学習通信070409
◎ちょうど愛情の問題でそれが致命的……

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自分を客観的に見ること

 弁証法の諸要素を記述するにあたって、レーニンは、まずつぎのように書いた。

 「@考察の客観性(実例でなく、枝葉末節でなく、事物それ自身)」。
 これはどういうことであろうか。
 活動にあたって客観的にものを見ることができなければ、成功はおぼつかない。なぜなら、活動の成功とは、私たちの主観的な目的が客観的に実現されることである。私たちの主観的な目的が客観のただしい反映のうえに立てられたものでなければ、そうした成功は不可能だ。

 しかし、客観を主観にただしく反映するとは、その枝葉末節をとらえることではない。たとえばこんなこともある、またあんなこともある、というぐあいにいくら枝葉をならべたてても、それで客観的な事物をただしくとらえることはできない。子供の遊びに「絵あわせ」というのがある。まとまった一つの絵をいくつもの断片にわけて、ごちゃごちゃにして、ただしくつなぎあわせる遊びだ。その断片の一つ一つは、まがいもない全体の部分である。しかし、つなぎあわせかたがくるえば、全体としてくるってくる。部分がいくらただしくとも、それをよせあつめただけでは生きた全体にはならないのである。

 だから「必要なのは生命のない骨片ではなく、生きた生命である」ということになる。「実例でなく、枝葉末節でなく、事物それ自身」というのはこういうことであろう。

 しかし、ではどのようにしたら、「枝葉末節でなく、事物それ自身」をとらえることができるのだろうか。

 もちろん、このことには、これといって特別な秘法があるわけはない。努力する以外にないのである。しかし、そう努力するにあたって、心にとめておいたほうがよいということがなにかないだろうか。

 ここでとりあげるのは、そういうことの一つである。
 私たちはここで、事物の「枝葉末節」をとらえるのも、「事物それ自身」をとらえるのも、けっきょくは私たちの主観であるということに注目しよう。

 だれだって、枝葉末節だけをとらえたいなどと願う人はいないであろう。だれだって「事物それ自身」をとらえたいと願っているであろう。それなのにどうしてしばしば、私たちは枝葉末節だけをとらえて、かんじんの本筋をとらえそこなうのであろうか。

 浅瀬で溺れるということがある。足をしゃんと下にのばせば、確かな水底に足がつくのだ。水面から頭をもたげることができるのだ。ところが、どうにもそれができない。もがけばもがくほど、どうしようもなくなっていく。

 なぜ、そういうことになるのか。「ようするに、なれの問題さ」と答えられるかもしれない。しかし、なれとはなにか。

 なれている人は、ゆとりがある。なれていない人はゆとりがもてない。ゆとりとは、どんなゆとりか。自分がおかれている状況を客観的に反省することのできる心のゆとりだ。そういっていいのではなかろうか。

 問題はここにある。自分自身を客観的に見つめるゆとりがないと、あせればあせるほど、やくにもたたないワラばかりつかんでしまうのではないか。そして溺れなくともいいのに溺れてしまうのではないか。

 愛情の問題などでまよいこむときもまさに同様であろう。アバタもエクボということだけをいっているのではない。自分の生きかたの本筋が見失われて、迷路にはいりこんでしまうのである。迷いこんでいる当人は、本気で考え、真剣に苦しんでいるのだが、その考えなやんでいることが自分の生きかたの本筋からいえば枝葉末節のものにすぎないということがわからない。そのことには目がふさがれている。「恋は盲目」などといわれるゆえんだ。そして、わきから見ると、どうしてあんなアホウなことを、とあきれるようなことを、大まじめに思いつめ、よけいなことをなやみ考えている。熱病からさめたあとでは、本人自身あきれるようなことなのだが、思いつめているときはそれがわからない。そしていけないことには、ややもすれば相手をも、その枝葉の迷路のなかにひきずりこんでしまう。

 これもまた、自分を客観的に見ることができないという問題である。
 活動家のなかには、まま、つぎのような人が見かけられる。一言でいえば「思いこんだら百年目」というタイプだ。一度こうと思いこんだら、どんなにことをわけてそのまちがいを指摘されようと、もう耳にはいらない。耳にはいっても、頭にはいらない。順に一時はいっても、じきにぬけだしてふりだしにもどる。

 こうした人は、主観的にはたいへんまじめな活動家なのだ。しかし、残念なことに主観主義なのである。

 こうした人は、一般に神経質だ。神経質だから、いろいろと人の意見をきく。きくのだけれども、それにしたがって考えるわけではない。ようするに、自分の気をすませるためにきくのだ。だから、終始一貫、自分の思いこみがあるだけだ。なんの発展もない。主観主義といわれる所以である。

 こういう人は、いつも満たされぬ思いを抱いている。思いこみがまぐれで実現することなど、そうやたらにあるわけではないし、自分の気もちとそっくりの意見や出来事がそうざらにあるわけではないから、当然そうなる。だから、なにごとにつけ、なかなか首をタテにふらない。何割かは、つねに首をかしげる。そして、セカセカといつも目先のことを追っかけ、キリキリまいして、疲れて、そして本筋のことをポッカリととりにがす。

