学習通信070405
◎話芸のリズム感と戦後のジャズ文化……

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潮流

クレージーキャッツの「スーダラ節」をきいたとき、子ども心に新鮮でした。いままでみたことのないようなグループ。きいたことのない型の歌。数えてみると、四十六年前です

▼会社勤めの人たちの哀感こもる歌、といわれます。しかし、「分かっちゃいるけどやめられない」の文句は学校でもはやりました。学校で格差づけと管理がきつくなり始めていて、子どもたちは、軽やかな開き直りになんとなく共感したのかもしれません

▼クレージーキャッツの植木等さんが亡くなりました。きまじめだった植木さんは、「こんなばかな歌が歌えるか」と断り続けていた「スーダラ節」を、仕方なく録音しています。それが大ヒットしました

▼父の徹誠さんは、若いころ労働運動の道へ。寺の住職になっても、昼に経を唱え夜に「インターナショナル」をくちずさみ、差別される部落民の訴えに涙をあふれさせる人。部落差別をなくす闘争を指導し、治安維持法違反で捕まります

▼戦争が始まると、檀家に説きます。「戦争は集団殺人だ。必ず生きて帰ってこい。なるべく相手も殺すな」。たびたびの検挙や運動に忙しい父に代わり、小学生の等さんが檀家を回り、お布施を集めました

▼「等」は父の命名です。平等が人間社会の根本、との考えを表します。「私は、この名前を誇らしいと思っている。本名も芸名も、この名前一本でやっている」(『夢を食いつづけた男』)と植木さん。格差と貧困が広がるいまを、どんな思いでみていたのでしょう。
(「赤旗」20070329)

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追悼
Modern Boy植木等
 井上  鑑

 師と仰ぐ大屋詠一氏がプロデュースした金沢明子歌唱一九八二年のヒット曲「イエローサブマリン音頭」という戦後日本ポップス史に輝く名作があります。その曲が今は無きソニー六本木スタジオで録音された時、編曲はクレージーキャッツの数々の名曲を作編曲した萩原哲晶氏が大瀧詠一氏のリスペクトを受けて担当したのでした。

 当時僕の方はポップスの歴史やクレージーをはじめ黎明(れいめい)期の逸材たちに対する知識も持ち合わせず、面白いおじさんが奇抜なアレンジをするもんだ、程度の感想しか持ちませんでした。今思えば無学蒙昧(もうまい)を呪うばかりですが萩原氏のキャリアを思えばその千夜一夜の博識のお話を伺うこともなく、ユニークな発想の源を探ろうとすらしなかったのでした。

 今、植木等という昭和を象徴するイコン(icon 聖画(像))を失って初めて、先だったハナ肇氏、そして萩原哲晶氏の存在の大きさもまた思い起こさざるを得ません。スウィングジャズと音頭の融合というか共存共栄というか、実に日本の話芸のリズム感と戦後のジャズ文化、モダニズムとの絶妙のバランスが彼らの仕事の中で息づいていた訳です。他者を貶(おとし)めたり嘲笑(ちょうしょう)したりせず自然で長続きする笑いを創造するセンスは特定個人の強烈なものでは無かったはずで、「モダンボーイが気取りながらも面白がって作っている」、そんな空気感は現代的に言えば「何かカワイイ、でもよく見ると格好良い」とでもなるのでしょうか。

 改めて音源を聞き直すとまず植木氏の正確かつ表現力あふれるボーカルのリズムに驚かされます。当時は現在のようなデジタル編集技術も無く、録音技術と演奏技術の役割分担も拮抗(きっこう)していた時代でした。良い録音と良い演奏、歌唱は同意語であったといっても良い時代にこの自由奔放(に聞こえる)な表現をスタジオで自在にできた、という事は彼の音楽性を証明して余りあるところです。

 しかも歌やせりふの合間の器楽部分のハーモニーやフレーズの絡み方はチャップリン以来の映像的かつ心象的、しかも音楽的にも決して単純な作りではありません。これらは萩原氏のセンスなのでしょうが、植木氏の声の持つ多彩な強弱や語尾のニュアンスとあいまって日本人にしか作り得ないグルーヴ感(を作り出していたのです。そんな視点で「遺憾に存じます」や「ハイそれまでよ」などの曲を耳を澄ませて聞いてみて下さい。オーケストラの編曲、特にべ−スと金管のコンビネーションは当時の水準を遙(はる)かに超えています。

 さて、僕が生前の植木氏と本当に共演させてもらったのはH社の軽自動車のためのCM音楽録音でした。一九八四年の一月の事、もう二十年以上前のことですがスタジオ入りした氏のクールなダンディーさは印象に新しいものがあります。日本語のラップを、というオーダーに氏は最初「そういう新しいモノは知らないのよ」と心配げだったのですが、僕が「こういうリズムの上でこのフレーズを語って」等と具体的に説明すると「なーんだ、それなら昔からやってるよ」とすぐにOKテイクをものにして下さいました。楽しんではいたものの決して自己中心的に行き過ぎない、その姿勢は甘いものではなかった、その記憶が今鮮やかによみがえります。

 時代の鏡としての文化論のみではなく日本音楽史の貴重な遺産である(バックのアレンジも含めて)音楽作品を真摯(しんし)に聞き直すきっかけとして植木氏との別離をせめて実りあるものにしたいと思うのは僕だけではないと信じます。

いのうえ あきら
一九五三年生まれ。作曲・編曲家、キーボード奏者。アレンジャー、プロデューサーとして多くのミュージシャンのプロジェクトに参加。
(「赤旗」20070403)

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◎「学校で格差づけと管理がきつくなり始めていて、子どもたちは、軽やかな開き直りになんとなく共感したのかもしれません」と。