学習通信070416
◎女にとっての損は男にとっても損です……

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愛されながら男性をかえる

 男女差別を「女の損で男の得」と考えている男性の意識をかえることは、ただごとではありません。そのためにはまず、男性から愛される女性になることが大切です。

 愛している女性から、こよなく愛されている男性は、大変素直に女性の言葉に耳をかたむけるからです。きらわれてしまっては、努力のしようがありません。

 男性はむしろ若いときほど、古い世代に生きた親の意識の影響をうけて、女性感も古くさい場合が多いのです。素直にやさしく無条件に男性を信じて「命あずけます」とばかりに、べったり頼りきってくる女性を好みがちです。

 だからといって、いつまでも「あなた好みの女性」でいていいでしょうか。男性はあえぎ、あえぎ、一家をささえて生きる人生に疲れをおぼえはじめてくると、可愛いはずの妻子が重荷にさえなってきます。

 夢と現実のくいちがいに気づかず、歴史の流れの方向を学びとることをおこたっていると、男女のお互への期待はちぐはぐとなり、「愛されている」と信じていたのに、ふと気づいたときには、二人の間に越えがたい溝ができていた、ということになりかねません。

 長い女の一生を、ずっと愛されつづけるという大仕事は、目標をもって歩きはじめたとき、実に魅力あるものとなります。

 それでは、なにがなんでも男性から愛されればいいかというと、愛され方にもいろいろありますから、むづかしいわけです。

 一時的に男性を引きつけるのは、わけないことです。かも鹿のような、かっこいい足が二本もあれば十分です。超ミニのスカートをはいて、ニッコリほほえみかければ、ついてくる男はいくらでもいます。ピンク色のふくよかな胸のふくらみを、ちらつかせるだけでも、ボ一イハントはできます。

 こんな愛され方では、メスがオスをひきつけたにすぎず、犬や猫だってやっていますし、あくまでも一時的です。

 生れたばかりの女の赤ちゃんは、平均七四才まで生きるのですから、二〇才まで生きてきた若い娘たちは、八○才までは生きます。八○才でも一○○才でも、まぎれもなく女性は女性です。

 女性としての八○年間をどう生きるか、どう愛されるか、どう愛するかが問題です。恋人や夫にだけでなく、他の異性にも人間としての女性としての魅力を感じさせながら、ただ一人の男性、つまり恋人や夫の心を自分だけに引きつけておかなければなりません。一度結婚すれば、少くとも、四〇、五〇年間はただ一人の男性と一緒にくらすわけですからその長い間、夫が他の女性に、魅力を感ずることがあっても、決して本気に浮気という実践にはうつさず、やっぱり「わが妻が最高だ」というふうでなくては困ります。「女房とたたみは新しいほどいい」といったのは、女が男の性の道具であった時代の話です。

 かも鹿の足も、いつかは二本の枯木になるでしょうし、ふくよかな胸もいずれはしぼむでしよう。

 それでも愛し愛されつづけられるのは、独立したお互の人格をみとめあいながら、二人の過去のつみかさねの上に立ってこそ、ともに歩んだ二人だけの歴史の尊さがあるからこそです。これこそ、人間にだけ与えられた幸せというものです。

 上下関係にある男と女であっては、幸せの一部分は得られたとしても、決して全面的な、より深い幸せはえられません。「無知なる幸せ」で、永遠に女性は人間としての幸せをつかめませんし、長い人生航路の途上で、一度や二度は「無知なる幸せ」ではすまされない場面にぶつかり、口借しさに、「ほぞ」をかむ思いをします。

 男と女は、お互に愛し愛されたいのに、それを阻害しているもの、それこそ男女の上下関係であり、男女差別です。男女の差別はあらゆる差別の中の一つではなく、すべての差別が集中的にあらわれた形です。このゆがんだ関係をただす仕事は、女性の自覚なしには、どうしてなしえましよう。五〇〇〇年もつづいた「女性の世界史的敗北」の歴史をいっぺんにとりもどすことは、それこそ大難事業です。男性と女性とでは男女差別についての理解度と感度がちがうのに、一緒に足なみそろえて歩まねばならないところにこの仕事のむづかしさがあります。女性だけがあせってせっついても、かえって男性を遠ざけてしまいます。かといって、男にこび、へつらい、「あなた好みの女」になって愛されるのでは、「無知の幸せ」を一歩も出ることはできません。

 同性の女性からみても魅力的で、老人からも子どもからも好かれる、こういう人間的魅力をもつこと、これが本当に男性を引きつける底力となります。その上で、男性のおかれている立場を十分に理解し、その力強さを尊ぶとともに、その弱さをもいたわる。だが、まちがいは、まちがいとはっきりといい、不正は不正といえなければなりません。憎まず、感情的にならず、理をつくして、わかるまで、何べんも、くりかえし、くりかえしいわねばなりません。