──じつは、たいしたことを追っかけているわけではないのだ。どうでもいいこと、あるいはどうしようもありえないことである場合がおおいのだ。それなのに、それがたいへんなこと、どうにかそれをしなければ、いっさいがっさいがどうにもこうにもならなくなることであるかのように思いこんでしまう。そうして浅瀬で溺れてしまうのである。

 こうした活動家の問題もまた、自分を客観的に見ることができないところにある。

 自分を客観的に見ることができないと、周囲の状況をその本筋を客観的にとらえることもできないのである。

 では、自分を客観的に見るために必要なことはなにか。

 第一には、自分がいま、浅瀬で溺れているのではないのかと、つねに自分に間いかけるように努力するということだ。自分がいまとらえているものが、やくにもたたぬ枝葉にすぎないのではないかと、あえて自分に問うてみることだ。

 そのように自分に問いかけてみたところで、必ずしもただしい答がでてくるわけではないだろう。それがかんたんにでるくらいだったら、そもそも始めから問題などおこらぬはずだ。しかし、あえてそのように問うてみるということは、けっして無意味なことではない。それは自分を客観視する第一歩である。

 では、第二歩はなにか。それは、他人の批判に耳を傾けることである。
 もちろん、自分の気をすますためにきくのであってはなんにもならない。自分の姿を客観的にとらえるために、他人の目を借りるのである。

 そうしたうえで、さいごの決断をくだすのは、もとより自分自身である。他人の意見をとりいれるかいれないか、どれだけとりいれるかをきめるのは、やはりけっきょくは自分自身である。そして、そのような自分の目でものごとを判断し、それにしたがって活動するのである。しかし、これだけの内的な過程をふまえての判断であれば、それはもはやたんに主観的なものではありえない。たとえそれがなお、客観からおおきくずれていたとしても、そのずれをただすことのできるフシブシが、その判断(認識)のなかにはつくられている。一定の内的過程を経過しているからである。これがないと、まちがってもなにがどうまちがったのかさっぱりわかりようがない。したがって実践のなかでただすべき手がかりもない、ということになるであろう。

 こうして、第三歩は、活動の客観的な結果をカガミとして自分自身の姿をとらえるということである。この第三歩は、第一歩、第二歩のうえにはじめてなりたつものである。

 主観主義は活動家にとっては致命傷だ。ちょうど愛情の問題でそれが致命的であるように。相手の立場に立てないかぎり、ほんとうの愛情は成立しまい。活動においても同様である。

 誠実であることと神経質であることとはけっしてイコールではない。活動家は鋭敏な神経を必要とする。しかし、神経をするどくとぎすますということと、神経質になるということとはまったく別のことである。活動家にとっての神経とは、まさに大衆にほかならない。大衆の目や耳こそ活動家にとっての貴重な神経器官である。これに反して、神経質とは、せまい自分の主観のなかだけに終始して、いわゆるアタマにきっぱなし、ということである。これは主観的にはいくら誠実であっても、活動家としては不誠実といわねばならない。なぜなら、活動家の活動は、大衆にたいして責任を負うものだからである。

 活動家は、たとえ話し下手であってもいいから、聞き上手でなければならない。それこそが、唯物論的な態度である。まかりまちがっても「しゃべり好きの聞き下手」であってはならない。それでは活動家失格なのである。ところが、案外とこのような「まかりまちがった」スタイルの活動家がいるのではなかろうか。

 電車のなかなどで、あたりかまわぬ大声でとなりの人に話しかけている人を見ることがある。話しかけられたほうはめいわくそうにしているのだが、大声で話しているほうは相手の表情など目にはいらない。目にははいるのかもしれないが、気にはかけない。もちろん、そんな自分の姿がはた目にはどんなに映じるかということなど、念頭にのぼりもしない。世間では、そういう人のことを「教養がない」という。私たちはそのような「教養がない」活勤家にな、てはならない。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p78-86)

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主観主義
──一般に、真理・や善悪の尺度が人間の心・主観にあると考える立場、あるいは、事物の客観的な認識にもとづかないで、主観的なおもいつきや願望から出発して判断したり、行動したりする態度・考え方のこと。

後者の主観主義の代表的なものとしては、@具体的条件を無視して理論を機械的に適用したり、じっさいの調査・分析をやらずにある命題から演繹(えんえき)して結論をひきだす教条主義、Aじぶんのせまい経験から出発して、事物をふかく全面的にはあくするためめ理論を軽視する経験主義などがある。

これらは、ともに理論と実践をきりはなしたり、現実の一側面だけを重視したりする一面的な態度とむすびついている。そのため、階級闘争のなかでは、情勢の有利な面だけをみて極左冒険主義にはしったり、困難な面だけをみて日和見主義におちいったりする原因となる。
(「社会科学総合辞典」新日本出版社)

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◎「主観主義は活動家にとっては致命傷だ」と。