学習通信070404
◎自分の責任で問題を解決していく自覚と能力をもった活動家……

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……もしも都市において労働者が教育されないならば(すなわちブルジョアジーに服従するように教育されないならば)、労働者はものごとを一面的に、邪悪な利己心の観点からみて、抜け目のない扇動者にわけなく誘惑されることであろう──それどころか、彼らは自分たちの最大の恩人である質素で、企業心にとむ資本家を、ねたみ深い敵意のある目でながめることだってできるであろう。

この場合りっぱな教育だけが救済できるのであって、このような教育がなければ、国民的破産や、そのほかの恐ろしい事態が続発するにちがいない。

なぜなら、このような教育がなければ、労働者の革命が起こらないわけにはいかないからである。

そして、わがブルジョアがおそれるのも、まったく当然のことである。たとえ人口の集中が有産階級にはたらきかけ、彼らを刺激し、発展させるとしても、それは労働者の発展をさらにいっそう急速におしすすめる。労働者は、自分たち全体を階級として自覚しはじめる。

労働者は、自分たちひとりひとりは弱いけれども、いっしょになれば一つの力となることに気づく。

ブルジョアジーからの分離、労働者とその社会的地位とに固有なものの見方や、観念の形成が促進される。

抑圧されているという意識が生まれてくる。そして労働者は、社会的および政治的重要性を獲得する。大都市は労働運動の発生地である。

大部市において、労働者ははじめて自分たちの状態について反省しはじめ、これと抗争しはじめたのである。

大都市において、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立がはじめて出現し、大都市から、労働者の団結や、チャーテイズムおよび社会主義が出発したのである。

大都市は、農村では慢性的なかたちであらわれた社会という身体の病気を、急性的なかたちに変えてしまい、またそうすることによってこの病気独特の本質と、同時にこの病気の正しい治療法とを明らかにした。

もしも大都市と、社会的知性の発達を促進する大都市の影響とがなかったならば、労働者は、今日彼らがおかれている状態にまで、とうてい達することはできなかったであろう。

そのうえ大都市は、労働者と雇い主とのあいだの家父長制的関係の最後の痕跡をも破壊してしまった。大工業もまた、ただ一人のブルジョアに従属する労働者を何倍にもふやすことによって、この破壊に貢献した。ブルジョアジーは、もちろんこのことを嘆いている。

──略──

労働者の奴隷状態を偽善的に隠蔽していた家父長制的関係のもとでは、労働者は、精神的には死亡し、自分自身の利益についてはまるで無知であり、ただの一個人としてとどまるほかなかった。

労働者が、自分の雇い主から遠ざかったときはじめて、彼が私的利益だけによって、金もうけだけによって雇い主と結びついているにすぎないことが明らかになったとき、ほんのわずかな試練にさえ耐えられなかったうわべの愛着がまったくなくなったとき、そのときはじめて労働者は、自分の地位と自分の利益とを認識しはじめ、自主的な発展をはじめたのだ。

そのときはじめて労働者は、自分たちの思想や、感情や、意思表示の点においても、ブルジョアジーの奴隷であることをやめたのだ。

そして、以上のことについては、おもに大規模な工業と大都市とが貢献したのである。
(エンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」 ME全集第2巻 p349-350)

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階級的自覚をもった成長ヘ

 ことわざに「いそがばまわれ」というのがある。活動家が、どのようにおおくの労働者の階級的成長をねがっても、そのたどるべきみちすじを無視しては、一_、一aの前進も画されないだろう。

 労働者が階級的に成長していく過程は、弁証法的にジグザグであることをまぬがれない。

たとえば、あるひとつの問題については階級的にとらえられても、別の事情の問題についてはまだふるい認識でとらえているといったこともあれば、いちどは階級的にとらえられていた問題が、つぎの条件のもとでは「わからなく」なってあともどりすることもありうるといったように。

そうしたジグザグ、前進と後進をくりかえしながら、ひとりの労働者が真にしっかりとした階級的労働者に成長していくのだ。

そこには、ふるいものとあたらしいもの、非階級的なものと階級的なものとのたたかいがひきおこされている過程があるわけだ。

それをみとめないで「一直線」に前進すべきだという断定から、階級的に自覚しはじめた労働者に対処するのはただしくないのである。

 労働者が、階級的に成長し自覚していくうえで欠けてはならぬこと、それは、たえず明確に自分たちと対立する支配や搾取に目をむけていくようにすることだ(ある人は、労働者の自己変革を第一義的におくように主張するが、労働者の階級的成長にとってまず自己の内部世界に目をむけさせるのは、ただしくないのである。