 「女にとっての損は男にとっても損です。」と。生意気といわれようと、「女らしく」ないといわれようと、いつもニッコリ笑って「まちがいですよ」といいつづける勇気と忍耐がいります。時代は波をうって新しい時代へむかって流れています。この勇気と忍耐は日に日にむくわれていきます。これはあくまでも努力目標ですが、並大抵のことではなしえないのだという覚悟の上で努力をしなければ、現実の社会はまだまだ男中心のしくみになっていますから、ややもすると身勝手な男性ペースにひっぱりこまれる危険性があります。

 つまり男性の生き方をかえるということは、まず、女性自身が自己変革することからはじめなければなりません。女性解放を叫びながら、男の収入の少いのをきらったり「男が台所に立っているのは、いやだ」という感覚では、どうしようもありません。女性が変らないで、どうして男をかえられましよう。そのためにこそ、学習が必要になってきます。その学習はどのように自分をかえるのかが一番の問題です。学習することは、教養を、ただ、なんとなく身につけるのではなく、実践するためにこそ、学習はあるのだと思います。

 明治、大正に生れ人権意識にめざめ、先進的な生き方をしてきた女性は、男性に裏切られ結婚にやぶれ、みた目には不幸な人が多くいました。こんなところから「離婚は女の勲章」ということがいわれましたが、これはつまり、女が独立して生きるには、離婚を覚悟しなければならないということです。堂々と離婚できる女性は「勲章」をやってもいいほどの勇気があるという意味でしょう。

 しかし、現代はちがいます。女性が経済的に独立することをきらう男性はまだ、たくさんいるでしようが、新しい意識を持った「新しい時代の男性」があらわれてきました。女性が自ら生計をたて、労働の場で、社会生活の上で、家庭生活のなかで、素直に、明るく、男をささえあるときは男にささえられながら、不正と闘い、働くものの社会作りに、とびまわっている女性を、「美しい」「たのもしい」「尊敬にあたいする」「大好きだ」という評価をする男性がふえています。まだ数からすれば少いといわねばなりませんが、つぎつぎとこのような男性が育ってきていることは、なんとうれしいことでしょう。「離婚は女性の勲章」ではなくなりつつあります。

 「あいつは女に甘い、鼻の下が長い、女の尻にしかれている」といった同性からの批判にもひるまず、自信をもってほほえみかけながら、新しい男性の生き方を行動で示している男性をみのがしてはなりません。男性もまた大きく変ってきています。それがどんなに多くの女性をはげまし、勇気づけていることでしょう。
(田中美智子著「恋愛・結婚と生きがい」汐文社 p87-92)

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男の子にも家事をさせる

 おかあさんに連れられた幼い男の子がつまずいてころびました。

 「おっと、つよい、つよい。坊や男の子だもんね、泣かないよね、つよい、つよい」

 子どもはなんにもいわないけれど、考えてみると、ちょっとわからない。なぜ男の子は痛くても泣かない方がよいのか? 女の子なら痛ければ泣いてもよいのか? 痛みにたいする態度としては、人間として共通のものがあるのではなく、男と女とでちがうものなのか?

 親子の食事がすみました。おかあさんは、急ぎの用をするので、女の子に茶わん洗いを頼みました。男の子はテレビの前にすわったままです。

 なぜ茶わん洗いは女の子にさせ、男の子はテレビを見ていてよいのか?

 同様に、なぜ洗たくやぞうきんがけは女の子の仕事であり、男の子は力仕事のようなときだけ働けばよいのか?

 ある小学校で五年生の男の子が数人で、一人の女の子を素裸にして、リンチを加えたそうです。この事件を究明しようとするおとなたちにたいして、男の子たちは少しも悪びれず、こんなふうに答えたというのです。「あいつは口ばかり達者で、生意気でわるいやつだから天罰なんだ」「ぼくは親友に頼まれてやったんだから、約束を果たしたまでだ」と。

 ここにはテレビの画面から学びとった、やくざの論理が感じられないでしょうか? 異性にたいする関心の芽ぐむなかで、女の子軽視のにおいがただよってはいないでしょうか?

 「うちでは男の子にたいして、そんなしつけはしていない」といわれる方はけっこうです。だが、家庭内のこまごました雑事が、母親に片よってまつわりついている現状のもとでは「男女平等しつけ」は、なかなか思い通りにはいきません。しかし、共働きのひろがるなかで、男の子にもやはり家事分担を習慣づけなければならないでしょう。そして男の子にもやさしい面がなければならず、女の子にも強い面が必要なはずです。いまの政府・自民党の教育は、「男の子は──、女の子は──、こういうように生まれついているのだ」式の差別的宿命観をうえつけるものです。

 私たちは男の子を、真に人間的で、女性軽視のない勤労階級の息子として育てるために、小さいところにも注意をはらうべきです。それでこそ、息子の将来の家庭も幸福となりうるはずですから。大きくなるにつれ、男女の体力のちがいから、仕事がわかれてくることはありますが、たがいに理解しあい、励けあうのが原則です。
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本出版社 p108-109)

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◎「つまり男性の生き方をかえるということは、まず、女性自身が自己変革することからはじめなければなりません」と。