学習通信070410
◎自分の思想にまでなっているから恐ろしい……
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──あいたロがふさがらない。
まことに、誤りを固執し、それを掘りさげて基礎づけ、誤りを「どこまでも押しすすめる」ならば、小さな誤りも、いつでもとほうもない大きな誤りとなりうるのである。
(レーニン「共産主義内の「左翼主義」小児病」レーニン8巻選集H 大月書店 p276)
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失敗とあやまちにたいする態度
これまでにいろんな人がやったことをくりかえすだけであれば、失敗ということはたいして問題にならない。つけられた道をあゆんでいって、行きつくところに行きつくだけである。失敗しても、そこには責任の意識は生じない。
しかし、活動家にあたえられている課題は、つねに、新しい道をきりひらくことである。まだつけられていない道をつけること、まだなしとげられていないことをなしとげることである。その過程では、大小の失敗が自分の責任としてでてくることをさけることはできない。
しかし、そうであってこそ、かれは活動家といえるのだ。失敗をおそれ、ことが面倒になることをおそれて、「無難」な活動に終始しているかぎりは、なんら活動家としての責任をはたすことはできないであろう。
活動の成功を保障するものは、ただしい認識である。しかし、ただしい認識のかくとくということは、実践とむすびついた不断の過程である。若いマルクスがかつていったように上をむいてポカンと口をあけていれば、「ただしい認識」の焼鳥が口のなかにとびこんでくるわけのものではない。
「新しい諸側面、諸関係、等々を開いていく無限の過程。
事物、現象、過程、等々にかんする人間の認識を、現象から本質へ、それほど深くない本 質からいっそう深い本質へと深くしていく無限の過程」(レーニン『哲学ノート』)。
この過程は、大小の失敗を不可避的にともなう、矛盾にみちた実践の過程と一体のものである。
「認識とは、思考が客観に、不断に、無限に接近してゆくととである。人間の思想における自然の反映は、死んだ∞抽象的≠ネ、運動を欠いた、矛盾のないものとして理解してはならず、運動の不断の過程、矛盾の発生と矛盾の解決との不断の過程のうちにあるものとして理解しなければならない」(前掲書)。
失敗をおかさないものは、なにもしないものだけである。なにもしないものは、たしかに失敗することはない。しかし、成功することもない。その見本は墓場のなかの死人だ。
生きた活動にとって、失敗はさけられないものであり、それをおそれてはならない。「失敗することが悲しいのではなく、失敗の原因がわからないことが悲しいのだ」とマリー・キユリーはいった。これこそ、私たち活動家の態度であるべきだ。
失敗をおそれず創造的な活動にとりくむものだけが、失敗から学んでこれを成功にかえる能力をもつ。ものごとについての生きた認識をもちうるのも、そのような人だけである。
失敗はしばしば、あやまちとも呼ばれる。しかし、ここでとくにあやまちというのは、活動家の思想上の欠陥に由来するもののことである。
どのような活動家も、大なり小なり思想上の弱点をもっている。どんな弱点ももたない活動家など、この世には存在しない。だから、活動するなかで、その弱点が表面にでてきて、大なり小なりのあやまちをおかすことはさけがたい。
あやまちをおかさぬものは活動しないものだけである。
だから、あやまちをおかすことをおそれてはならない。そのあやまちから学んで、自分の思想をただせばよいのである。
必要なことは、できるだけはやくそれに気づいてあらためることだ。そのためには、つねに、できるだけおおく、仲間の意見、批判をきくことがたいせつである。
このことは、生きかたや愛情の問題についても同様である。この種の問題は、私たちの思想性がもっともあからさまにでやすい問題だ。
しかも、えてして一人だけで考えこみがちである。すると、自分の思想上の弱点が表面にでてきて、ものごとのせまい一面しか見えなくなる。そして、そこだけがすべてであるかのような錯覚がおき、主観的にはまじめに考えているつもりでいて、じつはとんでもない方向にふみまよってしまう。
だから、なにごとも、できるだけ自分一人だけで考えてしまわないようにするという注意が必要だ。仲間にうちあけ、相談する度合におうじて、あやまちをおかす度合もあさくてすみ、おかしたとしても、そこからたちなおることが容易になる。
仲間からはなれて一人になったときは、私たちは「その起源において〔労働者的な意識よりも〕ずっと古く、いっそう細部にわたってしあげられ、はかりしれないほどおおくの普及手段をもっている」ブルジヨア思想(レーニン『なにをなすべきか』)の包囲のもとに、素手でたっているのだと思わねばならない。そうしたとき、私たちは、たやすく自分で自分をいつわり、敵の思想のとりこになってしまうものだ。
コチコチになる必要もないし、クョクョする必要もない。労働者的な楽天性、集団性、戦闘性でいけばいいのである。
一度あやまちをおかしたら、おなじ種類のあやまちを二度くりかえさないようにすることだ。
おなじあやまちを二度おかしたとしたら、それはたんに偶然のものではないと考えて、よくよく検討し、厳重に自戒することだ。
二度ならず三度おかしたとすれば、それはたんに部分的な問題ではなく、自分の思想性の全体、本質にかかわる問題として、仲間の援助のもとに、特別な対策を考慮しなければならない。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p87-91)
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階級闘争の弁証法
敵・味方の力関係は固定的なものではなく、政治・経済の動きを反映し、内外の情勢ともかかわりながら変化するものである。
高度成長期の労働組合運動のように、それなりに経済要求が実現できる時代もあったが、今日は、そうはいかない。たたかいが前進すれば、かならず相手もそこから学び、数倍の力をもって反撃にでる。これが階級闘争の弁証法である。
有利な状況のとき、一定の「自覚」でたたかうことができても、局面が変わるとその程度の自覚≠ナはたちむかえなくなる。
やってもダメ……という状況がつづくとたたかうことが困難になり、ついにはたたかう立場にたつことさえ疑問に思うようになる。
困難な時期には、子育てのこと、老人問題、住宅問題、仕事上の困難、家族や親戚の問題、健康のことなど身のまわりに解決を要する問題や、経済的な苦しみが増えてくるのが法則である。
変革の高い志に影がさし、自分のことしか考えられなくなり、生きかたの基本がくずれはじめる。くずれた自分を弁護するため、それを容認してくれる理論≠探しはじめる。こんなときのために支配階級は退廃文化からイデオロギーまでとりそろえて待っている。この点では支配階級の方がずっと歴史は古く、人民の闘志を打ちくだき、志気を萎えさせるものを蓄積し、整備している。
思想攻撃は他の攻撃とちがって、すぐには直接的な変化をもたらさず、目にみえないだけに始末がわるい。
心の底に沈澱し、長期にわたって潜伏し、そして頭をもたげる。
そのときは、すでに「自分がそう思う」と自分の思想にまでなっているから恐ろしい。
(中田進「現代の社会観 ──序章 現代社会と労働者階級」現代の社会科学@ 学習の友社 p38-39)
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◎「失敗をおそれず創造的な活動にとりくむものだけが、失敗から学んでこれを成功にかえる能力をもつ。ものごとについての生きた認識をもちうるのも、そのような人だけである」と。