労働者の階級的成長にとっては、たえず社会的、階級的問題に目をむけ、自分たちに敵対する関係を明確にとらえることを基本にせねばならない)。

そうして、要求をかかげて闘争し実践すること──これが、労働者の階級的成長をつくりあげかためていくうえで決定的に重要な条件だ。

つまり、レーニンのいう、専制、抑圧、暴力の行為に反応する習慣、それにたいする革命的反応をそなえた労働者として成長しなければならないのである。

それらに鈍感となり感覚がマンネリ化してしまうとき、労働者の階級的成長はそこでストップし、あとずさりすることはまちがいなしである。

 また、労働者の階級的成長のためには、たんに自分の企業内のことをとらえる(ここからは「組合主義」的意識しかもたらされない)だけでなく、階級としての労働者全体のこと、さらに資本主義社会の全階級の相互の関係を全面的にとらえることにすすまなければならないのである。

ものごとは連関のなかではじめてただしくとらえられることができるということは、ここにも生かされなければならない。

つまり、労働者の階級的自覚とは「自分たちのことを知る」ことであり、それは、資本主義社会のなかでおかれている自分たちの客観的な地位を知ることにほかならない。

しかしそのことは、自分たちのことだけに目をむけているときには、とらえられないのである。

他の階級とのつながりと区別のなかで、みずからの地位をあきらかにできるのであるし、同時にそのとき労働者階級は、他の勤労階級、抑圧されている人民の先頭に立ってたたかわねばならないという指導階級としての役割についての責務を知ることにすすむのである。

 また、労働者の階級的な自覚、成長とは、みずからの解放を徹底的に実現するには、みずからの手に政治権力をにぎりしめねばならぬということを自覚し、そのためのたたかいにすすむようになることを自覚することにほかならないのである。

 私たちは、以上の諸点をあきらかにしていくには、科学的理論を学ぶことをぬきにできないといえよう。

しかし、労働者の経験や意識を離れて、階級的な成長をもっぱら理論的知識、政治的知識によって頭脳を変革することにかぎるならばけっしてただしくない。

なぜなら、そのようなばあいの知識はアクセサリーともなりやすく、闘争と実践を逃避した、「左」右の日和見主義に転じることもふせぎえないからだ。たとえば、歴史上もそうした人物がいた。

カウツキーがそうである。

「カウツキーがマルクスをほとんど暗記していること、カウツキーのすべての書いたものから判断すると、彼の机のなか、あるいは頭のなかには、多くの小箱がおいてあって、そのなかにはマルクスの書いたもの全部、引用するのにこのうえなくつごうのよいように、まったくきちんと分類されていることを忘れてはならない」(『プロレタリア革命と背教者カウツキー』)とレーニンが述べていたような「経文読み」のカウツキーは、労働者階級に敵対する立場に変節してしまったのだった。私たちは、こんなふうな活動家をそだててはならないのだ。

 熱情がさめ、闘争への意気ごみが消沈し、やることに気迫がなくなり、意志薄弱な階級的な労働者を私たちがつくりあげるとしたら、それは、おおきな罪悪といわねばなるまい。

そのためには、どんなに成長した、またいかに責任ある部署にある活動家にせよ、たえずもっとも苦しみをもっている労働者の生活にむすびつき、闘争している労働者の現場に足をはこび、そこから学ぶことが必要だ。

そのために、ふるい活動家、高い部署にいる活動家は、階級的に自覚していない労働者にもっと接近すべきである。

自分の周辺が、同じ見解をもつ仲間だけにとりかこまれているとき、その人は、生き生きとした階級的な労働者を育てあげる仕事はやりとおせないであろう。

こうしたとき、ひからびた知識の切り売りをもって、政治的、理論的な力とする思いちがいが生まれるのだ。

 また、階級的に成長した労働者が、活動家としていっそう成長していくためには、その人が、具体的な問題を自主的に発見し、それを自主的に判断し解決する力をもつように助けていかなければならない。

いわれたことを唯々諾々(いいだくだく)と聞き、盲目的にうごきまわることが活動家のすがたであると思いこんだら、これもまたおおきな誤りだ。

どこの世のなかに、個々の特殊性をそなえ多種多様な要素をまとっている職場の間題や個々の労働者の状況を、自分のたなごころをさすように知りつくしている人物がいるだろうか。

もしだれかが、どこの、どんな問題についても、決定的な発言をしうると思いこんでいるとするならばこれほど無責任な人物はいないのである。

 日本の三千万人以上を占める労働者階級の「頭脳を変革」していく活動、要求の実現をめざす闘争、社会を変革していく闘争はすべて、無数の活動家の、現実にもとづいた自主的・創造的な活動をぬきにしては成功はおぼつかないといえよう。

こうしてたいせつなことは、自分の頭でしっかり考え、自分の責任で問題を解決していく自覚と能力をもった活動家に、すべての自覚した労働者は成長しなければならないのだ。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p72-77)

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◎「そのときはじめて労働者は、自分たちの思想や、感情や、意思表示の点においても、ブルジョアジーの奴隷であることをやめたのだ」と。