感あふれる舞を堪能していた時、ほほえましいハプニングが起きた。

 客席で母親におとなしく抱かれていた三歳くらいの坊やが、何を思ったのか突然母のひざから飛び降り、舞台を真似(まね)て踊り始めたのである。

 「めんげエ(かわいい)こと」──初めは笑って眺めていた観客の目が、次第にその子の動きにくぎ付けになった。太鼓のリズムに全身を乗せ、激しく頭を振り、足を打ち鳴らす。うまいのだ。

 十分、二十分と舞い続ける間、幼子の目は舞台上の一人
の舞手にひたと吸い付き、離れない。彼の一挙一動を追い、夢中で真似る。舞手は幼子の祖父だった。

 伝統芸能の中には技の継承だけではない、何かとても大切なものがある。経験を積むことでしか修得できない、技と表現力。おじいちゃんは、あの子にとって憧(あこが)れのヒーローなのだ。

年長者の知恵

 年長の者を真似、憧れ、われも近づきたいと願う切なる気持ち。そこには、人としての成長の源があり、エネルギーがあり、そして教育の一番大切な原点があるのではないだろうか。

 「学ぶ」の語源は「まねぶ」、つまり「真似る」にあるという。頑張ってああいうふうになりたい、と真似る相手があってこそ、人は学ぶ。

 身の回りを眺めれば、農村の暮らしの中にも伝統芸能にも負けない「真似び」の世界がある。野良へ出れば、畝の切り方も田んぼの水見も、じいちゃんが手本。台所では釜の火加減、漬物作り、ばあぢゃんにかなう者はない。

 厳しい自然と向き合い、生きていくための豊かな知恵や技を、年長者は持っている。だからこそ、若い者は年長者を敬い、真似てきた。嫁は姑(しゅうとめ)を真似、子は親を真似た。

 ところがいつのころからか、この「真似び」に微妙な変化が生まれた。農業が後退し、農業の達人としての年長者は出番が減った。家の中でも「レンジでチン」方式が普及し、年長者の手技や工夫のありがたさは忘れられかけている。

 「じいちゃん、すごい」「大人ってカッコいい」という真似と学びの原点が、身辺から少しずつ遠ざかっているのである。

大人社会の不信と危険

 一方で、子どもたちがメディアを通じて受け取る大人社会の姿は、あまり真似をしたくない危険と不信に満ちたものになってしまった。

 「今の子は学ぶ意欲がない」とよく言われるが、「真似したい」「学びたい」と思ってもらえる社会を、私たち大人はつくってきただろうか。

 「あんまり自信をもって真似しろとは言えませんね」と苦笑するのは若いS先生。「なのに、どうして僕らって、子どもにばかり理想を要求するんでしょう」

 学校現場に押し寄せる時代の要求は、「食育」「防犯教育」にはじまり、「消費者教育」「金融教育」「租税教育」「確かに大事だなってことは分かるけど、子どもたちはもうアップアップですよ。そもそも、脱税って大人がするものでしょ? 小学生に『税金は納めなさい』って教えておいて、大人は平気で悪いことしてるなんて……」

 学ぶことは真似ること。教育基本法の改正論議が盛んだが、法律にどんな美辞麗句を並べるよりも、百の「OO教育」を進めるよりも、真似られる社会をつくる地道な努力と汗こそ、子どもの中に本当の種をはぐくむのではないだろうか。どれだけ水をやり、肥料を与えても、蒔(ま)かぬ種は芽を出さない。

 時折、わたしは思い出すのだ。神楽で見た幼子の、祖父を追う半ば必死な目の色──あのまなざしの中には、しっかりと「種」が蒔かれていた。この先何かあっても、あの子の種は丈夫な芽を出し、おじいちゃんをめざして、まっすぐに伸びていくだろう。(花巻市教育委員会東和事務所長)
 やくしげ・まきこ 1967年茨城県生まれ、首都圏で育ち東大法学部卒。上級職として農水省に入省したが、牛を飼う夢を捨てられず、研修で暮らした岩手県東和町(現花巻市)の職員に転身。現在、同市教育委員会東和事務所長。田舎に来た経験をつづった著書 「ヨメよリ先に牛(ベコ)がきた」はテレビドラマ化された。
(「京都新聞」2006524)

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教えこむよりまねることから
──基本的生活習慣

 基本的生活習慣は、集団のなかでこそつけやすいというのはたしかです。親は、親のいうことをちっともきかない子どもが、保育者のいうことはとてもよくきくのを、しばしば経験しています。

 これには根拠があるのです。小さい子どもは、耳から聞いて学ぶことは不得意です。目から見て学ぶ(まねる)ことは名人です。耳から学ぶことが立派にできるようになるのは、抽象化する能力が発達してくる小学校の高学年になってからのようです。

 集団のなかでは、子どもは友だち(仲間)のやっていることを目で見て、みずからの経験にしていく機会にうんとめぐまれています。

 二歳近い男の子で、かかえてやらないとおしっこをしない子がいました。自分で立ってするようにいってもなかなかしません。あるとき、四歳の男の子がおしっこをしているのを、すぐ隣で見ました。おチンチンの先からシューととんでいくのを、おどろいてのぞきこむようにして見ていました。その後、彼は自分で立ってするようになりました。

 三歳児、『キョウ、キュウ食ノトキ、テッチャン、手二砂ガツイテイテ、アライナオシニイカサレタヨ』『そう、あんたは?』『アタシ キレイダッタモン』と、母親に報告するかどうかは別として、食事やおやつの前には手を洗わねばならぬこと、きたなくては洗いなおしにいかされること、それを自分の目で学ぶ機会が毎曰くりかえされています。

 四歳児、家庭では食事がおそく、また食べる量も少なく、親の悩みのタネです。ところが園ではよく食べます。

 この子の気持を代弁してみましょう。

 ちょっとおやつが多くて、ボクがおなかがいっぱいのときでも、『あれ、どうしてこのお魚たべないんでしょう? からすぎるかい』と勝手にお湯でうすめてくれる。いよいよいやになって食べないでいると、『こっちの方がいいかい? あっち?』もし少しでも食べればすぐ『これも食べるんだよ』とくる。うるさくなって隣室のおもちゃ箱の前にすわると、『食事中に立ってはいけない』とつれもどされる。おばあちゃんも、ママも、食事中何度も何度も立ちあがるくせに!

 ボクは保育園の方がよく食べるよ。だってどっちの隣の子もね、机のむこうの子もね、すわって食べているよ。ウドンもひき肉もね。野菜もだよ。すんだらみんなで遊ぶんだよ。

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◎「基本的生活習慣は、集団のなかでこそつけやすい」と。